第5代主任司祭 島田喜蔵

 

島田神父年表

出生 安政3315日(1858)、東京神学校入学

慶応3年(1867)、長崎神学校転校

明治6年(1867)、司祭叙階

明治8年(1875)、大分、高田、臼杵布教

明治20年~23年、鹿児島布教

明治23年、高島小教区司牧

明治29年~32年、久留米地区布教

明治32年、奈留島小教区司牧

明治5年~大正8年、久賀島永里小教区司牧

大正8年~昭和3年、玉之浦井持小教区司牧

昭和3年~11年、大田尾小教区司牧

昭和11年~14年、大浦天主堂静養

昭和14年~19年、鯛の浦教会司牧

昭和19年~23年、鯛ノ浦で静養、

死去、昭和23327

 

隠れキリシタンから司祭に トマス島田喜蔵神父の生涯       中田秀和

憧れの叙階

明治20年の春、神学校の卒業が目前に迫ったある日、私はクザン司教に呼ばれ、「あなたは司祭になる意思がありますか」と改めて尋ねられたので、私はこう答えた。「今日までながらくの勉強はすべて司祭になるためのものでした。しかし、ご存じの通り、私は学問が人並みに出来ていませんので、異教者に布教する能力はありません。信者の司牧に使ってくださるなら喜んで司祭になります」 すると司教は続けて言われた「そのことは私が知っているから。あなたは何も心配することはない」 いよいよ司祭の位階を授かる日が来た。

 

明治20年(1887317日は、私にとって生涯忘れることのできない記念日である。 明治初年に入学以来、迫害を逃れて西に東に逃避し、多くの困難を忍んで勉強したが、早や20年の歳月が流れていたのである。私の喜びにも増して、子供のころからそのために教育し祈ってくれた母の喜びは、例えようもないほどだった。

 

私は神にお恵みを深く感謝し、司祭としての生涯を聖母マリアのおん手に委ねた。叙階の後、五島で初ミサを行うため母とともに出発した。五島瀬戸脇の船吉兄が、わざわざ、新しい大型の漕ぎ船を造って迎えに来ていたので、ラゲ神父と平戸の外人神父が同乗して早朝五島へ出発した。 80キロの五島灘を一気に渡り、その日のうちに五島江袋に到着しようというので、漕ぎ手の信者たちは交代で懸命に櫓を漕いだ。船が五島灘の中ほどに来たころ、二艘の漕ぎ船が迎えてくれ、私達の船に長い綱をかけて勢いよく曳きたてた。

 

その日、五島江袋の山頂には見張りが置かれていた。私達の船が東の海に見え出すと、合図のホラ貝を吹き鳴らし、フレノ-神父やマルマン神父の指揮で選り抜きの若者達が10艘の船に乗って一斉に差し向けられた。私達の船が上五島北端の野崎島を通るころ、その10艘の曳き船が速力を競いながらやってきて、私の祝福を受けると、二艘の船にそれぞれに曳き綱をかけて3段になり、櫓調子も勇ましく曳きたてた。 

 

江袋に着いたのは夕方であったが、五島各地から集まった歓迎の人々で浜辺から上の聖堂まで埋めつくされていた。 私はまず、父の墓前で祈りをささげ、私を司祭にするために苦労をし、この世の生命を縮めたであろう天国の父に深く感謝した。 翌日、思いで深い生地の聖堂で初ミサをささげた。ミサが終わると歓迎会が開かれ、祝宴が終わると神父方の話し合いがあった。下五島主任のマルマン神父は、「五島最初の神父であるから中五島、下五島でもぜひミサを行ってもらいたい」と上五島の主任のフレノ-神父に頼んだ、神父は上五島地区の信徒代表に図った。「それはお互いの喜びであるから、どうぞ下五島、中五島にも連れて行ってくれるように」との返事だった。それで私はまた、漕ぎ船で五島列島の西海を真っすぐに下五島へ行き、水の浦の天主堂でミサをささげ、帰りに中五島、大平天主堂でもささげて、西海を真っすぐに江袋へ引き返した。
  
 
 

