第5代主任司祭 島田喜蔵

 
 

長崎のキリシタン使徒たち

片岡弥吉

 ピナン留学生

明治政府が浦上キリシタンの総流罪を決定、1968720日、まず中心人物114人の移送が行なわれた。同時に監視が厳しくなったので、ここにかくまわれている神学生たちをピナン(マラヤ)の神学校にやって勉強を続けさせることになった。 

728日、夜半、1隻の外国汽船が錨をあげた。船が動き出し、税関吏も波止場から立ち去った。すると一隻のボ-トが汽船から降ろされて波止場に漕ぎつげる。どこからともなく10人の少年たちが現われてボ-トに乗り移る。神学生たちである。本船はゆっくりと港内をジグザグ運航しながら、時間をかせぎ追いついたボ-トを収容した。 

3昼夜の航海の後、上海着。丁髷を切り落とし、洋服に着替えた。18日間上海にいて香港に渡り、さらに2ヶ月後、南シナ海を南下し、シンガポ-ル海峡をこえてピナンについた。 少年たちの名は深堀徳三郎、同義右衛門、同達右衛門、同市五郎、今村兵四郎、村上喜八郎、真田善之助、高木源太郎、有安浪造、峰下今七という。有安が神崎、峰下が上五島のほかは浦上の農家の子供たちであった。 ところが1年ほどたってマラリアの流行に会い、まず徳三郎が病死、儀右衛門と兵四郎が後を追った。今七と達右衛門、市五郎も病気のため帰国、市五郎は途中のシンガポ-ルで日射病で帰らぬ人となる。

 

残った5人は、明治512月までピナンの神学校で勉強を続けた。

187011日から浦上の戸主700人に呼び出しが来た。つづいて家族が召喚された。村民3300人の総流罪が決行されるのである。長崎には緊張した空気がみなぎった。「大浦天主堂を探索し、キリシタンを隠しておれば神父たちも捕縛されるそうだ」という噂が飛んでいた。「日本人はおらぬか」と役人が何回も調べに来たし、14日には居留地外国人に使われている日本人は登録のため県庁に出頭して人別改めを受けさせるようにという長崎県知事の命令が各国領事に伝えられた。天主堂には神学生と石版工など20人近くの少年たちが匿われている。

 

そのうち茂四郎ら4人の少年と国文学教師阿部真造、その子信太郎を役人の目を盗んで英国砲艦ドワ-ク号に匿ってもらった。石版工の末吉ら3人は、夜ひそかに天主堂からグラバ-邸にぬけて浪の平の海岸に降りた。待っていたのは忠吉という男である。神の島の自宅に隠した。彼らは110日、英国汽船アドライン号で上海に向かう。 その前日、島田喜蔵ら4人を五島久賀島に脱出させている。 14日夜、高木敬三郎ら4人を神の島の忠吉が、うまく天主堂から脱出させた。高鉾島の陰に隠して深夜そこを通過したオランダ船オリッサ号に乗せて上海に逃がした。彼らは香港に渡ってそこの神学校に入る。

 

3月になって久賀島に隠れた4人は役人にかぎつけられて長崎に逃げ帰り、ドイツ船で香港にのがれ、上海に戻ってまた香港に行き、そこの神学校に入った。 自分たちの父母、兄弟など浦上村民たち3300人が長崎から移送される騒ぎの中で神学生たちは、こうして長崎を去り遠い異教の香港、ピナンで神父になる勉強をする。その熱心さは感動的である。しかしマラリアなど熱病のために7人がかの地で生命を落とし、病気帰国等もあって、初志を貫徹して神父になったのは、深堀達右衛門、有安浪造、高木源太郎、深堀忠治、岩永信平、島田喜蔵、片岡謙輔の7人であった。 香港組は明治4年、ピナン組は512月、それぞれ横浜に帰り、そこで修辞学を修了して東京神学校に転学した。明治8年長崎神学校(大浦天主堂に隣接する国指定重要文化財旧羅典神学校)が出来たので長崎に帰って来た。深堀達右衛門ら3人が大浦天主堂で神父になったのは明治1512月である。島田喜蔵ら4人は明治2012月、ようやく神父の位に挙げられた。

 
 

