田中千代吉主任司祭

 

18代主任司祭 196168

 

パウロ 田中 千代吉(出津)

 

1925116日(大正14年)西彼杵郡外海町西出津郷に生まれる。

1953316日(昭和28年)大浦天主堂で山口司教より叙階。

19534      大浦司教館

195311           飽ノ浦教会助任

19567月(昭和31年)仲知教会主任

19614月(昭和36年)浜脇教会主任

19683月(昭和43年)三井楽教会主任

1970年(昭和45年)3月〜71年(昭和46年)4月貝津教会主任

19833月(昭和58年)黒島教会主任

19913月(平成3年)諫早教会主任

19925月(平成4年)三ッ山教会主任

1998215日(平成10年)聖フランシスコ病院で帰天。73

 
 

田中千代吉師 めでたく叙品

ポーロ田中千代吉師の叙品式は316日午前9時から大浦天主堂で挙行、山口司教様によってめでたく司祭の聖位にあげられた。新司祭は大正14116日黒崎村出津生まれ、昭和133月聖母の騎士神学校入学、翌年9月宮崎神学校転校、183月卒業、219月長崎教区神学生として長崎大神学校に入学、昨年1222日福岡大神学校で助祭にのぼられた。

 
 

浜脇小教区時代

 

カトリック教報昭和4181日発行号

 

新教会や納骨堂建設

“牢屋の窄”殉教100周年に

 

来年11月は、久賀島(五島)牢屋の窄殉教百周年に当たるので地元信者たちの間で次のような記念事業計画が進められている。

1)第一期事業 檜と杉の造林。すでに一万本の植林を終わった。また天然記念物「はまゆう群生地」の保護対策と、殉教記念碑から県道までの道路60メートルの舗装、殉教地入口の整備などのため、全島72戸の信者が7月いっぱい総出で奉仕作業をした。

2)第2期事業 牢屋の窄に納骨の室をつくり、今日までわかっている殉教者の墓五基の遺骨、遺品を納める。これは来年早々着工の予定。

3)第3期事業 殉教地に隣接して教会を建てる。これは人口流出のために細石流、永里、赤仁田各教会の信者が合計29戸に減少したのでこの3教会を1教会として新教会堂を建てるもの。細石流からは少し遠くなるが、みな喜んで建設資金を積み立てている。牢屋の窄は明治元年の迫害で200余名の信者がここの6坪の家に押しこめられ、29名が殉教したところ。悲壮なこの殉教物語は五島キリシタンの花とたたえられている。この度の記念事業は祖先のこの美しい信仰を讃え、感謝すると共に、永く子孫にも伝えようとする信者たちの善意から計画されたものである。

 
 

カトリック教報 昭和4261日発行

 

聖心に対して何をすればよいか 田中千代吉

 

6月はイエズスの聖心の月である。「わが子よなんじの心を我に与えよ」イエズスは私たちの心をきよめ、ご自分のものにするために私どもの心をお望みになります。年おいた聖イエロニモは、救い主のご誕生の洞窟に行き、涙ながらに次のような黙想をなさったそうです。「これはなんと固いうまぶねでしょうか。あなたは私の救いのためにこんなところにお生まれになりました。このご恩にこたえるために、一体私は何をしたらよろしいのでしょう」するとみどりごイエズスは答えられる。

「何もいらない。ただ、いと高き神のご光栄を賛美しなさい」「しかし私はあなたに何かをささげなければ気がすみません、私の持ち物全部でもかまいません」イエズスは答えられる。「天も地もすべては私のものです。だから私は何も必要としません。お金それは貧しい人にさしあげなさい。私にささげたものとして受けとろう」イエロニモは続ける「では喜んでそういたします。けれども何もあなたに与えることができないとは死ぬほどつらいことです」するとみどりごイエズスは「おまえがそんなにまで望むなら私のほしいものを示しましょう。

それはおまえの罪と悪い心です。私はそれを受けよう」「主よ一体それはどんなことですか」「私はおまえの罪を全部引き受けて取り除こう。それが私のほしいものなのだ」「幼き君よ。あなたはなんとおいぼれの私を感動させてくださる方なのでしょう。どうぞ私の一切をお取り下さい。そしてあなたのものを私にお与え下さい。そうするなら私の罪は消えうせ、永遠の救いはたしかめられるでしょう」と。(週日の糧より)

イエロニモにならって全部の罪と悪い心とをイエズスの聖心にささげることが聖心のご要求になられることです。汚れた皿にごちそうを盛り、すすだらけのしかもとり散らした部屋に花を飾る人はいません。ごちそうを盛る前に皿を洗い、清潔にしかも整とんされた部屋にこそ飾られた生花の趣が添えられる。

