島田師の玉之浦小教区時代
五島の堅振
昭和9年5月15日、カトリック教報
我等の早坂司教様はご発病以来早10カ月、近来益々快方に向かわせられたとは言え、尚当分の間ご静養の必要があるので、浦川総代理は暑中休暇を利用して五島各地を巡遊し、堅振の秘蹟を授けられることとなった。私にも随行を許されたので8月14日女島丸に乗り込んだ、海上は波静かに微風徐に至り愉快な航海をすることが出来た。午後5時岩瀬浦に着くと、鯛の浦の主任司祭鶴田神父様は数人の総代、熊田神学生等と発動船からお出迎え下さった。
少し行くと濱串天主堂である濱田師はここで聖母被昇天の祝典を挙げられるはずで、我等は天主堂を拝観した上で、鯛の浦天主堂に向かった。五島の海岸は奇岩絶壁の乱立せる上に蒼松枝を交え、海は飽くまで碧く、その間を真帆片帆が辷り、発動船が走っている光景といったらそれこそ全く絵だ。 鯛の浦は中田神父様の出身地で、浦川氏も学生時代には幾度かお遊びになったこともあるし、当時のみすぼらしい司祭館、貧弱な養育院(女部屋)と、今日の広々した司祭館、小じんまりした聖堂、文化式の孤児院などと見比べて、今昔の感に堪えないものがあったらしい。
15日聖母の被昇天、午前8時説教、唱歌ミサ、聖体降福式が続け様に挙行された。 例年ならば一部の代表者が濱串まで行ってミサに与かるの幸福を得るに過ぎないのに、本年はお陰で男女老若を問わず、挙ってこの祝典に与かることが出来たので皆大いに喜んだ。 いよいよ堅振の日取りが決まった。 17日、鯛の浦-受堅者275名 20日、仲知-受堅者170名 22日、奈麻内-受堅者250名 26日、福見-受堅者190名 26日、奈留島 27日、受堅者90名 27日、玉之浦-受堅者60名 早速仕事に取掛らねばならぬ16日浦川師2回。鶴田氏1回受堅準備の説教をなし、午後桐の浦の松下師が応援に来て告白を聴かれた。
明けて17日は、朝から綿を契った様な雲が北から南に流れて本日の暑さを予想させ、樹上の蝉も何となく意地悪く鳴き出した。喜びを満面に溢れらした受堅児童は暑苦しい聖堂を片端から埋めた。午前8時「聖霊の御働きに就いて」の短いお説教に引き続いて堅振、それからミサ聖祭という順序で、式はスラスラと運ばれた。奮闘生活の中に飛び込むべき彼ら児童は聖霊の賜物を蒙り、永遠の十字架を額に刻まれ、完全な信者として社会に立たねばならぬのである。
信、望、愛を漲らした彼等の祈りを耳にした時、聖霊の御手がこれら275児童の上に伸べられるであろう事を思うと、誰ゕ亦頼もしい感に打たざるを得よう。 ミサ後東浦小学校の校庭で受堅者一同を代表して中田君の謝辞を読み、浦川師の訓戒と記念品の分配があって記念撮影をした。18日浦川、鶴田両師は蛤の海岸から発動船に乗り込んで北進し、仲知の古川師を援けることにし、浦川師はなお進んで北松浦郡野崎島の中央に位せる野首に赴かれた。野首には中田師の時に建立されし煉瓦造りの聖堂があり老松鬱蒼とその周囲に傍立ち、白砂の海岸と相俟って風景いとど絶佳。野首は白濱長吉という宿老が長く采配を執っていた所だそうで、その感化を蒙ってか、信者は皆質朴で熱心だ。なお野首の山には鹿が多い、畑を荒らすので、自営上撲殺の外ない、私達もその余慶を蒙り、新鮮な鹿の肉を賞味することが出来た。(以上熊谷神学生)
