カトリック教法、1994(平成6)年2月 ほしかげ |
カトリック中央協議会会報、2008年第6号 「ともよろ」がこだまし響け復活祭 眠気さす春のうららな昼下がり、どこからともなく、「こんにちは」「こんにちは」、元気な仲良しこよしの声が響き始めた。今度は突然「バカヤロー」「バカヤロー」の声が飛び交い始め、ついに泣き出しあった。けんかが始まったのだ。 いつだったか、園児と保護者に「少年とこだま」の話をした。「少年が、ある日、山に向かって『大好きだよ!』と叫んだら『大好きだよ!』とこだまが返ってきた」という内容である。すると数日後、ある保護者がうれしそうに語ってくれた。「神父さまうちの坊主が『ぼく、明日から、あの少年のようにするよ。意地悪なことは言わない。やさしいことを言うよ。なんだか楽しくなってきた』と喜んでますよ」。 「ともよろが」こだまし響け復活祭 「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(マタイ18・3)。イエスの言葉はなぜか、サン・テグジュペリの童話に通じている「少年とこだま」の話は、子どものようにならなければ、生活の中には生かせない。 サン・テグジュペリは嘆く、「かつて子どもだったことを忘れずにいる大人はいくらもいない」と。イエスもサン・テクジュペリも大人という大人に、かつての子どもごころを取り戻させて、この世をもっと息苦しくないものにしようとしたのだろう。「ごめんね」、「ごめんね」。「好きだよ」、「好きだよ」、いつの間にか仲直りをし、泣いたり、笑ったりの子どもたちに桜の花が舞っていた。 泣き笑ふ童のほっぺや花の舞い そうだ、子どもの年頃は子どもごころの純真さをじっくり味わってほしい。一足飛びに大人になった(あるいは大人にならされた)のでは元も子もない。子どもごころを取り戻す心意気がなくては、イエスの言葉も生かせないし、その教えが伝わることも広まることもないと思う。 福音宣教推進全国会議(NICE)から20年がたった。会議に答えて司教団が発表した決意文「ともに喜びをもって生きようはまだまだ広まっていない。「ともに泣いたり笑ったり」でままごと遊びをしている子どもたちから神の声が聞こえる。 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7・12) ままごとに神の声して春うらら |
カトリック中央協議会会報、2008年第8号 還暦の神父に海の記念日来 いつ頃からか、国家の休日として「海の日」なるものが制定された。50余年前、故郷の仲知小・中学校は、夏休み開始日が「海の日」であった。海難事故防止のため、仲知・真浦の浜(我が家の前)で水泳訓練が行われていたのだ。小学校1年生は、中学生たちに浜辺から沖に連れて行かれて放り出される。大概の者は自力でへた(海辺)に辿り着けなくて溺れてしまう。一度溺れると泳げるようになる。これが仲知式水泳訓練であった。 虐めとは違うよ海の洗礼日 わたしも例に漏れず、突然、数人の中学生たちから伝馬船に乗せられ数十メートル沖で海に放り出された。数メートルは犬掻きで泳いだと思う。しかし、当然のように溺れ、まさに藁をも掴む気持ちとはこのことか、必死の沈没が始まった。その時、中学生たちが私の両腕を支えては外し支えては外ししながら、へたまで介添えをしてくれたのだ。一度この訓練を受けるとほとんどの子が泳げるようになった。泳げるようになったら、海の獲物取りが始まる。 へたのミナ沖のサザエや海遊び 泳ぎを覚えたての頃は、先ずへたでミナやタコなどを獲る。少し自信がついてきたら、真浦の浜の10メートルぐらい沖合いで主にサザエを獲る。小学校高学年ぐらいになったら少し離れた岩場に行ってハコフグやカワハギ突きをする。「神父様瀬」付近は絶好の実力と肝試しの場所だった。これに自信がつくと当然のごとく冒険がしたくなる。悪がき心がこれに輪をかけ一大失態をやらかしたのである。 日曜のミサよりサザエ獲りたしや 小学校5年生だったと思う。夏のある日曜日が大干潮と重なった。近所同士の仲良し3人組は、日曜のミサが始まって誰一人見ていない真浦の浜から伝馬船を出した。真砂石の浜をそろりそろりと下ろし、隠れるようにして沖に漕ぎ出した。目指すは「四つ瀬」、仲知一のサザエの宝庫だ。小一時間ぐらいかかった。泳いでみると、居るは居るはサザエが、まさにゴロゴロしていた。昼頃には船の両いけすは山盛り一杯になった。水棹にジバンを結び付け、「大漁だ!大漁だ!」と打ち振りながら帰路についた。真浦の浜近くではそろりそろりと着岸したのだが・・・。突然、黒い人影が現れ、「三歩以上駆け足!罰のため・・・駆け足!」との号令がかかった。号令主は神父様だった。 悪どもは地獄へ行けと極暑かな |