島田喜蔵久賀島逃避の時

五島キリシタン史第3編

島田喜蔵神父は上五島江袋の人で、当時ラテン学生として長崎大浦天主堂内に潜んで居たものである。明治2年の末っ方浦上キリシタンが遠島されるに及んで、深堀喜四郎、真田善之助、外1名と久賀島に身を隠した。 2ヶ月ばかりは屋曽根の浜村繁造方に忍んだ。その間は毎朝仄暗い中から家を出て山中に隠れ夜に入って又宿に帰ると言うようにした。後で外輪に移り、牛小屋の屋根裏に潜伏した。宿を変えるには夜陰を待たなければならぬ。途中23か所に立ち寄った。何時も夕の祈りを誦えるとか、夕飯を食べるとか言う頃にであった。しかし祈るにも食事をするにも1枚の畳どころか床板さえない。竹の上に藁を敷き、その上に座っている。否、ただそれだけの設備すら屋内全部ではなく、必要な間だけに止めている。

 

家には壁というものはない。茅や木の枝を差し入れて僅かに風雨を凌ぐに過ぎない。頭を見れば男女、老若一人として髪を貯えたものとてもない。やっと一寸ばかり延びているのみだ。無論、食物などあろうはずがない。葛の根を掘って之を食し、その葛の根を掘りつくすと、今度は野老という山芋類の塊茎を掘って口を糊するのであった。「それは全く木の根を齧る様なもので、自分も試みに之を口にしてみたが、全く食われるものではなかった」と島田神父は物語っている。

 

師もその頃は無経験な一青年のこととて、キリシタンがなぜかかる悲惨な生活をしているか合点がいかない。久賀島と言えば全く別世界だなと思っていたのだが、数日の後、隠れ家の主婦に髪のない理由を問い、始めてそれが迫害の結果だと判った。主婦は言った。「私達に髪が無いのは、無理無惨に責められ、苦しめられ、きつい病に悩まされた結果です。牢内で髪は皆脱けて、ちょうど瓢箪の如くになりました。ごらんの通り、床板も戸も障子も鍋釜、椀、皿、その他一切の家具、壁にさしておいた鉤までも奪い去られ、家はこの通り荒らされてあいまったのです。食物は家にあるのも畑にあるのも残らず持ち去られました。

 

出牢後一口の食物もないので、海草や葛の根や野老を食っている次第です。畑に蒔く種物すら持ちません。牛も鶏も犬も猫も船や農具に至るまで一切奪い取られ、森は切り払われ、それこそ全く無一文です。生命こそ助かりましたが、出牢後の苦痛は一通りではありません。」島田神父もさすがに言う所を知らず、僅かに涙を以て答えるのみであった。あゝ彼らはその生命財産を以て天国と引き替えたのであった。

 

 この日記は野首の野浜安五郎さんがキリシタンの出牢後、各人に就き一々問い糺して書き留めたもので、簡略にすぎる嫌いこそあるが、貴重な史料であることを失わぬものと思う。

 彼らは、この100年間、経済基盤もなく、他人の慈悲にもすがらず、周囲の援助も求めず、行政の保護を受ける事も知らず、組織の力にも頼らず、政治家の後ろ盾も持たず、特別の立法も要求せず、ただ黙々として信仰を以て耐え抜き、祈り、助け合い、コツコツと日夜働いて、家を建て、土地を求めて田畑を開墾し、多くの子供を育てて社会へ送り出し、奈落の底から這い上がったのである。 その恐るべき秘められたエネルギーがどこにあったのか、今、世の人々は本書によってそれを知るであろう。

 
 

島田師の玉之浦小教区司牧時代

ルルドにおける出来事

昭和741 カトリック教報

 玉之浦井持浦天主堂の側には、ルルドの洞窟を模したものがあり此処に参詣して、聖母マリアに祈り、そのお恵みを蒙るものが往々あると言う話である。最近同天主堂の主任司祭島田師はその事実を取り調べて、教報社に送られた。固より教会の正式な取り調べを受け経たものでないから、之を奇蹟等断言するのではなく、ただ報道のままを茲に掲げて置くまでに過ぎない。

 

1―白濱シヨ―長崎県北松浦郡小値賀村野崎字野首なる、フランシスコ白濱要吉の妻シヨは、1931年で44歳になるのだが、幼き頃より胸につめ込む病(胃痛か?)に罹り、長じても平癒しなかった。その上12年前32歳の時に幼児キヤを出産せし頃より血の道の病に罹り、之も全快は愚か、益々重症に赴く一方であった。右両病の為に多年悩みに沈めるシヨは此の上医薬に頼みを置かずルルドの聖母マリアに縋るべく意を決し、遂に19296月に井持の洞窟に参詣し、熱心に祈っていたが、9日目の睡眠中、突然何物からか胸部の肉を右の方に引き裂かれたる心地がした。その痛みに驚いて目を覚まし起き上った時は早両病とも全く快復した。