しかしこのような常識は霊魂に関しては意外にも忘れられるようです。私共の罪と悪い心が少しでも残っている限り、神の恩恵によってみたされることはできません。たとえ心のコップにいくらかでも放漫心があっては神の恩恵の水が注がれるとしても濁りがあって、純すいな清い水にはなりません。自分のためにはわずかな部屋も残さないで、自分の心のコップをあけてしまうことが要求されます。

がんこな心を捨てることができず、罪にみれんを残してはなりません。空にされたコップにこそ神の純すいな水が注がれてコップがみたされます。聖心は御慈悲な方です。だから聖心の中にすべての信頼をおくならば助けと慰めを求めることができます。御主は「罪人の死をのぞみたまわず、かえって罪人の回心して生きんことを望みたもう」のです。小さきテレジアは「イエズスとその聖心をお悲しませするのは信頼の不足であることを記憶して下さい」と申されました。

また、私共の愛と償いとを聖心にあらわすことも私たちの務めです。聖アウグスチノは「愛のあるところに苦しみなく、もし苦しみありとも、その苦しみは変わりてよろこびとなる」と言っている。柔和と謙そんとをもってキリストにならい、日々のおのが十字架を取りてキリストに従うことにより私共の真の愛を示すことができます。聖心は私たちの罪によって傷ついていますので償いは聖心に対して私共に当然要求されることでもあります。

イエズスの愛を拒む冷淡なもののためにも、償いをするよう決心しよう。「なんじに新しき心を与えん。かつ、なんじの肉体より石にて造られたる心を取り除き、肉をもって造られたる心臓を与えん」(エゼキエル
3636)が実現されよう。
 

三井楽小教区時代

 

カトリック教報昭和55101日発行

資料館を建設−教会創設百周年祈年祭−信仰の遺産を守りぬく決意

 

三井楽教会で729日午前9時から教会創設百周年記念祭が行われた。先ず、里脇枢機卿と地元出身や五島の司祭20名の共同司式ミサが、お告げのマリア修道会や宮崎カリタス修道女会のシスター、三井楽町長中村氏ら来賓、多くの信徒とともにささげられた。ミサ後、里脇枢機卿によって、百周年記念資料館が祝別され、記念式典にうつった。信徒代表が次のとおり挨拶した。

「我々の祖先は、今を去る
200年近く前徳川幕府の禁教迫害と幾多の厳しい試練をしのぎながら、この三井楽を安住の地にして居付いた。祖先たちは、信仰の遺産をこの地に植えつけ、子孫に伝えてまいりました。明治1110月、フレノ神父様の手で起工され、明治13年マルマン神父様によって完成された旧三井楽教会は今年で百年目を迎えます。歴史の流れとともに、地域社会の中に和を広げ、本町住民とともに旅する教会として、今日にいたったのであります」次いで中村町長は、「忍耐と勇気を持って信仰を守り続けた祖先と現在のカトリック信徒の根性に実に感動する」と挨拶した。最後に、里脇枢機卿が挨拶に立ち、「口だけでなく真の人間、キリストの証人として自分の能力と立場に応じて、積極的に宣教に参与し、自分と子孫の信仰を深め、神と人とに奉仕することが、祖先から受け継いだ大切な使命である」と述べられた。引き続き、里脇枢機卿から竹口好之助、木戸義男、中村正人、道向秀雄、原田虎次郎、本田利先氏の6氏に感謝状が授与された。その後、祝賀会場を三井楽町中央公民館に移し、約120名の出席者が百周年の喜びを分かち合った。 

 
 

カトリック三井楽教会 創設100周年記念誌 1980101

 

現代に生きる教会づくりを考える たとえ蟻のような歩みであっても-----------

 

三井楽教会は1880(明治13)年1224日祝別・落成され、今年で百周年目を迎える。ここにおいて、教会の存在意義を今一度原点に戻って考えこれからの教会の姿を探り求めたいと思う。

 

三井楽教会主任司祭 田中千代吉

 

一、教会とは

1,旧約においては召し出された者の集まりと云う意味をもっていた。

 

イスラエルの民がモイゼに率いられたてエジプトを脱出し、40年間砂漠をさまよった後にカナアンの地に入ることが出来た。神は多くの民の中からイスラエル人を選んで、この民とだけ契約を結ばれたのである。私達は何かを選ぶ場合には、それなりの価値があり役立つものを考える。しかし神がイスラエルの民を選ぶに当たってはそうではなかった。「主があなたがたをおえらびになったのは、あなたたちがほかのすべての民にくらべて、数が多いからではない。かえって、あなたたちはすべての民のなかでいちばん小さなものにすぎない。