不思議な道ずれ

そのうちに、司教から帰校を命じられた日が来たので、私は新任地を気にしながら長崎へ帰った。 ところがクザン神父は不在で、その前日に大阪へ立たれたとのことだった。私は当惑して神学校の校長に相談すると、司教は私への辞令を校長に委託していることが分かった。それはどこだろうかと思ったら「大分」だった。大分にはまだ教会はなかったが、そこに行って布教するように、というのが司教の命令だった。

 

  私は校長からそれを聞くと、しばし言葉も出なかった。しかし、神にささげた身であれば神の摂理に従わねばならない。私は黙って承諾した。司教が、私が帰る前日に旅行に出られたお気持ちも分るような気がした。 私は新任地への辞令を受諾すると、校長は道中の困難を心配して「大分に行くには道中が遠いし、困難であるからス-タンを脱いで和服を着て行ったほうがよろしい」と注意された。

 

私は、「この聖い制服を着せられた以上は、どんな困難に遭っても脱ぎたくありません。道中はもちろん、布教の時も、死ぬまで着用したいのです」と答えた。校長は「それほどの覚悟があるならば、あなたが望むよう通り着続けなさい」と励ましてくれた。

 
 

奈留島教会

この後3年ぐらいたって久留米の布教を後任に譲り、五島の奈留島小教区を司牧することになった。ここは五島列島の中央部に当たる島々で、葛島、奈留島、若松島、日の島などにまたがり、隠れキリシタンの多いところで、その人々への布教も任務の一つだった。本拠は奈留本島の属島である葛島の教会で、着任後まもなく奈留島の相の浦と江上とにそれぞれ聖堂を建設した。 

 

葛島からの外出はいつでも小舟だった。玄界灘の風雨は激しく、難破船を見ることもしばしばで、荒れている日が多かった。わたしは、近くの島を司牧していた外人神父と相談して、せめて風雨の穏やかな時の外出用にと、自転車のペダルを踏んでスクリュ-を回す小舟を考えた。

 

長い間二人で工夫した挙句、陸上で大樽に水を入れ、スクリュ-を差し込んで実験したところ、成功と思われたので二人で海上に乗り出して試してみた。しかし、スクリュ-が小さいと船はなかなか進まない。大きくすると足のほうがすぐに疲れてしまう。結局、長い間の研究も徒労に終わった。当時は小型機械船やモーターボートはなく、すべて櫓船に頼るほかはなかったので大変不便だった。 この奈留島司牧時代に特に感じた出来事を話してみたい。

 
 

天上の合唱

奈留島の宿輪地区で隠れキリシタンの宿輪常蔵一家が改宗した。信徒総代にもなったので、宿輪に巡回の折りはその家を仮聖堂としてミサを行なった。その人の父親和五郎は一緒に帰正したが、母親キヨは何のためか10年ばかり洗礼を延ばしていた。 その後、本人から申し出があったので、教理を学ばせて洗礼を授けたが、その後は熱心に信仰生活に励み、受洗後2年ばかりたって80歳で世を去った。 

 

キヨは隠居の病床で初聖体を受けたが、其のころから不思議なことを口にするようになった。近親の人達に「私の左右には白衣を着けた、きれいな子供達がたくさんおりますよ」と言ったり、常蔵の娘イキに「お前達の側にも白い服を着た美しい子供達が見えるか」と尋ねることが度々だった。近親者たちは、老衰のための幻覚だと思って別に気にも留めないでいた。

 

しかし、それがいよいよ事実となって現われたのである。 ある金曜日の真夜中のことだった。重体のキヨを見守っていた人達は、隣の本家の仮祭壇の部屋と思われるところから、大勢の子供達が祈る声を聞いた。常蔵の妻オフクは、今頃本家で子供達が起きて祈りをしているのだろうか、と思って行ってみたが、みな眠っていて何事もなかった。 

 

その祈りの声を聞いた人たちの話によると、その声の綺麗なことは例えられないほどで、祈りのように、また、歌のように先唱し、唱和して唱えてが何の祈りであるかは分らなかったという。病人のそばにいた宿輪源太郎、白石キノ、田上キノ、常蔵の妻オフクの4人は皆、その美しい歌声を聞いたと私に証言した。 この人達はしばらく夢中でその美しい〝天井の合唱?〞に聞き入ったが、「これは私達に病人の善終のために祈りなさい、という天国からの知らせだろう」と言って、本家に寝ていた人達を起こして一緒にロザリオの祈りを唱えると、その歌声は次第に聞こえなくなったという。キヨはその翌日の朝、安らかな死を遂げた。