 

それまで参詣中でも、ミサ拝聴すら行き兼ねていた病人が、翌朝からは難なくミサを拝聴することが出来た。依ってその後4日間全快の感謝をなし13日目に帰宅した。帰宅後今に至るまで前記の両病は一回も再発しなかった。依って1931413日感謝のため再び井持へ参詣し、島田師に頼んで感謝のミサを捧げた。

 

2-中村シゲ- 長崎県南松浦郡久賀島村字上平のマリア中村シゲは1931年で48歳になるが、17歳の時、即ち今より31年前に椿の木に登り実を取ろうとして高さ1丈の所より平石の上に落ち、左目の上の毛際より上部を強か打ち、3年間は身動きさえ出来ずに病臥していた。その間には井持のルルドの聖マリアに参詣したき望みが沸き上がっていたが、そんな体ではどうすること出来ない、然し3年目には叔母の峯サノに伴われて井持のルルドに参詣した。9日目にはまだ全快したのではないが、何となく体が自ら軽快になり、帰宅の上では労働も少々出来るようになった。翌年も参詣したが前年同様身軽くなるのみであった。又その翌年(1905年)は4ヶ月間も井持に留まって聖母に祈ったが、その4ヶ月目の終わりに突然以前の如く身動きも出来ないようになり、常ならぬ苦痛を感じること3日間、その3日目の昼、眠ったでもなく、夢見たのでもないが、突然嬉しくなり、また実際聖マリアを見たのでもないが何となく聖マリアに面談している様な心地になり、言葉に述べ尽し難い程の喜悦に溢れ病はすっかり全快してしまった。

 

それから26年間、即ち1905年から1931年まで1回も再発したることがなかった。前記のマリア中村シゲは60年前、久賀島村での迫害の際、牢死した、タキ、サモ、シモ、モヨ、この4人の妹である。サモは死に瀕してその母に遺言し、「祈り時は、キリスト様の御傷に対して祈りなさい、そうでないと助かり難い、私は先に行きお母さんの為に座を備えて待ちましょう」と言った。然らば後で生まれた可愛い妹にもキリスト様の御傷を味わせたくて怪我をさしたのではないだろうか。

 
 

井持のルルド マルガリオ大林ハルの話

昭和7615日カトリック教報

 

長崎県南松浦郡久賀島村大開のマルコ大林丈八とイソの長女マルガリタ・ハルは、1912年(明治45年)4月上旬頃畑の草取りに出掛け、労働中、突然肩が痛み出し、労働に堪えず、遂に帰宅した。その後は良いと言う養生は色々やってみたが何らの効験もなかったので、福江の郡立病院に行き、診察を乞うと、是はリュウマチスで早や全快の見込みがない、ただ幾分でも痛みを和らげたいならば、入湯してその患部を揉むより外はないと、院長から丁寧に諭された。

然し残念ながら湯治に行くことが出来ず、さらばとて養生もせずに死なれずと言うもので、種々様々の養生を2ヶ年も試みて見たが、全快は愚か、益々堪え難き重症となった。かくして今後何年間、この苦痛を忍ばねばならぬことかと案じ、日々悲観するのみであったが、遂に母に伴われて井持のルルドに参詣することにした。幸いにもその時は久賀島の婦人等が多数参詣に行くのであったから、ハルも大いに喜び、19142月井持に参詣し、「聖意に叶う事なら、全快さして下さい、死ぬのが聖意ならば善き最後を遂げさして下さい」と、聴くさえ痛ましき祈りをした。こう祈ったのも、医師には不治の病と診断され、益々重態に赴く一方なので、満3か年間、昼夜の別なく苦痛に泣き、人知れず袖を絞りていた挙句のことであれば、全快などは夢にも思わず、只管死期の到るを待つのみであったからである。

 

然るに休憩所に到着したその日には、疲れてこそ居たが苦痛の薄らぐを覚えたのに、翌日は前日より苦しみを増加し、3日目には久賀島にいた時より一層甚だしくなり、是では帰宅も覚束ない、此の儘ここで死ぬのではないかと一方ならず心配した。死ぬにしても今夜中に何とかして霊水に浴したいものだ、途中滑るとも倒れるとも厭わぬと決心し、参詣人の寝すんだのを見定め、誰も知らないように、屋外に出て、あらゆる苦痛を犠牲にして遂に浴室に到着し、喜色満面に溢れて着物を脱ぎ、冷たい霊水に入り、主梼文、天使祝詞各々3回ずつ唱え終るや否や、頭上に何者か落下した様な大音響を聴き、身は木っ端微塵になった心地がしたので、慌てて霊水を飛び出で、着物を引っかけ、帯は手に持ち、一生懸命に走って休憩所に駆けつけ、何人も知らない様、寝床に入った。