しかし、力強いおん手でみちびきだし、どれいの家から、エジプト王ファラオの手からあなたたちを解放なさったのは、あなたたちに対する主の愛によるものでありあなたたちの先祖にたいしてなさった誓いを守らせたからである」(第二法の書
778)イスラエルの歴史は、小さい、価値のない民が神から選ばれ、この民を愛されたことから始められている。同時に神はモイゼを通じて、イスラエルの民に契約のしるしとして、十戒をさづけられ神とイスラエルは特殊な関係によって結ばれた。このことは教会の初めの姿ともいえる。

 

2,新約において

 

使徒行録1・〜10に述べられているように、キリストが昇天され聖霊が降った直後の教会の姿が見られる。また使徒行録の始めには信者が一緒に集まったことが記されている通り、教会はキリストを信ずる「小さき群」である。「私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ217)イエズスの招きは健康な者や義人ではなく、病める者、罪ある者にたいして向けられている。

一般社会の通念では、有能な者が重んじ、用いられ、無能な者、病める者、貧しい者は顧みられない。しかし教会には、世の人々に顧みられない者、価値のない者、なきに等しい者であると自覚したキリスト者が、神の救いを必要として集まったものである。収税人や罪人、漁師等がキリストの招きに応えて、その弟子になる事によって、「聖霊を受け、神の国が来ることと、復活されたキリストによって救いが与えられることを宣言する」ものである。

これは上からの即ち聖霊によって集められ、導かれ、力が与えられた集まりであった事をあらわしている。「ペトロの言葉を聞き入れた人々は洗礼を受けた。彼等は、使徒達の教えること、兄弟的一致、パンをさくこと(ミサ)祈りをすることに専念した。信者たちは皆一致して生活し、すべてのものを共有していた。また心を一つにして、毎日神殿にまいり家でパンをさき(ミサ)よろこびと真心をもって食事をとっていた。彼等は神を賛美し、すべての人の人望をうけた。こうして主は日々救いの道にはいる人の数を増して下さった」(使徒行録
234章参照)この聖書の中にあらわれている通り、人々が一つの信仰のうちに一緒に集まり、その信仰をお互いに確かめ合い、それを他人に分かちあう共同体であった。

皆のものが一つになるために(ヨハネ
1721)教会はキリストのこの祈りを身をもって証して行かねばならない。聖パウロはコリント人にあてた手紙に、キリスト信者たちを聖徒と呼んでいる(コリント前12)。これはコリント人が聖であったからではなく、聖なる神にともにあづかるとの意味である。神とともにあって、神の言葉の中に生き、神と交わる人々をお互いに兄弟と呼び合い、心と心との深い交わりが、種々の壁を乗り越えて存在していた。即ち聖徒の交わりがなされていたのである。旧きイスラエルは一民族の共同体であったが、新約の教会は新しいイスラエルとして旧いイスラエルの信仰をうけつぐと共に、ユデア人と異邦人との教会であり、民族の壁、イデオロギーの壁、すべての困難をのりこえて、キリストを信ずるすべての民、全世界を一つに包む教会のなのである。

 
 

二、信徒の祭司職

 

司祭は司教のもとで、教会づくりのために働くカリスマによって役割が位置づけられている。教会をまとめ、推進して働くのである。キリストの教えを宣教し、信仰に生き、その教えを誤らせないように正しく方向づけ指導し、ミサを捧げ、赦しの秘跡を授けるなどの特権が与えられ、一般信徒とは異なる役割があるが、第二ヴァチカン公会議後、よく信徒が祭司職にあづかるようにと云われている。

「主は人に捨てられましたが、神によって選ばれた尊い生ける石です。この主に近づいて、あなたがたもまた生ける石として、霊に満たされた家に築き上げられます。それは聖なる祭司となり、イエズス・キリストを通して、神に喜ばれる霊に生かされたいけにえを捧げるためです」(ペトロ第一の手紙・二・四)「あなた方自身を、神によみせられる聖なるいけにえとしてささげなさい。

これこそ人間にふさわしい礼拝です。自分をこの世に同化させてはならない。むしろ心を新たにして生まれ変わり、何が神のみむねか、即ち何が善であり神によみせられ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ人への手紙一二の一〜二)キリスト御自身、十字架上でいけにえとなり、父なる神と人類との間に仲介者となられることによって、唯一の真の司祭となられた(ヘブライ人への手紙、黙示録参照)ように、信徒すべてが自分の生活そのものを神に捧げなければならないと云っている。

