エッセイ、黙想など

心の安らぎ

 

「こころの安らぎ」というのは魅力ある言葉です。心の安らぐ場所、物、心の安らぎを与えてくれる人、それらを誰しも求めているのではないでしょうか。その場所にいるだけで、何かほっとした気持ちになる。あるいは、その人の側にいると、別に話すとか何もないのだけれどもほっとした気分になり心が安らいでくる。このような場所とか人を持っていると、その人はどんなに幸福であろう。

 

「安らぎ」ということを人々が強く求めるのは、日常生活にいかにそれが少ないかを意味している。つまり、周囲にいろんな楽しい娯楽が提供されているにもかかわらず、生きることの不安や空しさを感じながら生きている人が多いということである。そして、しばしば安らぎがないのは、毎日仕事や勉強や付き合いに駆り立てられて生活にゆとりがないことが原因になっていると言われます。では、何もすることのない老人たちはみんな安らぎを感じて老後を生きているのだろうか。しばしばそうではない。忙しくて安らぎがない、という人もいる反面、何もすることがなくて、安らぎがない人も結構存在するのである。従って、人間は仕事をせずにいれば安らぐとか、暇になれば安らぐとかなどという単純なものでない。ここに人間の不思議があるのではないでしょうか。

 

生きている限り不安は消えない。ですから、完全にこの不安のなくすことができなくても、少しでも解消したり、軽くしたり、また不安をコントロールして、大きな害を受けないようにし、明るく、健全でこころ安らかに生活できるようにしたいものです。そのためにどうしたらよいでしょうか。いろんな方法がありますが、ここではみことばを読み味わうことでこころの安らぎを得る方法について考えてみたい。

 

わたしは今年も各班長さんの協力をいただいて、10月と11月に集中して地区訪問をさせていただき、マタイ福音書6章に記されているイエスの山上の説教の一部を一緒に読み、味わい、分かち合いをしました。その説教のテーマは「思い煩うな」です。この箇所を選んだのは特別な理由はありません。ただちょっと考えたことは、この箇所は心配性のわたしたちに心の安らぎを感じさせてくれる箇所の一つであるのではないかと考えたからです。

 

「だから、言っておく。自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。・・・空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、借り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は、鳥よりも価値あるものでないか。野の花がどのように育つかをよく注意してみななさい。働きもせず紡ぎもしない・・・・。きょうは生えていて、明日炉に投げ込まれる野の草をさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなた方にはなおさらのことではないか。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6・25〜34)

 

わたしたちにとって一番力になり、支えになってくださる方は神様です。ですから、近年はカトリック新聞の広告欄にも今日の時代を反映して、安らぎとか癒しを求めての黙想会やミサの案内がよく見られるようになった。何かの悩み事があって、小さな心が押しつぶされそうであるとき、静かに神に向かって祈り、聖書のみことばに親しむことにしてみたらよいのではないでしょうか。そのとき、落ち着きのないわたしたちの心は慰められ、力を失った心は元気を取り戻すことができるようになるかもしれません。あるいは何をしたらよいか分からず、迷っていた心の中に、神の知恵と光が差し込み、生きるべき道筋が与えられることもあることでしょう。安らぎこそは、わたしたちを生き生きとよみがえらせる神様からの愛の恵みです。

 

「主に息うまで安らぎを得ることはない」これは聖アウグスチヌスの有名なことばです。このことばの意味は、人間の世界には絶対的な安らぎはない。人間はいつでも人間として生きている限り不安定な存在である、ということです。それ故に、いつでも祈りやみことばの黙想によって神の中に安らぎを求めて生きることが、神を信じている私たち信仰者のあるべき姿ではないでしょうか。

復活祭を迎えて

 

桜の開花と共に、今年もイエスの受難と死、そして復活という過越の出来事を記念し祝う季節が到来しました。イエスが死から復活したということは、前代未聞の出来事です。信仰のない一般の方にとっては、この真理を受け入れ、理解することは容易なことでないかもしれません。しかし、私たちキリスト信者にとっては、キリスト教信仰の中で一番中心となる信仰です。ですから、自分の人生、日々の生活の中で実感をもって体験できるようにしなければならない。果たして出来るのでしょうか。ここでは私自身が幼少時よりごく自然に復活信仰をはぐくんできた体験から復活信仰を探ってみることにする。

 

わたしは信者の家庭に生まれ育った。幼年時代から何の問題もなく当たり前のこととして神を信じイエスを信じていた。天国のことや地獄の存在を母や保育所の先生から教えられてそのままに信じた。そのような神への信仰に当然のこと復活の信仰は含まれていた。