 

その時は早や全快していたのである。翌朝は健全の身となって聖堂に行き、ミサ聖祭を拝聴し、聖母の大恩を感謝した。その日、主任司祭脇田師の指揮の下に、井持の処女らが畑に出て労働するのであった。久賀島より参詣に来た婦人らも加勢を頼まれて、出掛けて行った。ハルも共に行きたいと言ったが、病気の故を以て断られた。でも畑に行き、健全な時と少しも変りなく終日働いた。 帰村後10日を経て、薬代を支払う為、耕地整理組に加入し、雨天の外4ヵ月間土を担ったが依然として変わりがなかった。依って同年7月再度井持へ参詣して聖母のお恵みを感謝した。その後も何回か感謝の参詣をした。全快当時より1932年まで、18年間、右の病気が再発した覚えは1回も無い、本人の全快した事は一人として知らぬ者はなかったが、如何にして全快したか、その事実を本人は秘して人に洩らさず、その母も知らなかった。その後瘰癧病に罹り1920年に参詣し之も全快したので、1930年に感謝の参詣をした際、いかなる事情あって感謝するかと島田師に問われて、両病全快の事実を打ち明けたのである。瘰癧病全快のことは後に記すこととする。

 

  五島の教会

井持浦修道院(五島・玉之浦) 

創立 192930年頃 創立者 島田喜蔵(長崎教区司教) 井持浦教会のルルド参詣者宿舎下に、島田喜蔵によって修道院が創立されたのは192930(昭和45)年頃のことと思われる。その目的は信者の要理指導と、教会奉仕全般及びルルドの管理と参詣者の世話であった。地元の田上ミト、中島イサ、生月出身の森永アイが主な会員であった。要理指導、司祭の世話、農耕と役割を決めて奉仕し、祈り、食事、労働と時間割に沿って規則正しい生活を送った。 修道院のために建物を提供した上田清蔵氏が経営していたタバコ屋を引き継ぎ、また教会所有の2反の土地を耕して生活の糧を得ていた。一般に「へや」「修院」と呼ばれており、ベ-ルなしでケ-プ付の制服を着ていた。1939(昭和14)年から翌年にかけて、地区から選ばれた女性たち4名が会員たちと起居を共にして教え方の養成を受けている。内部のトラブルが引き金となって、当時の主任司祭熊谷師と信者を交えて協議し、1941年に解散した。

 

五輪教会(聖ヨゼフ) 最初は浜脇に建っていた。浜脇に鉄筋コンクリ-トの教会が着工されている間に現在の五輪に移されたもので、建物自体は100年の年月を迎えているにも拘らずまだ松に木材は老朽をしらず立派なものだと言う ことである。当時は30戸もあった信者数も現在では他の教会の例にもれず10戸に減ってしまい、どの教会でも同様であるが教会を守っていくために島全教会の信徒は人一倍の信仰と犠牲を捧げていることを世は理解している。 而もいずれの教会も半数は老人たちで占めているということ。

 

細石流教会(聖アンナ) 島田神父様在任中の大正971日着工。最初は「エビス様」と呼ばれる鼻に土地を予定していたが島田神父様はそこの「たつまき」が起こったと言って昊感にうたれ、そこを取りやめた。又以前小学校が建っていた場所に目をつけたがそこも水が湧くと言うことで最後の現在の場所に決めた。(その昔信者達は、この山中で隠れて要理の勉強をしていたと伝えられている。ところで教会の建材運搬について部落の信者は一つの不思議な出来事を伝えている。当時信徒は協力して上五島、青砂ヶ浦の奥深い所から材木を切り出しに1日の予定で出かけた。好天であった。さて大きい丸太を切り倒したものの奥深い山からいかにして海岸まで運ぶか相当に心配していた。ところがその矢先急に大粒の雨が滝のように降り注ぎ川となってたちまちのうちに大きい木材を海岸まで一挙に流すことが出来たのである。而もその後はまたからりと晴れあがり、彼らは、これぞ天のお恵みと驚き、同時に感謝をささげた。共同の力で仕事は順調に進み翌年にはあの山の上に当時としては立派な教会堂の落成を祝い合った。時に信徒数25であった。現在では近くには信者は全くおらず、只一人山の上に残された教会は、雨風に耐え、わずか海岸に居住する5家族の強い信仰に支えられている。