仲知の児童170名は8月10により19日迄、古川神父様及び濱口前田両神学生の指導に下に、公式初聖体、並びに堅振を授かる準備をした。18日午後から鶴田師も来援せられた。8月19日、日曜のミサを野首にお立てになった浦川師はいよいよ仲知にお出でになる、村人は田舎相応の歓迎準備に力を尽くした。午後5時、待ちに待った野首の発動船が万国旗をかざして満潮しきった仲知の浦に白鳥の様に滑り込んだ。浦川師は熊谷、岩永両神学生を同伴して上陸し、古川主任司祭、堅振児童及び村人に迎えられ、青年のしつらえた歓迎門を通ってアコの樹蔭の古びた聖堂にご入堂になった。8月20日、碧玉の浦曲に曇りなき蒼天青と緑の平和境に日章旗と十字架旗が朝日を浴びて空高く翻っている。この日、公式初聖体の常例により、児童は十字架旗を手にして海浜に下り(女児は花環を戴き)、神学生の奉じる十字架と蝋燭とを先頭に行列を組んで聖堂に進む。濱に、畑に、山に、野に讃美歌が流れる。一同聖堂に入り終わるや、浦川師は堅振と聖霊に関する説教をなし、それから愈々キリストの兵士たる永遠に消えざる印をお授けになった。低い聖堂の内部は、杉葉の香と人の熱気で、流汗三千石の思いである上に、聖体拝領の望みの為に絶叫に近い歌と祈りが聖堂に溢れてまさに白熱の状態である。
副司教の御手によって主の聖体は児童の胸に下り給い、神を宿す喜びに幼心に心は躍っている、式後司祭館前にて整列し、尾上一衛君総代となって感謝の言葉を申し上げ「大きくなったら仲知に立派な聖堂を建てイエズス様を住まわせましょう」と無邪気に言い放った。副司教様はそれを聞き咎め、「大きくなるのを待ってはならぬ」と注意せられた。実に仲知最大の悩みは古色腐朽の聖堂を固守して、未だに再建すること能はない一亊である。午後、3人の神父様の3つの説教の興奮と、感激との中に、洗礼の約束の更新と、聖母肩衣祝聖式とがあり、続いて受堅者斉唱裡に降福式が行われた。
式後、浦川師は神学生を伴い、モ-タ-船で江袋墓地を訪い、故道田神父様と楠本神学生を追悼された。「この神父様には大変お世話になったがな……」とおっしゃって、自ら石碑の周囲に生えていた十数本の雑草をお抜きになった。仲知に引き返して、故久志神学生の遺族を訪問慰撫された。21日「よく説教をして下さる神父様」と言う印象を残して、堅振の神父様、神学生、宿老、教え方を乗せた発動船は、見送り人の万歳万歳を浴びながら名残惜しくも奈麻内へ向かった。 純心の児童等は初聖体並びに堅振の興奮より家路に帰らんとして、俄かに秋風の立つのを覚えた事であろう。(以上前田神学生)
五島の堅振(続き)
昭和9年10月1日 カトリック教報
8月21日、浦川師一行は万歳三唱の裡に仲知に別れを告げ十字架旗を翻した30馬力の発動船で青砂ヶ浦に向かわれた。青砂ヶ浦は俗に奈麻内と称し上五島有数の良港、漁業の中心地で、天主堂も煉瓦造りの堂々たるもの住宅もかなり整頓しているので仲知での疲労を幾分休めることが出来た。
22日例によって例の如く堅振式を済まし、記念撮影をなし、翌23日には「海星丸」で宛然川の如き若松瀬戸を通過して福見教会に着いた、福見の海岸は激浪怒涛を以てその名を知られているのだが、この日に限って細波すら立たず、至極平穏であった。 福見の司祭館は涼風が気持ちよく訪れてくれたが、聖堂はかなり暑く、流汗に泳ぐ感なきを得なかった。それから奈留島、玉之浦と事は予定通りに進行し浦川師は27日に玉之浦の堅振を終わるや、即日福江に引き返して休養し、翌28日長崎に帰り、教報の原稿その他の用務を果たし、31日朝鮮に渡り、京城と仁川の内地人信者の黙想会を指導し、9月14日朝鮮を辞し、帰途、佐世保に立ち寄り、同教会の児童及び大人118名に堅振を施された。30日には港外高島の信者が70余名長崎に来たり、大浦天主堂にて堅振を授かった。 因みに8月30日上神崎教会でも、中田師によって200名以上の児童が堅振を受領したと言う。
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