 

 この、キヨの人柄について少し述べたい。キヨは隠れキリシタンの家に生まれ、洗礼は家族より遅れたが、かねてから大変に誠実な人柄で、愛情深く、年上の人にも年下の人にも差別なく従っていた。嫁のオフクには、怒ったことは勿論、不機嫌な顔さえ見せたことはなく、いつも微笑をたたえていたという。また他人に対しても同じで、他人と争ったり、他人を非難すること事が全くなかったと言われている。 そこで私は思った。「キリストは『子供のようにならなければ天国に入ることは出来ない』と言った。キヨはそのみ言葉にかない、子供のように単純で、謙遜して誰にでも服従したので、多くの聖なる子供達に迎えられて天国へ行ったのだろう」と。

 
 

久賀島教会へ

大正8年、奈留島の隣島、久賀島の教会に転任した。この島は前記の通り、私が明治初年神学校に入学して間もなく逃避したところで、私にとっては懐かしい島だった。 久賀島の永里教会に着任すると間もなく、巡回地区の細石流(ざざれ)に聖堂を建設することになった。地区の人達は五島で一番きれいな聖堂を造りたいと言って、度々会議を開いて敷地を仮定し、設計図を選考したが、この天主堂が完成するまでに二つの不思議なお恵みがあった。

1      敷地の決定

聖堂の敷地は3度目に決定した。第1の候補地は村の中央に当たるところで、1年ばかり前に前任神父が信者たちと図って決定した所だった。しかし場所が険阻なうえに、敷地としては狭いと思ったので、信者達と相談してここは止めることにした。 二番目に決まった敷地は地区のやや中央にある畑だった。海岸近く、すぐ側に高い断崖があり、崖下の海から激しい潮風が吹き上げる所だった。聞くところでは、数年前まで農作物は風に吹き折られてほとんど育たなかったが、近ごろ、断崖の上に小松を植えてからは、いくらか採れるようになったという。

 

 私は不安にかられた。小さい松を植えてから農作物が育つようになったとはいえ、風はその畑の地面から(何メ-トル)上のほうを吹き抜けるか分らない危険ではないか、と幾度も注意したが、信者達は、偏った地点に聖堂を建てることを嫌って、私の言葉に耳を傾けようとしなかった。 私は、別に安全な三番目の候補地を示して、ここに決定してはどうかと勧めたが賛成する者がなかった。仕方がないので私も条件付きでその二番目の候補地を承諾することにした。

 

 五島の西岸の台風はものすごい。潮を含んだ風が激しく岸壁に当たって上方に吹き上げる時は、大きな災害をもたらすのである。私は隣島の奈留島教会に長くいたので、それをよく知っていただけにどうしても安心出来ず、信者達に条件を持ち出したのだった。 「ただ今決定した敷地に聖堂を建設しても、風害の憂いはないと請け合い書を作って、戸主は一人残らず捺印して持参したなら私も賛成しよう」と言った。信者達は協議をした後、主だった人を5,6人私のところへ相談に来させた。 「今の敷地は、風の心配はいりませんので、請け合い書などなしに同意していただきたい」と頼んできた。

 

私は、「自分の良心に従って請け合い書なしには同意するわけにはいかない。一人でも捺印しない者があれば、風害の心配があるとしか考えられない。ぜひ、全員の請け合い書を出して貰いたい。」こう言って信者達を帰した。 やがて請け合い書は全員が捺印して私の手元に届けられた。私はすぐ、敷地決定を司教に報告して、その翌日、敷地普請を指図する準備のためその場所を見に行った。  私は現場近くの家に腰かけて、敷地に決まった畑のほうを眺めていると、そこに着くままで見えてなかった霧が、その畑の側にある高さ30メ-トルぐらいの断崖から急に上がってきてその畑の上を通り始めた。

 

私は、この霧の通る高さを見れば、風がどの程度の高さに吹き抜けるかが分ると思ったので、近くの丘に駆け上がってそれを調べた。 霧は、畑の上を約2メ-トルと8メ-トルの高さに通っていることが分かった。ところがしばらくすると、突然に、強い風が山手の崖から吹きおろして非常な勢いでその霧を吹き散らした。