 

赤仁田教会 大正123年頃の信徒数は25戸であった。その頃、久賀島には浜脇教会と永里教会があった。ときに、赤仁田には病弱な老人など多かったので、毎年の務めなど長年人家を借りて黙想をしていた、そこで大正134年ごろ、信者の間で教会がほしいとの声が高まり、信者一丸となって、教会建設にとりかかり、椛島より民家を買い受け、こじんまりした教会堂が出来上がりヴェイヨン神父様はこれを「平和の元后」堂と名付け、近代になって「聖母の汚れなき御やどり」に改め毎年守護の祝日として祝ってきている。大正15年完工。昭和3年、時の長崎司教ヤヌアリオ早坂司教様ご来島の折祝別していただく現在赤仁田教会係りは信者戸数は7戸である。 

 

永里教会(聖母被昇天) 大正7815日建立、海岸に突き出した半島に教会だけが建った。宮本政蔵氏の土地を寄付した。当時日本帝国海軍は港を必要とし、軍港をあちこちに物色していたが遂に五島若松島に決定し、そこに大きい旅館が建てられた。ところが旅館が建った後軍港が廃止になり、もちろん旅館も不必要になった。 永里教会は、この旅館を運んで改造されたものである。現在でもその形がよく伺える。当時はこの教会には島田神父様が常時住居されていたが、その頃この教会係りだけでも30戸の信者がいたが、現在は永里部落3戸、浜泊4戸となっている。
 
 

津山トミ 談 (1974年313日・当時93歳)

ルルド創設100周年記念誌より

 

私が178才の頃に教会とルルドが建てられた。現在の場所に教会が建てられる前は、扇山慶三郎さん方に教会とけいこ部屋があり、月に12回ミサがあった。 その頃の服装は、今の人達には想像できない程の貧しい身なりで、地味な色合いの着物に帯、髪は後ろで束ねていた。 教育も義務ではなかったので学校へ行ったこともない。近所の家に雇われていき苦労した。 主食の芋、カンコロも少なく自給自足の生活で、両親が自分達は食べないで私達子供に与えてくれたことを思い出します。 寒い冬でも足袋はなく、雪の中をアシナカを素足で履いてまわった。 朝5時頃起き、家族揃って朝の祈りを唱え食事をすませ、畑仕事のため段々畑を登った。貧乏なため学校には行けなかった。そして一日の命を夕の祈りで感謝し、ロザリオを唱えた。母は普段口やかしく言ったり怒ったことはなかったが、祈りやごミサについては別だった。 当時は教え方さんは居なくて各家庭の持ち回りで、日曜日ごとに集まり祈りやけいこをさせていた。

 

今の人達は、信仰の面で大いに恵まれている。神父様がいらっしゃるだけでも、毎日ごミサがあり、急病の時にも間に合うし安心である。あの頃急病人が出ると、櫓船で三井楽まで神父様を迎えに行った。朝5時に出発しても三井楽には夕方の45時で神父様を連れて帰れるのは翌日であった。風、波の荒い時は更におくれた。ニッ曜日日曜日には働きがあっても、仕事には行かなかった。何時もマリア様に対しての信心を忘れないように注意し、ロザリオを欠かさず唱えた。今は天国に行くことだけが唯一の楽しみです。 (津山トミさんは、ほどなくして天国へ召されました)

 

当時、お話を伺った人たちは今は誰もいない。皆天国へ召されてしまいました。  世の趨勢とはいえ、当時を知る大切な証人達をなくしてしまったことは誠に残念でなりません。わずか25年の間に大きな財産をなくしてしまったようで、あの時もう少し詳しいお話を聴くことが出来ていれば………と。悔やまれてなりません。

 

井持浦修道院

1929年(昭和4)、島田喜蔵師が主任司祭の時修道院を設立、田上ミト、田上スナ、中島イサの3名で修道生活が始まった。現在の司祭館下の空き地(宿泊施設建設予定地)にあった民家で修道生活を始めた。しかし、1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発の年、会は解散することになった。この時、マリア田上ミトは厳律シト-会へ、他の者は実家へ帰った。

 
 

 

島田師の玉之浦小教区時代

 

五島の堅振

昭和9年5月15日、カトリック教報

我等の早坂司教様はご発病以来早10カ月、近来益々快方に向かわせられたとは言え、尚当分の間ご静養の必要があるので、浦川総代理は暑中休暇を利用して五島各地を巡遊し、堅振の秘蹟を授けられることとなった。私にも随行を許されたので814日女島丸に乗り込んだ、海上は波静かに微風徐に至り愉快な航海をすることが出来た。午後5時岩瀬浦に着くと、鯛の浦の主任司祭鶴田神父様は数人の総代、熊田神学生等と発動船からお出迎え下さった。 

