田中千代吉主任司祭

 
 

カトリック教報1983101日発行

 

キリシタン史を学び黙想する会

 

さる826日から28日まで二泊三日、長崎黙想の家で開かれた第二回キリシタン史を学び黙想する会は、東京、岡山、福岡など県外からの参加者をふくめて60名が与り、熱心に学び黙想した。

田中千代吉師「五島キリシタン史」や純心女子短大の片岡千鶴子先生「潜伏時代の聖母崇敬」など、祖先の生きた信仰にふれ感銘深く学んで心に刻み、結城了悟師「二十六聖人の歩かれた道」のお話で京都から長崎までの道をたどりながら成人たち一人ひとりの信仰の深まり人間としての成長をも知って感激し、黙想で分かちあいを行った。二日目には南山高校・井上康宏先生の案内で浦上地区のキリシタン遺跡を巡礼した。

参加者は来年度も開催されることを期待し、できれば講話内容を早めに予告していただけると自分なりの勉強、準備もできるし、もっと多くの人に参加の呼びかけもできると要望し、来年度はパリ外国宣教会の活躍についても学びたいとの声もあった。

 

 
 

カトリック教報 1978     注意:(コピー端切れのため抜けがあります)

 

ド・ロ様の故郷 ウォスロール村を訪ねて 田中千代吉

 

イエズスは言われた。「まことにあなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために家・兄弟・姉妹・母・子・畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今この時代には、家・兄弟・姉妹・母・子・畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます」(マルコ102930528日、ド・ロ神父様の郷里ウォスロール村を訪れた。

パリーから西北二百余キロのノルマンディ平原で、林檎の花が満開し、ウォスロール河の清らかな流れで、牧草が一面に生い繁り、この平原をうるおし、その名の通り、金の宝庫としてこの村を豊かにしている。村の小学校・役場並に公民館がある場所に村長さんと村民が外海の皆さんようこそおいで下さいました、これから村の教会で、ド・ロ神父様のことを考えながら御ミサにあづかりましょうと挨拶されて教会に案内された。当日は日曜日・・・
15世紀に建てられ、聖オービン司教に捧げられたこの教会こそ、ド・ロ神父様が受先し、御ミサにあづかった教会である。「ド・ロ神父様が生まれた家はこの道を真直ぐ行ったところにありますよ、御ミサが終わってから一緒に行きましょう」と、人のよさそうな40才くらいの男の方が私に教えてくれた。

ウォスロール教会の主任ヨゼフ神父様の案内で教会に入り、他の二人の司祭と共同歌ミサを捧げる。ヨゼフ神父様は御ミサの司式・聖歌隊の指揮、賽銭集めと、身軽に動き若々しい声で歌われるその御体と御声は
81歳とは思えない程であった。【・・・・・・・・・・・・・・・】ド・ロ神父様はお互いの愛の為に、国も故郷も家庭も捨て、生涯を捧げて神の愛を人々に知らせました。彼の宣教活動については皆さんが御存知の通りです。ド・ロ神父様は、家庭で学んだ印刷・建築・左官・鍛冶屋・農業・製パン・社会事業をもって人々にめぐんだ、それは神の愛を与え、知らせるためでした。

フランス人もこの御ミサで一つであるように、毎日の生活で一致するように。ウォスロールと外海とが一つである如くに世界の国もそうなるように。そして多くの人々が、ド・ロ神父様の後継者となり、強い司祭が召されるように。

フランスでも日本でもむずかしい時代であっても多くの司祭が召されるようにと力説された。外海町とウォスロール村との姉妹町村の縁結びの仲介を【・・・・・・・・・・・・・・・・・・】在、カルディナル
1名、大司教1名、司祭23名、修道士20名、シスター174名が出ている」と紹介されると、ウォスロールの皆さんは感激しておしみない拍手をおくって下さった。

昨年片岡教授は、ド・ロ神父様の伝記のフランス語版を自費出版され、無償でフランスの援助マリア会が経営する学校に数百冊、ウォスロール村の各家庭にもそれぞれ配布した。これはド・ロ神父様を知っていただく事により、召し出しを求めるためだと聞いている。外海町とウォスロール村との間に姉妹町村の縁結びの目的に沿って調印式がなされ成功裡に終えられたが、私は別の面から外海とウォスロールの教会、何れの教会からも聖職者がド・ロ神父様に続いて出るようにと願わずにはおられない。