 

その狂風は30分ぐらいの間に三たび起こった。私のほかに、現場にいた二人の青年もこれを目撃した。その日は空に全く雲のない好天気で、島にも海にも風はなく、沖には一艘の帆かけ船さえ見かけないほどの穏やかな日和だった。私はこれを見てつくづく考えた。 「このような風のない日和の時でさえ、激しい風が起こるとすれば、暴風の時はどんなだろうか。これは、神がここをお許しにならない兆しではあるまいか」 こう思ったので、信者達が差し出した請け合い書に不審を抱いた。

 

 私は仮聖堂に帰って、信者達を一人一人呼んで、そのことを尋ねてみると、やはり私の心配は当たっていた。村の中央に建てたいので、皆がよいだろうと言うから自分も印を押した、という人が多かったからである。それでは本当の保証にはならないし、請け合い書は信用できない、私は信者達に今日起こった出来事を話し、また、二人の青年もこれを証言したので、信者達は異存なく、私が前に示した三番目の候補地を即座に決定した。 

 

 この細石流地区は久賀島西北端の険阻な僻地で極めて不便な所にあった。それまで教会はなく、信者達は毎日曜日、険しい山道を何里も通ってミサにあずかっていた。信者ばかりの部落だったから、早く教会を建設したい、と随分前から要望されていた。 

 

こんな僻地なので、地区の中央にはなかなか良い敷地がなく、第三の候補地も偏った所だったが止むを得なかった。 敷地に決定した畑は地主がそっくり寄付した。信者の役員たちは私の部屋に集まって、敷地普請の計画を相談したが、その時に、‶意外な事実″が私の耳に入った。 「敷地に決まったこの畑は、もと深い山であった。明治の初めごろ、この辺鄙な山奥に久賀島の信者がみな集まり、ひそかに教理を学んでいた。そこを役人らに踏み込まれてことごとく捕えられ、狭い牢屋に押し込まれて、殉教した人も多かった」と言うことだった。久賀島の牢屋攻めの残酷なことは他に例を見ないと言われたほどで、その人達がひそかに強い信仰を養っていた場所であると、分って、私は嬉し涙にむせんだ。

 
 

2 材木の運搬

この聖堂の建築に必要な材木のうち、松材はすべて島のものを信者達が寄進した。しかし、大切な‶杉材の大物″は島にないので、海を約40キロばかり隔てた上五島の相河から買い入れた。 その材木は、相河の海岸から川に沿って坂道を約4キロばかり登った山奥で買って伐り倒しておき、海岸までの運搬は相河の人に請け負わせていた。

 

しかし、なかなか運び出してくれなかった。大工が来て仕事を始めてからも、何回となく催促したがそれでもだめだった。仕方がないので信者達が運び出すことになり、20余名の若者達が幾艘かの櫓船で相河に向かった。海岸まで運び出すと船にも積めるし、海上を曳いていくことも出来る。信者達は相河に着くと早速、木材の置いてある山奥へ登って行った。しかし、一同は現場に着くと全く失望してしまった。

 

思いのほか巨大な木材が125本ありいずれも長いので、曲がりくねった坂道を担ぐことも、曳き出すことも出来ない。近くに小川、相河川上流があるが、大洪水でも出ない限り流すことは出来ないので、一同は全く途方にくれた、とにかく昼食を炊こうと薪に火をつけた。 ところがほどなくして空模様が変わり、急に雨がポツリポツリと降り出した。信者達は大木の根元などに雨を避けたがたちまち大降りになってしまった。

 

炊きあげた昼食を食べることさえ出来ないので、みんなずぶぬれになって山を下り、相河のある家に宿を頼んだ。ものすごい大雨でその日のうちに止むとは考えられなかったからである。 ところが、どしゃ降りに降り続いた雨は、23時間後に全く止んで青空が見え始めた。川口に行ってみると水が氾濫している。これなら、あるいは木材を流すことが出来るかもしれない、と皆、木材のある山に駆け上がった。 

 