 

少し行くと濱串天主堂である濱田師はここで聖母被昇天の祝典を挙げられるはずで、我等は天主堂を拝観した上で、鯛の浦天主堂に向かった。五島の海岸は奇岩絶壁の乱立せる上に蒼松枝を交え、海は飽くまで碧く、その間を真帆片帆が辷り、発動船が走っている光景といったらそれこそ全く絵だ。 鯛の浦は中田神父様の出身地で、浦川氏も学生時代には幾度かお遊びになったこともあるし、当時のみすぼらしい司祭館、貧弱な養育院(女部屋)と、今日の広々した司祭館、小じんまりした聖堂、文化式の孤児院などと見比べて、今昔の感に堪えないものがあったらしい。 

 

15日聖母の被昇天、午前8時説教、唱歌ミサ、聖体降福式が続け様に挙行された。 例年ならば一部の代表者が濱串まで行ってミサに与かるの幸福を得るに過ぎないのに、本年はお陰で男女老若を問わず、挙ってこの祝典に与かることが出来たので皆大いに喜んだ。 いよいよ堅振の日取りが決まった。 17日、鯛の浦-受堅者275名 20日、仲知-受堅者170名 22日、奈麻内-受堅者250名 26日、福見-受堅者190名 26日、奈留島 27日、受堅者90名 27日、玉之浦-受堅者60名 早速仕事に取掛らねばならぬ16日浦川師2回。鶴田氏1回受堅準備の説教をなし、午後桐の浦の松下師が応援に来て告白を聴かれた。 

 

明けて17日は、朝から綿を契った様な雲が北から南に流れて本日の暑さを予想させ、樹上の蝉も何となく意地悪く鳴き出した。喜びを満面に溢れらした受堅児童は暑苦しい聖堂を片端から埋めた。午前8時「聖霊の御働きに就いて」の短いお説教に引き続いて堅振、それからミサ聖祭という順序で、式はスラスラと運ばれた。奮闘生活の中に飛び込むべき彼ら児童は聖霊の賜物を蒙り、永遠の十字架を額に刻まれ、完全な信者として社会に立たねばならぬのである。

 

信、望、愛を漲らした彼等の祈りを耳にした時、聖霊の御手がこれら275児童の上に伸べられるであろう事を思うと、誰ゕ亦頼もしい感に打たざるを得よう。 ミサ後東浦小学校の校庭で受堅者一同を代表して中田君の謝辞を読み、浦川師の訓戒と記念品の分配があって記念撮影をした。18日浦川、鶴田両師は蛤の海岸から発動船に乗り込んで北進し、仲知の古川師を援けることにし、浦川師はなお進んで北松浦郡野崎島の中央に位せる野首に赴かれた。野首には中田師の時に建立されし煉瓦造りの聖堂があり老松鬱蒼とその周囲に傍立ち、白砂の海岸と相俟って風景いとど絶佳。野首は白濱長吉という宿老が長く采配を執っていた所だそうで、その感化を蒙ってか、信者は皆質朴で熱心だ。なお野首の山には鹿が多い、畑を荒らすので、自営上撲殺の外ない、私達もその余慶を蒙り、新鮮な鹿の肉を賞味することが出来た。(以上熊谷神学生)

 

 仲知の児童170名は810により19日迄、古川神父様及び濱口前田両神学生の指導に下に、公式初聖体、並びに堅振を授かる準備をした。18日午後から鶴田師も来援せられた。819日、日曜のミサを野首にお立てになった浦川師はいよいよ仲知にお出でになる、村人は田舎相応の歓迎準備に力を尽くした。午後5時、待ちに待った野首の発動船が万国旗をかざして満潮しきった仲知の浦に白鳥の様に滑り込んだ。浦川師は熊谷、岩永両神学生を同伴して上陸し、古川主任司祭、堅振児童及び村人に迎えられ、青年のしつらえた歓迎門を通ってアコの樹蔭の古びた聖堂にご入堂になった。820日、碧玉の浦曲に曇りなき蒼天青と緑の平和境に日章旗と十字架旗が朝日を浴びて空高く翻っている。この日、公式初聖体の常例により、児童は十字架旗を手にして海浜に下り(女児は花環を戴き)、神学生の奉じる十字架と蝋燭とを先頭に行列を組んで聖堂に進む。濱に、畑に、山に、野に讃美歌が流れる。一同聖堂に入り終わるや、浦川師は堅振と聖霊に関する説教をなし、それから愈々キリストの兵士たる永遠に消えざる印をお授けになった。低い聖堂の内部は、杉葉の香と人の熱気で、流汗三千石の思いである上に、聖体拝領の望みの為に絶叫に近い歌と祈りが聖堂に溢れてまさに白熱の状態である。