現代の物質主義・世俗主義の時代において、ド・ロ神父が身をもって示されたその精神を母親の腕と胸と膝の上で教えてもらったことを思い出した。そして、人々にキリストを知らせ、キリストに導く多くの者が召されるように念願し、ウォスロールに名残をおしみながら帰途についた。(三井楽・岳教会)


 
 

昭和55年 要理教師の友  田中千代吉

 

日本司牧センターより、宣教司牧に関する全国アンケートについての分析とコメントが先日届けられた。これには、昨年12月に行われたアンケートに対して全国から日本宣教司牧センターに寄せられた回答がまとめられている。その中にシスターの回答についての11の問題点も挙げられているが、その一つに、「司牧者が、司牧の心よりも体裁を重んじ、弱い者、小さい者は落とされたままで、本当の福音は伝えられていない」と記されていた。私はこれを読んで深い反省をうながされた。

勿論多くの例外はあるが、現代人はあまりにも自己中心的になりすぎている感がある。病院では急病患者が来てもたらい回しにして、結局は手遅れになったり、学校では生徒や学生を深い愛情をもって教え導くはずの教師が問題を起こしたりしている中で、人びとは教会に対して物心両面に亘って親身になって霊魂の求めに応じ、渇きを満たしてくれる司牧者を求めているのではないかと思われる。

キリストを伝えるにおいて、司牧者自身としての自分の立場を再認識すると同時に、信徒にも自分たちの役割の重大さを理解させなければならぬ立場にあることを肝に銘じなければと思う。神の愛を伝え、隣人愛を実行することによって人びとを神に導くには何もむずかしく考えることはない。

今年の四旬節のカリタス・ジャパンの募金と犠牲と祈りとは心身障害者に向けられたものであったが、子供たちには小遣いの中から協力するよう呼びかけ、病人や年寄りには体の不自由や病苦を身障者タチチともにキリストの犠牲に合わせるように、愛煙家には
1日二本か三本かを四旬節中に減らして献金するようになどと指導することができる。しかし、どこかに自分の助けを必要とするものがいれば、その援助は一時しのぎのものでなく、根本的解決がつくような配慮がなされなければ、真の愛徳にはならない。また自分の小教区だけをその対象にしてもならない。最近はよく他の教会からの寄付のお願いがくる。

自分の教会を建てる時そちらからいただいていないからとの理由で、寄付を出し渋る者もいる。信仰生活上必要に迫られ、他の人びとに迷惑をかけないと思ってもやむを得ず寄付をお願いするのであるから、自分たちが援助されたか否かを問わず、共同体として困った者の身になって考えるべきで、愛徳は商売の取引のようなものであってはならない。自他の教会を問わず、自分の能力に応じて自分でできることをして、子供たちにも、病人や老人、下積みの人びとにも、神と人びととに対する奉仕の精神を大切にするよう教えながら司牧することによってこそ、福音が宣べ伝えられてゆくのだと思う。

「愛に輝く沈黙は真の雄弁」という金言を忘れてはならない。この愛徳は「付け焼き刃」ではなく板についたあの燻し銀のような底光りのする善さでなければならない。味をつける“塩”についていえば、かくし味のような役割を果たし、謙虚であり控えめに見えても実際においては筋金が通った確固たる愛に行きるものでなければならない。大げさでなく、地味に、だれにでもできるような手近にある愛の行為を毎日の生活に生かしてこそ真の効果が出るのではないかと思う。(三井楽教会・主任司祭)

 
 

カトリック教報 1987年(昭和62年)41日発行号

 

黒島教会(佐世保地区)

 

黒島は九十九島中最大の島で佐世保の西端に浮かんでいる。キリシタン禁教の二百五十年間、離島であったため比較的ゆるやかではあったが弾圧と迫害に耐え忍んで、全島が潜伏キリシタンとして信仰を守りぬいてきたところである。