これが信徒の祭司職である。教会のために働く役割をすべての者がもっているが、その役割を果たすそれぞれのカリスマ(召命と恵)が神より与えられている。そのカリスマに従って、神と神の民に奉仕しなければならない。キリスト御自身「私は仕えられるためではなく、仕えるために此の世に来た」と申され、事実
33年間人々の中に生き、最期に十字架のいけにえを捧げられた。キリストの弟子となって、キリストの後に従って行きたいものである。

 

三、信徒使徒職的活動

 

教会づくりのために、神から与えられたカリスマに応じて教会、家庭、社会生活の中でどのように使徒職活動を実行してゆくかは信徒が中心となり、一体となってとり組む課題である。一例をあげてみると、初代教会においてはミサを捧げ、お互いの信仰を確かめ合い、信仰の証を会衆の前で語り合ったように、教会では典礼の中で信徒が聖書朗読をするとか、自分たちで共同祈願をつくって誦えたり、家庭では朝夕の祈りの先誦、聖書朗読の順番を決めて実行するとか友達仲間ではロザリオを誦える運動をして、例えば15人が集まり5人ずつが栄光・喜び・苦しみの玄義を三組に分けて、一人が栄えの玄義の一連、他の者が二連を・・・・・・という具合に分担することによって、15人でロザリオの一環を誦え終わることになる。

(現在、ポーランドでさかんに実行されているそうである)このようにすることは、人々に自分の信仰を表すことになり、自分のためばかりでなく、人々に対する奉仕でもあり、教会、家庭、社会の中での信仰の分かちあいにもなり、ことに家庭においては、その信仰を次代に伝えてゆくことになる。

こうして、共同体全体が豊かになり、それが外部に向かって溢れ実りある宣教活動に発展して行くことが出来る。信徒各自が、神から与えられたカリスマによって行う使徒的活動すべてが、このような教会づくりに欠かせない本質的なものを自覚してなすならば、たとい蟻のような歩みであっても、進歩をもたらすに違いない。教会は聖人・君子の集まりではなく、神の子として召されてはいるが、出来上がっているわけではない。

聖なる種子をいただいてはいるが、充分に成長していない者の集まりである。幼児は何年もかかって成人となるが、つねに目に見えない働きが体内で行われている。教会創設
100周年、これを踏み台として、次の時代に向かって飛躍するために、しっかりとした地味な足どりで、神の聖旨の中にすべての者が一つに包まれることを希望してやまない。 1980101

 

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カトリック教報昭和57111日発行

 
 

三井楽教会(下五島)

 

下五島地区、三井楽教会(田中千代吉師)を訪ねて、まず目を奪われたのは、近代的建築が施された教会と、その正面玄関の壁画であった。また、教会創設100周年の記念事業として建てられた資料館も何か心魅かれる趣を持っていた。ちょうどその日は日曜日とあって、信徒の姿も多く特に750分のごミサは小・中学生のためのものとあって子供たちの姿が多く見受けられた。

新祈祷書を使っての祈りは、冬休み中より
3月まで子供たちに練習させ、4月から全信徒ができるようになったということである。また、子供たちの神への賛歌も美しく洗練されていた。聖歌は夏休みを利用して伏木師(サレジオ会)をお招きしてご指導を仰いだとあって、その歌声は力強く、子供たちは聖歌を通して、神への礼拝の心がより高められて行くことを習得しているように思われた。ごミサの後、三井楽キリシタン史について話して頂いた。

それによると信徒の先祖は大村藩に所属していたが、安永年間五島侯盛運より大村藩へ農民移住の要請があったのを機に、大村藩の切支丹弾圧からのがれるため、また、生活の安住を求めて五島三井楽へと移住した。しかし、明治政府は江戸幕府の切支丹禁制の政策を引き継いだため、切支丹弾圧の受難はこの地にも及んだ。その苛酷な迫害は、明治
6年切支丹禁制の高札が撤去されるまで続いたということである。しかし、この間三井楽の信徒はどんな弾圧にも耐え、一人の棄教者も出なかったという。当時の責め苦がどんなに耐え難いものであったかは、キリシタン史に造詣の深い田中師の手によって資料館に展示してある古文書や、責具など見ることによって明らかである。

このように素晴らしい祖先の血を受け継がれている信者さんの家庭からは、その信仰の証として今までにも多くの司祭、修道者の召命が見られている。
1980年、教会創設100周年を迎えた教会は、守る信仰から与える信仰へと発展的変身をなしつつある。田中師は、「たとえ蟻のような歩みであっても、現代の風潮に流されないよう、祈りと秘跡に支えられながら、典礼に生きる生活の実現を目指して努力し続けなければならない」と結ばれた。

 



  
   
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