 

副司教の御手によって主の聖体は児童の胸に下り給い、神を宿す喜びに幼心に心は躍っている、式後司祭館前にて整列し、尾上一衛君総代となって感謝の言葉を申し上げ「大きくなったら仲知に立派な聖堂を建てイエズス様を住まわせましょう」と無邪気に言い放った。副司教様はそれを聞き咎め、「大きくなるのを待ってはならぬ」と注意せられた。実に仲知最大の悩みは古色腐朽の聖堂を固守して、未だに再建すること能はない一亊である。午後、3人の神父様の3つの説教の興奮と、感激との中に、洗礼の約束の更新と、聖母肩衣祝聖式とがあり、続いて受堅者斉唱裡に降福式が行われた。

 

式後、浦川師は神学生を伴い、モ-タ-船で江袋墓地を訪い、故道田神父様と楠本神学生を追悼された。「この神父様には大変お世話になったがな……」とおっしゃって、自ら石碑の周囲に生えていた十数本の雑草をお抜きになった。仲知に引き返して、故久志神学生の遺族を訪問慰撫された。21日「よく説教をして下さる神父様」と言う印象を残して、堅振の神父様、神学生、宿老、教え方を乗せた発動船は、見送り人の万歳万歳を浴びながら名残惜しくも奈麻内へ向かった。 純心の児童等は初聖体並びに堅振の興奮より家路に帰らんとして、俄かに秋風の立つのを覚えた事であろう。(以上前田神学生)

 

五島の堅振(続き)

昭和9年101日  カトリック教報

821日、浦川師一行は万歳三唱の裡に仲知に別れを告げ十字架旗を翻した30馬力の発動船で青砂ヶ浦に向かわれた。青砂ヶ浦は俗に奈麻内と称し上五島有数の良港、漁業の中心地で、天主堂も煉瓦造りの堂々たるもの住宅もかなり整頓しているので仲知での疲労を幾分休めることが出来た。 

22日例によって例の如く堅振式を済まし、記念撮影をなし、翌23日には「海星丸」で宛然川の如き若松瀬戸を通過して福見教会に着いた、福見の海岸は激浪怒涛を以てその名を知られているのだが、この日に限って細波すら立たず、至極平穏であった。 福見の司祭館は涼風が気持ちよく訪れてくれたが、聖堂はかなり暑く、流汗に泳ぐ感なきを得なかった。それから奈留島、玉之浦と事は予定通りに進行し浦川師は27日に玉之浦の堅振を終わるや、即日福江に引き返して休養し、翌28日長崎に帰り、教報の原稿その他の用務を果たし、31日朝鮮に渡り、京城と仁川の内地人信者の黙想会を指導し、914日朝鮮を辞し、帰途、佐世保に立ち寄り、同教会の児童及び大人118名に堅振を施された。30日には港外高島の信者が70余名長崎に来たり、大浦天主堂にて堅振を授かった。 因みに830日上神崎教会でも、中田師によって200名以上の児童が堅振を受領したと言う。


 
 

下五島の堅振(2)

カトリック教報より

 

511日好晴に恵まれた司教様は楠原より三井楽教会に渡られた。山頭神父様に組織せられた楽隊が岐宿まで御出迎えに来ておりそこより船で高崎に渡られた。11時にご到着なさるや現主任司祭の西田神父様は多数の信者を引き連れ3頭の馬を用意して海岸で司教様を迎えられた、馬上の人となって高崎から嶽の天主堂まで山路を辿って行かれたが、得意な人は片岡高俊師のみで、殊に司教様には生まれて初めて馬に乗られたそうで楽隊の音に驚く馬の背にあって「自転車に乗るより少し難しいし気味も悪そうだ」と仰せになったが幸いに土産の小作りな馬で落ちても怪我をしそうでもなさそうなので安心されたと見え上出来に終わられた。西田神父様にはこの天主堂に赴任されてから、まだ半年にしかならぬが病人訪問の時度々乗馬なさるので只今では大分お得意のようであった。 

 