来てみると小川は溢れており、木材の一部はすでに水に浮いている。若者たちの喜びは一通りでなかった。大急ぎで木材を運んでは川に流し、最後の1本を流すころは減水のため少し苦労したが、それでも全部を海岸まで流し出すことが出来た。 その後で、相河の異教者の人達が、自分達の材木を流そうとしたけれども1本も流すことが出来なかったという。 信者達は失望落胆していた時だったから、その喜びはひとしおで、「これこそ神のお恵みであろう」と言って心から感謝の祈りをささげた。また、異教者の相河の人達も、聖堂を建てるためのご加護である、と感嘆し、これを聞いた信者達も厚く神に感謝した。

 
 

ひげと煙草の履歴

私は幼いころ、よく女の子供に間違えられたが、30歳を過ぎて神父になってからも、子供に見られて困ることがあった。 叙階後大分に布教した時に、西洋人の神父から、あまり若く見られると損だからひげをたてたらどうか、と勧められたのがひげをはやした始まりである。その後黙想会のため長崎へ帰ったが、少し恥ずかしい思いをした。 23年たって鹿児島に布教を始めた時に、考えることがあって一時剃ったことがある。

 

しかし間もなく伸ばして、それからは一度も剃らなかった。 煙草は、大分から臼杵へ、そして鹿児島へと布教し、特に対談布教をしているうちに好きになり、その後、司牧生活に入って久賀島に赴任したころは、片時も手離せないほどの好物になってしまった。こうなっては時間の浪費となり、聖務の遂行にも妨げになるので、何とかして止めようと思っていた。

 

そのうちに強い決心をして一度止めてみたが、大変苦しんだ後2か月ぐらいで負けてしまった。私はすっかり落胆していたが、たまたま五島から長崎間の汽船の中で次のような客のやりとりを聞いたのである。 甲「あなたは○○さんではありませんか」 乙「そうです。

 

しばらくでした」 甲「すっかり見違えるように太りましたね」 乙「煙草を止めたのです。それから体の調子がよくなって健康を回復しました……」 私はこの会話を聞いて考えた。「一般の人でさえ煙草を止めることが出来るのに、自分はなんという情けないことだろうか。このような弱い意志では信者達にも恥ずかしい。これからはどんなことがあっても断然止めよう」と固く決心してそれから完全に止めてしまった。

 

しかし、それは簡単なことではなかった。そのために随分長く苦しんだ。何かあると夢中になって右に左に煙草入れを探す有様だった。‶煙草は止めているのだ″ときづいてからの苦痛はたとえられないほどだった。しかし、3年ぐらいたつと大分しのぎよくなり、その後は思いですこともなくなった。

 
 

あとがき  老師の晩年 玉之浦教会へ

トマス島田喜蔵師は、昭和34月に久賀島永里教会から、五島の南端、玉之浦井持浦教会(現在玉之浦教会)に転任した。 玉之浦港は当時、以西底曳網漁船群の根拠地として栄え、近くに弘法大使が渡唐の折寄港して開山したと言われる大宝寺があり、その対岸の入江に赤煉瓦造りの井持浦天主堂が建てられている。 天主堂の横には80年余年前、五島の信者が総がかりで建設したと言われる日本最古のルルドの洞窟がある。聖母像が安置されて「玉之浦のルルド」と呼ばれ、古くから巡礼地になっている。

 

当時、ここには無料宿泊所が設けられ、修道女達がその世話をしていた。 当時80歳を間近に控えた老師は、井持浦教会を根城に、山道を数キロ離れた僻地の立谷教会も巡回し、その他玉之浦港の漁船の家族や、舟渡しの島や岬などいくつかの部落を合わせて1600余人の信者を一人で司牧した。 師は老体をいとわず主任司祭としての務めを忠実に果たし、毎朝ミサが終わると告白を聴き、その後ルルドで祈るのが朝の日課であった。

 

つねに自身には厳しく、粗食に甘んじ、酒、煙草などの嗜好もなく、それでいて他人には慈愛をもって接し、病人やルルド巡礼者の世話やその相談も喜んで受けた。 筆者は昭和9年ごろ、病を得て巡礼に行き、そのまま約1年間、司祭館に滞在して、司牧の手伝いなどしたが、師にとってこの玉之浦教会時代が、その司牧生活の最盛期ではなかったかと思う。 多くの病者が担ぎ込まれ、師独特の指圧でほとんど完治したのもこの時代であった。