カトリック中央協議会会報、2008年第8号 還暦の神父に海の記念日来② 「そのサザエはどげんしたとかな!」と、暑中見舞状が届いた。前号会報の「でざあと」読者からだった。 かのサザエどげんしたとや夏見舞 さて、私自身が分からないのだ。「三歩以上駆け足!罰として『一本松』(仲知の東集落)の浜まで真砂石二つずつ取りに行ってきなさい。駆け足!」との号令で、サザエのことは吹っ飛んでしまった。灼熱の道を西の浜から峠を越え、東の浜まで往復走る羽目になったのだ。しかも、帰り道は真砂石2個持ってである。そして、夕方まで聖堂の正門石段上から真浦の浜を向いて、その真砂石2個を両手で差し上げたまま立たされた。陸にあげられ、まるで干からびた河童だった。 日曜の務めのつけや涸河童 やっと涼しくなった頃には、「聖堂の中に入って『めでたし』を1万回唱えて帰りなさい」ときた。今度は、白昼の熱射で蒸し風呂化した聖堂の中で、終わりのない祈りが命じられたのである。 しかし、親たちと神父様は代わる代わる見舞に来た。そして、夜もふけた頃共に祈りをささげ、親子同伴で帰宅した。 罰だったのに、不思議と懐かしいよき思い出として残っている。 子も親も神父も夏の夜なべかな 悪がき3人の中で、巻き網漁船員になったM君は、若干20歳の時、青森県八戸市沖で、ノルウエーのタンカー船と衝突し、消息を絶ってしまった。長崎魚市場職員になったS君は、早朝出勤途中で車にはねられ、34歳で亡くなった。私は、神学生時代や神父になってからも、海の漁で何度か危機一髪の難に出くわしたが、なぜかまだ生き残っている。 3人が共に漁に関係しながら人生を終える運命にあるならば、私は、「人間をとる」漁師のまま人生を終えたい。その時、本当に3人分の罪滅ぼしが終わるような気がする。 今年の8月31日、島本要大司教様の7年忌命日に合わせて、「仲知出身物故聖職者追悼祭」が、仲知小教区主催で行われた。やはり、私は不良神父なのか、ミサ中に「かのサザエ」のことがよみがえってきてしまった。 |
カトリック中央協議会会報、2008年第10号 ロザリオの月や佐世保に祈る会 「ああイエズスよ、われらの罪をゆるしたまえ、われらを地獄の罰より免れしめ、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国へ導き給え」これは、50年以上も前から佐世保市俵町教会に存続する信心会「ロザリオ会」の祈祷分である。 10家族前後のメンバーで構成され、月ごとに担当家庭を訪問し、祭壇に先祖の名前を列記して掲げロザリオを唱える。その各玄義のところで「ああイエズスよ・・・」と、この祈りを入れるのである。それにしても、会員たちの先唱力は、神父も足元に及ばないほどの名人ぞろいだ。特に、ロザリオ月となるとますます冴えわたる。 リズミカル ロザリオ月のオラッショかな 祈りの後は会員親睦のために簡単な食事(時には担当家庭のもてなしで豪華な食事)をして終わる。お互いの霊魂の助かりを目的とする会だから、当然、会員の家族の死者ミサも毎日ささげ、会員が亡くなったら、通夜、葬儀ミサはもちろん会員だけの弔問の祈りにも集まる。 わたしは、母と同居していた関係もあり誘われて、親子で会員になった。担当月は7月だった。仲知の実家に上五島巡礼を兼ねて2回行き、皆さんに祈ってもらった。江袋の定置網漁を体験させてもらったり、くさぶ(べら)釣りに行ったりもした。いつの間にか私と母の担当の7月は親睦を兼ねた巡礼旅行になり、下五島、天草、平戸、黒島、大分、福岡・新田原などの巡礼をした。自ら最後の巡礼と覚悟して、皆に支えられ励まされながら完歩し、巡礼後に間もなく天寿を全うした会員のことは、一生涯忘れられない思い出となった。 喜びの秘義や余命に珠の汗 そして、最もロザリオの力を感じたのは、俵町教会堂建設の時だった。幸い、会員の中には建設委員会の委員長も副委員長もいたので、祈りの後の飲食の折に、何気なく重要な懸案事項を話し合ったりしていたら、不思議と名案や解決策が出てきたりしたのだ。たとえば、建設資金の確保に、拠出金の自己申告制や地下納骨堂の併設販売案、会員の一人からパイプオルガン(当時で1千万円余り)の寄贈申し込みがあったことなどだ。ロザリオ月にロザリオの祈りの効果を絶賛し、亡くなった会員たちの冥福を祈りながら詠んだ。 |