512日午前8時半から11時まで掛って嶽天主堂で溢れ切った程の信者の集会中堅振ミサその他の祭式があったが173名という多数の受堅者があり約7百名の聖体拝領者があった。ここも同じく狭い、古いと言うので聖堂改築の気運に迫られているが矢張り財政上の困難で青息吐息の惨状である。それでも宿老たちは大いに奮発して10年計画の下に聖堂改築の決意を示されたのは心嬉しき次第である。自分の教会は自分で心配するのが当然だと言う信者の頭に徹していることは感謝に堪えない。

 
 

かくて513日午後1時嶽教会を辞して例により多数の信者と嶽教会の音楽隊とに見送られて、柏に出て、そこから迎えの船で玉之浦井持の教会に出帆した。船から船へ島から島へと渡り歩く五月の旅行は実に楽しい、ことに波静かなる好日和の船路は緑なす五島の崎嶇たる山嶽を眺めつつ人知れぬ詩と歌との湧き出ずる感じがする鶯は麗らかに谷間に囀づる、清き心は司教を迎える信者の胸に溢れる、崖には名も知れぬ美しき花が香る、ああ恵まれたる自然よ、慈母たる天地よ、神を称えよ、と叫びたい。

 

井持教会に着いたのは午後4時半であった、早速聖堂とルルドに参詣した。井持のルルドそれは我々長崎教区人には余りにも良く知れ渡っているが、而して年中巡礼者は殆んど断えないが、之を望むらくは日本全国の巡礼地にしたいのである、今の世に奇蹟が入用である、不信心な日本人に立ち返りの為には超自然的な異現象が欲しい、此処のルルドで奇蹟に類した現象のあったことは聞かないでもない、それをもっと度々もっと深刻に欲しいのである。信者の熱心さえ募り、サンタマリアへの念願が燃えて来たなら、井持のルルドは日本全国の巡礼地となるだろう、而して多くの異教者の改心の導火線となるだろう。

 

514日午前8時半からこの地の天主堂で85名の堅振があり続いて玉之浦本村を訪問した、この玉之浦には過般大火があって目抜きの場所は焼けてしまったが只今は再築に着手している所が多い。信者も9戸まで類焼しているので気の毒であるが、それでも長崎からは勿論東京の訪問童貞会、秋田の聖霊愛子会等から御同情を得たことを深く感謝しておられた。

 

 午後3時からは聖体降福式があり次いでルルドの洞窟の前で一同記念の撮影等をした。主任司祭の島田神父様は着任後長いことではないがこの地方一帯に人民の貧困なるに同情せられて試験的に教務の傍らブドウ園を小規模に経営せられ自ら研究耕作手入れなどなさっておられる。要は如何にせば五島の猫額大の土地を最も有利に使用して人民をしてその生活に安んじ得るかのご研究である、同感の至りである、御成功を祈る。

 

515日午後1時半にはサンタマリヤの巡礼地井持天主堂を発して再び船で送られて中須に行った、其処から自動車を駆りて3時半福江に帰着、再び出口神父様に迎えられ、16日は富江を視察してその夜再び福江より長福丸にて長崎へと帰った。(終り)
 
 

島田師の時代

3ヶ町村カトリック青年連合総会   1920年(昭和5年)615日 カトリック教報

福江・奥浦・久賀島の3ヶ町村カトリック青年連合総会が5月13日日曜日、久賀島村長を始め、奥浦小学校長、久賀島3校長、在郷軍人分会長、神官等の来臨を仰いで浜脇丘頭に開催された。雲ひとつ止めない日本晴れの好天気に恵まれて、福江や奥浦からも見物人がどしどし押しかけた。 総会は連合会長浦徳市氏の開会の辞に始まり、就業前の祈りを唱えてカトリック的気分を濃厚ならしめた。君が代を歌う会員の心は勇み立ち、意気天を衝く概があった。 連合会長の告辞に続いて二・三来賓の訓話があり、5分間演説が始まった・若人の雄叫びは、万人の心に強い感激を与えずには措かなかった。 演説が終って、この日の呼び物たる連合運動会が始まった。下五島健児の意気を示すは此の時だ、見よ、筋骨隆々たる肢体を午後の太陽はこれ等健児の上に輝き渡る、若人の心臓は青春の血に興奮する。副会長濱村政右衛門氏の軍隊仕込みの号令に運動会は進行し、そこここの見物席より哄笑がしきりに爆発する。終わりに三ヶ町村選手リレ-があり、熱狂裡に奥浦村の選手に凱歌が上がった。

連合会長の音頭にカトリック青年会万歳を三唱し、目出度く本日の連合総会は閉会したのであった。 (久賀島通信)

  
   
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