久賀島教会へ
大正8年、奈留島の隣島、久賀島の教会に転任した。この島は前記の通り、私が明治初年神学校に入学して間もなく逃避したところで、私にとっては懐かしい島だった。 久賀島の永里教会に着任すると間もなく、巡回地区の細石流(ざざれ)に聖堂を建設することになった。地区の人達は五島で一番きれいな聖堂を造りたいと言って、度々会議を開いて敷地を仮定し、設計図を選考したが、この天主堂が完成するまでに二つの不思議なお恵みがあった。
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敷地の決定
聖堂の敷地は3度目に決定した。第1の候補地は村の中央に当たるところで、1年ばかり前に前任神父が信者たちと図って決定した所だった。しかし場所が険阻なうえに、敷地としては狭いと思ったので、信者達と相談してここは止めることにした。 二番目に決まった敷地は地区のやや中央にある畑だった。海岸近く、すぐ側に高い断崖があり、崖下の海から激しい潮風が吹き上げる所だった。聞くところでは、数年前まで農作物は風に吹き折られてほとんど育たなかったが、近ごろ、断崖の上に小松を植えてからは、いくらか採れるようになったという。
私は不安にかられた。小さい松を植えてから農作物が育つようになったとはいえ、風はその畑の地面から(何メ-トル)上のほうを吹き抜けるか分らない危険ではないか、と幾度も注意したが、信者達は、偏った地点に聖堂を建てることを嫌って、私の言葉に耳を傾けようとしなかった。 私は、別に安全な三番目の候補地を示して、ここに決定してはどうかと勧めたが賛成する者がなかった。仕方がないので私も条件付きでその二番目の候補地を承諾することにした。
五島の西岸の台風はものすごい。潮を含んだ風が激しく岸壁に当たって上方に吹き上げる時は、大きな災害をもたらすのである。私は隣島の奈留島教会に長くいたので、それをよく知っていただけにどうしても安心出来ず、信者達に条件を持ち出したのだった。 「ただ今決定した敷地に聖堂を建設しても、風害の憂いはないと請け合い書を作って、戸主は一人残らず捺印して持参したなら私も賛成しよう」と言った。信者達は協議をした後、主だった人を5,6人私のところへ相談に来させた。 「今の敷地は、風の心配はいりませんので、請け合い書などなしに同意していただきたい」と頼んできた。
私は、「自分の良心に従って請け合い書なしには同意するわけにはいかない。一人でも捺印しない者があれば、風害の心配があるとしか考えられない。ぜひ、全員の請け合い書を出して貰いたい。」こう言って信者達を帰した。 やがて請け合い書は全員が捺印して私の手元に届けられた。私はすぐ、敷地決定を司教に報告して、その翌日、敷地普請を指図する準備のためその場所を見に行った。 私は現場近くの家に腰かけて、敷地に決まった畑のほうを眺めていると、そこに着くままで見えてなかった霧が、その畑の側にある高さ30メ-トルぐらいの断崖から急に上がってきてその畑の上を通り始めた。
私は、この霧の通る高さを見れば、風がどの程度の高さに吹き抜けるかが分ると思ったので、近くの丘に駆け上がってそれを調べた。 霧は、畑の上を約2メ-トルと8メ-トルの高さに通っていることが分かった。ところがしばらくすると、突然に、強い風が山手の崖から吹きおろして非常な勢いでその霧を吹き散らした。
その狂風は30分ぐらいの間に三たび起こった。私のほかに、現場にいた二人の青年もこれを目撃した。その日は空に全く雲のない好天気で、島にも海にも風はなく、沖には一艘の帆かけ船さえ見かけないほどの穏やかな日和だった。私はこれを見てつくづく考えた。 「このような風のない日和の時でさえ、激しい風が起こるとすれば、暴風の時はどんなだろうか。これは、神がここをお許しにならない兆しではあるまいか」 こう思ったので、信者達が差し出した請け合い書に不審を抱いた。
私は仮聖堂に帰って、信者達を一人一人呼んで、そのことを尋ねてみると、やはり私の心配は当たっていた。村の中央に建てたいので、皆がよいだろうと言うから自分も印を押した、という人が多かったからである。それでは本当の保証にはならないし、請け合い書は信用できない、私は信者達に今日起こった出来事を話し、また、二人の青年もこれを証言したので、信者達は異存なく、私が前に示した三番目の候補地を即座に決定した。
この細石流地区は久賀島西北端の険阻な僻地で極めて不便な所にあった。それまで教会はなく、信者達は毎日曜日、険しい山道を何里も通ってミサにあずかっていた。信者ばかりの部落だったから、早く教会を建設したい、と随分前から要望されていた。
こんな僻地なので、地区の中央にはなかなか良い敷地がなく、第三の候補地も偏った所だったが止むを得なかった。 敷地に決定した畑は地主がそっくり寄付した。信者の役員たちは私の部屋に集まって、敷地普請の計画を相談したが、その時に、‶意外な事実″が私の耳に入った。 「敷地に決まったこの畑は、もと深い山であった。明治の初めごろ、この辺鄙な山奥に久賀島の信者がみな集まり、ひそかに教理を学んでいた。そこを役人らに踏み込まれてことごとく捕えられ、狭い牢屋に押し込まれて、殉教した人も多かった」と言うことだった。久賀島の牢屋攻めの残酷なことは他に例を見ないと言われたほどで、その人達がひそかに強い信仰を養っていた場所であると、分って、私は嬉し涙にむせんだ。
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