 

 また、このころ、師は司祭館の上の山手にある畑に果樹園を作り、賄いの人の手伝いでぶどうを栽培した。少量の葡萄酒を試作したこともある。運動を兼ねて手入れをするのが楽しみであった。どの種類が土地に合うかも実験した。五島の山野には自生の山葡萄が多いから、五島の土はブドウ栽培に適しているはずだ、と言うのが師の持論で、貧しい農家にこれを勧めた。実際に栽培した農家もあったが病虫害駆除が未熟のため成功しなかった。

 
 

寝言の賛歌

師が井持浦教会に着任して数年たったころ、筆者が寄寓して間もない時のことであった。筆者は別棟の賄い室で、賄い係りの伯母(中田モミ)、師の姪で後に、お告げのマリア修道会会員となる)と夜更けまで話し込んでいると、静まった森の側にある司祭館から歌のような声が聞こえた。伯母は、「ほら、ほら、エトインテ-ラが始まった。

 

もう12時だから寝みましょう」とさり気なく言った。筆者は不審に思った。「今の何ですか」「いつもの寝言ですたい」 筆者はすぐに寝室の前に行って聞き耳を立てた。師は寝室の中で若々しい声で聖歌を歌っていた。『……ボネヴォルンタティス』で歌は終わった。

 

師の寝室はドアが閉まっていて中は真っ暗であった。筆者は伯母に詳しく事情を尋ねたそれによると、毎晩、12時ごろになると、当時大祝日のミサに歌っていたグレゴリアンの栄光の聖歌の一節『エト インテルラ パクス ホミニブスボネ ヴォルンタティス』(善意の人に平安)を寝言に歌うということであった。 筆者は意外に思い、その翌日はわざわざ深夜まで待っていたがやはりその通りだった。

 

12時になると、師はきれいな若々しい声をあげてゆっくり歌い、終わると、きまってむにゃむにゃと小さい寝言に変わっていった。それまで熟睡したまま歌っていると思われた。伯母の話では、以前はその前の句『グロリア イン エクチェルシス デオ』(神に栄光)をうたっていたが、いつの間にか今の句に変わったのだという。筆者は幾度も夜半まで起きて夢の賛歌を聞いた。 昼間老師にそのことについて尋ねると、「叔母からもそう言われるが、私は全然知りません」と素っ気ない返事であった。

 
 

終戦後の老師

師は昭和1111月、佐世保港外大島の太田尾教会主任として転出した。ここの3か年は健康が思わしくなかったようで、同14年4月に長崎大浦天主堂に引退した。ほどなく大病を患い、食事もとれなくなって危篤に陥った。筆者も東京から帰崎して看病に努めた。何とかして師の伝記をものにしたい野心を持っていたので、もう一度回復するようにと祈った。 神の摂理は奇跡的に死を回復に導いた。

 

また以前の健康に帰った師は、昭和194月終戦の前年に、生地に近い五島有川町鯛の浦教会に移り、主任司祭代行として数百人の信徒を司牧することになった(教会は鯛の浦中野にある)。 筆者は同年夏、戦火を避けて東京から五島の中野に疎開したが、90歳を越した老師の熱心な司牧生活には感嘆した。毎朝5時半のミサをささげ、多くの信者に聖体を授け、重病者を見舞い、暇さえあればロザリオを爪繰っていた。

 

また、大祝日の前日ともなれば百人ぐらいの告白を連続して聴くのであった。説教は朗々とした若い声で常に私欲に勝つことを説き、また聖母マリアに信頼することを教えた。  鯛の浦教会の聖母月の務めは印象的であった。5月中は、毎夕信者が多数集まって聖母月の信心業をした。ロザリオ、連梼、霊的読書、賛美歌、夕の祈りなど約1時間もかかったが、その間老師は始めから終わりまで聖母祭壇の側に立って祈り(その頃師は膝を痛めて跪けなかった)終わると深く聖母像に一礼して、ゆっくり帰館するのであった。

 