黒島のキリシタンは祖先の信仰をよく守り、父から子へと相伝してひそかに宣教師の渡来を待っていた。信徒発見後、長崎の大浦に天主堂が献堂されたことを知り、出口吉太夫、大吉親子が大浦まで行き、宣教師に教えを請い受先した。彼らの熱心な宣教活動により島全体
600人が明治初年に教会に復帰している。明治6年キリシタン禁教令が解除されると、信徒たちは公に祈り、要理を学び、信仰生活の立て直しに心を一つにして励むことができるようになった。

明治
5年から6年頃に聖ヨゼフみ堂と聖フランシスコみ堂の二つの家み堂があったが、信徒数が増加していくうちに仮教会も狭くなり、全員で祈れる聖堂が信徒の間で望まれた。明治30年から3年間ヨゼフ・フェジナンド・マルマン神父の設計・指導のもとに信徒達は一致協力して祈りつつ、労働と多くの犠牲とを教会建設に捧げた。ステンドグラスは外国からの輸入品であるが、レンガの一部は信徒の手によって焼かれた。レンガの11枚に信徒の教会建設の喜びと願いと汗とがこめられている。

明治
33610日、イエズスの聖心に捧げられた教会は、木造レンガ造り(日本で唯一のイギリス積み)ロマネスク式建築様式で重層屋根を持つ大聖堂で、島の中央に信仰のシンボルとしてそびえたっている。黒島の生活は半農半漁で、島の人口1506人中85%がカトリック信徒である。当教会も島に企業がないため、若者は学校の卒業と同時に県外就職のため島を去っていくため、人口が徐々に減少しつつあり、教会の中も老齢化に向かっている。

信徒はよくまとまって、婦人会の協力のもと各種の行事・結婚式・子供の誕生などは「よろこび」といって御馳走をつくり、共に喜びを分かち合い、葬祭の時は「くやみ」といって手料理をつくって手助けに行き、慰め、共に祈っている。ややもすると都市部の教会が忘れかけている信仰共同体の姿がこの教会には生きている。明治
13年、黒島に赤痢が大流行し、ペルー神父と愛苦会(現在のお告げのマリア修道会)会員の献身的な看護で信徒は全滅から救われた。

お恵みへの感謝と禁教時代に心ならずも踏み続けた踏み絵の償いを果たす目的で、ペルー神父の司牧時代より始められた「十字架の道行」も
107年たった今日でも、ごく自然に大人も子供も金曜日には教会に集まり、信心業は続けられている。また婦人会は4年前より黙想会でのお年寄りの方々の昼食作りに励み、カリタス・ジャパンへの寄付を続け、今年はドーナツ作りも加えて学校改築特別寄付へと奉仕の心を惜しまない。

主任司祭の田中千代吉師は島で少数の未信者の方々との日常生活の交流の中での宣教を大切にし、信者と未信者全員での運動会、カトリックのクリスマス、仏教のくんちも相互に参加し合って理解を深め合っている。小教区設立
90周年、教会献堂85周年を迎える黒島教会は、いま田中千代吉師・修道院・信徒が一つになって先祖の残した脈々とした隣人愛への奉仕と宣教の精神を受け継ぎ、推し進めている。

花咲きて み堂の窓に うつる春

 
 

黒島教会誌の発刊に寄せて 田中千代吉

 

1865519日、黒島のキリシタンの信仰告白から125年、ポアリエ師が宣教師として最初に黒島にこられたのは1872年。その6年後の1878年ペルー師によって名切に教会堂が建立されて今年で110余年を迎える。故今村悦夫師は黒島教会誌を作成しようとなさったが、病のために志し中途にして帰天され今日に至った。

私達は迫害に耐え守り通した
600人の残した信仰の深さ、またこうした信徒のために来島し彼等を励まし、勇気づけた宣教師及び教会を築き上げた先人達の功績を忘れがちである。宣教師がまいた種がどのように芽を出し、根を張り成長しつつあるか、また私達がどのようにして大きく伸びなければならないかを考えましょう。

それは何もむずかしいことではありません。「キリストの大事業で、あなたの演じる役はせいぜい大きな機械の小さなネジに過ぎないことは事実だ、けれども、ネジがしっかりしまっていなかったり、外れたりしたらどのような事が起こるかわかるだろう。機械の各部分はゆるみ、歯車はこわれてしまう。そうなれば機械全体が廃物となるだろう。