カトリック中央協議会会報、2008年第11号 11月十字架の神秘死者の月 ある家族の依頼を受けて病者の塗油の秘蹟を授けに行ったときのことである。病人はその家族の家主であったが、秘蹟の呼びかけには全く反応がなく、私も家族の方々も不安の中に祈りを始めた。 ところが、十字架の印による塗油を額と両手のひらに力強く印された時、おそらくその瞬間、触覚が蘇ったのだろう。秘蹟を感じ取ったらしく、彼は右手を大きく動かして確かに十字架を切ったのである。それが一度だけでなく、二度三度と十字架を切り始めたのだ。まさに、神のお恵みであろう。 十字切る人の末期に時雨けり それにしても、臨終に際して、瀕死の最中に、しかも意識もうろうとした中で、確実に十字架を切れる人は何と幸いなことか。私にはできるだろうかとうらやましくもあり、また、家族の方々とともに、私たちの信仰のすばらしさを喜びにたたえ、彼の魂の救いを確信することができた。パウロをして、「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架の神秘を悟らされたような気がしたのだ。臨終の時に頼れるもの、それは十字架以外に何もない。十字架こそが天と地を、神と人とを結ぶ架け橋であり、天国への確かな道などだ。この十字架に対する信仰さえあれば、私たちは今も臨終の時も、どんな苦しみや悪にも打ち勝てる。罪から清められ、死の恐怖と悲しみにも打ち勝って永遠のいのちに、つまり、キリストと共に復活の栄光に与れるという希望が湧いてくる。 列福の11月が来たりけり ペトロ岐部と187殉教者の列福式の日が来た。殉教者たちの信仰を改めて知らされる。信じる者にとって、十字架はまさに神通力であり神秘なのだ。十字架さえあれば怖いものはない。殉教こそ、その証だったのだ。 主イエスの声が聞こえてくるようだ。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(マルコ5・34) 十字切る三万人の福者祭 |
カトリック教法、昭和60年8月1日 宝亀小教区百周年を祝う―合わせて三末新司教の歓迎会も― 記念ミサ 嵐ならぬ豪雨を静められたキリストのお恵みにより、さわやかな晴天となった6月30日(日)、宝亀小教区(主任・前田万葉)では、郷土出身の三末新司教を迎えて仮教会創設百周年祭が盛大に催された。 午前11時、三末司教の司式で、松永司教をはじめ17人の地元出身司祭、歴代の主任司祭、それに地区司祭による百周年記念感謝ミサが荘厳に捧げられた。このミサには信徒約四百人と地元の出身の修道女のほか、平戸市長や県議、市議会議長も参列し共に敬虔な祈りを捧げた。 午後1時から百周年の喜びと合わせて、三末司教歓迎祝賀会が宝亀小学校体育館で行われ、幼児からお年寄りまで信徒総参加のにぎやかな祝典の一日となった。 小教区の歩み キリシタン潜伏時代、約180年余り前に大村藩外海地方より直接、京崎、宝亀地区に、また五島や黒島を経て山野地区に、いずれも迫害を逃れ、信仰の安住地を求めて信者が住み着いた。 中野地区には土着の信者と明治初期の宣教再開後に入信した人たちが入り、宝亀小教区はこのような人たちによって信仰開拓がなされた。やがて1865年の信徒発見、1873年の信仰の自由到来とともに、長崎から、黒島あるいは紐差を宣教の拠点として宣教が再開された主にペル師、ラゲ師、マタラ師をはじめ、初代邦人司祭岩永師、有安師などの巡回を得ていた。 1865年、京崎地区に18戸の信徒をもって小教区最初の仮教会が創設されたのをはじめとして、雨蘇と山野に1887年に仮教会が、1889年には中野に民家の聖堂が設けられ、信徒の宗教教育並びに聖務の執行が充実したものになり、信徒も増加していった。 そして1898年3月19日、マタラ師の資材投資と信徒の献金により、京崎、雨蘇の両仮教会を廃統合して、現在の宝亀教会の献堂を見たのである。これを機会に1899年1月19日、紐差教会から独立し、山野、中野を合わせて宝亀小教区の設立が認可されることとなった。 |