その頃から一部の人は、老師を百歳神父と呼んだが、それは百歳までは大丈夫だという印象からであったようだ。 太平洋戦争が大詰めになり、鯛の浦の港に特攻隊基地が設けられると、天主堂は軍に接収されて基地の司令部となった。教会は止む無く近くの鯛の浦修道院の養蚕棟に移転し、狭い粗末な部屋を老師の居室とした。この期間は師にとって大変に不自由な生活であった。やがて終戦となり、教会は元に復帰したが、戦後のひどい食糧難や、極度の物資欠乏など老師にも重い十字架が続いた。

 

しかし、老師は泰然自若としていかなる苦難をも柔和に耐え忍んだ。 司祭館の庭ににわか菜園が作られたので、師は喜んでトマトなどの手入れをし、また、司祭館の長い廊下をロザリオを爪繰りながら往復して適度の運動を忘れなかった。食事は菜食を主とし、いつも腹八分目で、健康食についても関心を持っていた。

 

そのためか痩身ながら至極健康に見受けられた。 死の前年の復活祭にはグレゴリオ聖歌の荘厳ミサをささげ、その冬の降誕祭にも夜半のミサを挙行した、明けて、昭和231月、風邪がもとで臥床し、間もなく肺炎を併発して重態に陥った。 師の重態が伝えられると各方面から多くの見舞いが寄せられた。師は危篤に陥っても口述を続け、ある見舞いの人には、「今、司教様の勧めで中田に回想記を書かせています。これが終わるまでは、神様が生命を保たせてくださるでしょう」と言って十字架を忍んだ。 次の2通の手紙は山口大司教様からと横浜の脇田司教様からのものである。

 
 

jMJ 島田神父様

御病気だそうですね。お年だけでも普通の人には病気以上に不自由であるのに、神父様はこれまで特別のお恵みで聖務もごミサもお出来になりましたのは有難いことでした。 然し天主様が、今、お年に加えて病気をお与えくださいましたから、主の御手から快くお受けになっておられるのでしょう。大変なお苦しみもあります由で、お気の毒に存じます。明日から御受難の期に入りますので、主の御苦難と合わせて教区のためにもよく献げて下さい。

 

幸い気候も暖かになりかけましたから、やがて病気も快復して今一度達者になって頂きたいと思います。尤も慾を申しては限りがありませんから、若し天主様が長年の神父様の御奉仕を天国で酬い給う為にお召しになるようでしたら、それにも快くお従い申しましょう。天国でも何卒教区の為に、天主様にお取次下さい。併し地上で又再会が出来ますように祈ります。 3月13日 司教 山口

 

jMJ 敬愛する島田神父様

拝復 ただ今代筆による御書面にて御病気重態とのお知らせを承わり、懐かしい思い出の数々に泣きたい程の衝動に打たれております。若し近い所でしたら本当に飛んでも往きたい、そして御温顔に接したい熱望にかられておりますが、何百里を隔てた今の境遇ではそれも不可能で、やる瀬なき思いに沈むばかりであります。若しかしたらこの手紙さえ間に合わないのではないかと心配しながらこれを書いております。

 

本当に神父様には小さい時から言葉に尽くせない程種々のお世話を戴きました。小心ものの私は、ただ神父様方の温かいお心に、又、お言葉に慰められ強められて今日に至ったのでした。然し今になっても私の心の弱さは変わらないのです。

 

(中略) どうぞ神父様、若しか神父様が早く召されまして天国にお出になられましたなら、あの懐かしい聖母マリア様に、私が終わりまで続くことが出来ますように、弱い私の心を憐れんでくださるように御伝え下さいませ。私は神父様がきっとこのお伝えを受け取って下さると期待しております。 ではどうぞ御心安らかに、聖旨のままに主の御手に在らせられますよう切にお祈りいたします。 右取急ぎ御見舞まで          早々敬具           昭和23315日 脇田 登摩

 

師の口述は師の3日前に一段落した。師は臨終に近づくにつれ病苦を神にささげて絶えず祈った。327日聖金曜日の正午頃から3時頃まで見るに堪えないほど苦しんだが、その後は安らかになってその夜清い魂を天に帰した。享年93歳。その翌日28日に葬式が盛大に行われ。鯛の浦教会墓地に、明治初年殉職したブレル師の墓と並んで埋葬された。

 



  
   
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