1本の小さなネジの役目を果たす。何と偉大なことだろう」(道・エスクリーバ著)また「わずかなものに忠実であったから主人の喜びに加われ」これはキリストの御言葉である。この言葉を実行するものには永遠の栄光が約束されていることを考えなければなりません。こうしたことを忠実に守り、伝えてきた祖先の信仰という大きな遺産をしのぶために教会誌の編さんに取り組んだのである。

しかし私達は過去の歴史をなつかしむだけでなく、祖先が築いた信仰を益々強め、新しい霊的な教会づくりのために神からいただいているカリスマ(召命と恵み)によってそれぞれの役割をはたして完成に向けて力強く歩み続けねばなりません。最後になりましたが記念誌の発刊にあたり編集委員をはじめ、参考文献、写真等の収集に携わって協力していただいた皆さんに感謝とお礼を申し上げ私のことばといたします。 平成元年
12

 
 

拝啓 主任神父様  田中千代吉

 

山川清神父さま

 

神父さまは昭和241115日天国に旅立たれました。ですからかれこれ40年以上にもなります。でも神父さまの思い出は日に日に新たです。それは叱ることの少なくなった時代に、叱ることのとても得意だった神父さまの姿が影絵のように浮かび上がってくるせいかもしれません。まだ小学校低学年だった私は、神父さまが捧げるミサの侍者をよくつとめたものです。今でも背は決して高くないほうですが、当時は目立つほどに低かったものです。その背の低い少年が、あの重い書見台を右から左へ運び移すのは並大抵のことではなかったのです。

それは死に物狂いでした。ときには足を踏み外してすってんころり。よく神父さまのカミナリが落ちたものでした。出津では、カエルのことを「ヤマカワドンク」と言います。ある雨上がりの日の学校帰り、カエルを見つけました。「あ、ヤマカワドンクがいる!」。運の悪いことに神父さまがそばを通りかかっていたのです。子供たちが、そのとき普賢岳の噴火か、火砕流を予感したのはいうまでもありません。

避難勧告を待つまでもなく一目散。言い訳になりますが、あの呼び名はカエルのことであって、決して神父さまを呼んだのではないことを、今さらながら釈明いたします。そしてもう一つ。「ヤマカワドンク」と叫んだのは私ではありません。動物の名が出てきたついでですが、「だんぼのウジ虫」も神父さまの得意語録の一つでした。油断するとウジ虫のように汚れてしまうぞという信者への叱責のことばだったと思います。出津教会の祭壇の裏、そして香部屋の裏には板を二枚渡しただけの、それこそ「だんぼ」があって春のさわやかな風に乗って、神父さまの説教に花ではなく匂いを添えていたこともありました。これを立体的説教というのでしょうか。

でもなによりも司牧者としての神父さまの姿こそ、脳裏から離れないものがあります。特にマリアさまへの信心。聖母月になると、花束をつくらせて、マリアさまの祭壇に運ばせたり、手紙を書かせて
11枚祭壇の前で焼き煙と共にマリアさまに届けるなど様々な工夫を凝らして、何とかして聖母とのだんらんをつくろうとされたのです。あなたの小さな侍者がいま司祭としてようやく老いを迎えようとしています。(三ッ山教会主任司祭)

 
 

カトリック教報 1998(平成10)年31日号

 

歴史にたけた司牧者 パウロ 田中千代吉師 帰天

 

長い間、病気と闘いながらも司牧に専念したパウロ田中千代吉神父が215日午前830分、入院先の聖フランシスコ病院で肝不全ため帰天された。73歳。1925116日、外海町出津生まれ。53316日大浦天主堂で司祭叙階。同年4月大浦司教館、同年11月飽の浦助任、566月仲知、614月浜脇、683月三井楽、833月黒島、913月諫早、925月三ッ山の各教会を司牧。二十数年前から肝硬変に患わされる中、清貧生活と教区、小教区の歴史の掘り起こしに力を注ぎ、信徒と教区に多大の功績をもたらした。葬儀ミサと告別式は翌16日、島本大司教司式、大勢の司祭団によって浦上教会で厳かに執り行われた。

 



  
   
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