今思えば、わたしにとって保育園の園児だった時に受けた初聖体が信仰を意識する最初の機会であった。初聖体を受けるために必要とされる祈りは寝る前に蚊帳のなかで母が教えてくれた。当時文語体で子供が暗唱するには長い祈りであった「痛快の祈り」や「告白の祈り」が暗唱できないで困っていた時に姉からからかわれたことの記憶がある。12歳のとき、神父なることをあこがれて長崎の浦上にある公教神学校に入学してから司祭になるまでの14年間は、きわめて宗教的な環境の中で過ごすことになるが、イエスへの信仰はもちろんのこと、主の復活の教義にも疑問を抱くことなく司祭になった。それは司祭になるという当面の課題があったために信仰を思索するゆとりがなかったからである。神父になって、復活の神秘を整理し、教える立場になっている今、復活の神秘を信じることも説明することもいかに難しいかやっとわかり始めている。と同時にこの神秘への信仰に慰めと生きる希望となっていることも事実である。今、私たちは無神論的な日本の社会に生きている。今の世の中にある思想は科学の進歩の影響で人間中心主義に他ならない。ここで、人間中心とは、自分たちの欲望のままに生きて、全世界を支配する、つまり、人間が神になっているような社会である。しかし、本当は自分が生きているというよりも、もっとおおきなものである神よって生かされている、それが仏教にもキリスト教にもすべての宗教に共通した宗教感覚だと思う。自分が中心ではなくて、自分を生かしているものがあるという思いを持つことが信仰の基本である。

 

わたしはこのキリスト教の信仰の基本を裏付けてくれるのがエマオの弟子に復活のイエスが出現した顕現物語ではないかと考える。かれらは、エルサレムから故郷へ帰る旅路で「イエスは生きている」という信仰体験をした。また、福音宣教に弟子たちを派遣する際にキリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といわれた。また、別の箇所では、「2,3人が私の名によって集まるときにそこにわたしが共にいる」といわれたキリストの有名なことばもある。こうしたイエスあるいはキリストがわたしたちと共にいるという状況の基礎は復活信仰に他ならない。精神的に病んでいる現代社会にわたしたちクリスチャンが出来ることは、生かされている、おかげさまで生きている、イエスがわたしと共にいる、そういう復活信仰を自分がまず生活の中で実践することでないだろうか。このような宗教感覚が身につくと人間は来世においてだけでなくこの世でも明るく生きることができないだろうか。今イエスの姿はみえない。エマオで弟子の目から見えなくなったが、それでもかれらはイエスが生きていることを悟った。そして、イエスは自分の存在のしるしとして「パンを裂き」―ミサの最初の呼び名―を彼らに残し、さらにわれわれにも残した。イエスは目に見えないが確かに私たちと共にいる方である。今生きているイエスはまさに2000前に弟子たちに出現されたとまったく同じイエスに違いない。わたしたちは、いつもそばにイエスが臨在し、わたしを支え、生かし、導き、逆境においてもそれを乗り越える知恵を与えてくれる方であると信じる。

こころの時代

これからは「こころの時代」になったと言われたりする。急激に物質的に豊かになり、町には物が溢れているが、こころの方はかえって貧しくなってしまったので、このあたりでこころの重要性を再認識することが必要になる。

では、こころを豊かにするにはどうすればいいのか。一つには自然の美しさや神秘に感動することではないか。今季節は春でどこに出かけてみても花々が咲き誇っていますし、新緑の山々を眺めると、それらを人間のためにお造りなった神の存在を感じることができる。だから、身の回りの自然と共に生きる、自然の中に生きるということで、こころを和ませることができるのでないか。

しかし、何と言ってもこころを豊かにするには秘蹟の生活と信心業が欠かせない。

教皇ヨハネ・パウロ2世によって、復活節第二主日が「神の慈しみの主日」と定められ、日本の教会でも今年から初めて典礼暦の中で祝われることになりました。

教会は、初めから「神の慈しみ」を礼拝していましたが、その中で、最も重要なことは、神に対する人間の信頼です。神を無視し、神を信頼しないことが、イエスのみこころを最も深く傷つけるのです。わたしたちがどんな罪を犯していても、神の恵みによって、イエスと共に復活させてくださるのです。

この「神の慈しみ」に信頼をおく信心を広めたのは、2000年4月30日、神の慈しみの主日に列聖されたポーランドの聖ファウスチィナでした。聖ファウスチィナは、神への信頼を深めていくために、「いつくしみの主日」の前のノベナや、「神の慈しみへの祈りの花束」などの他に、特に赦しの秘蹟を頻繁にあずかることを強く奨めています。赦しの秘蹟を落として神の慈しみに触れるようにしたいものです。

平成15424

日常性生活の中で「南北問題」に関心を

〜「真の開発とは」を読んで〜

 

最近、ヨハネ・パウロ2世の回勅と使徒的勧告を読んでみて感じることは大変人間味が感じられておもしろいということである。社会問題を扱っている「真の開発とは」も同じ印象である。みなさんも機会があれば一読してほしい。

 

ところで、この回勅では「開発」の問題だけでなく、ますます貧富の格差が増大している、いわゆる「南北問題」についても言及している。みなさんもすでにご存知のように、開発の進んだ北半球には財とサービスが集中していますが、南半球ではそれを裏返した状態におかれている。そして世界の民族の大半が生活し、生きているのがこの地域です。本来なら、すべての人間に等しく分配されるべき財貨やサービスがひどく偏っている状態でしかゆきわたっていないというのは、不公平以外の何者でもない。この結果、まったく何も持たないか、あるいはごくわずかな物しか持たない南半球の多くの人々は、生きるために最低限必要とする財テクを手に入れる道さえ閉ざされているので、人間の基本をなす最低限の権利と人間らしく生きるための使命を実現することができないでいます。

 

そこで、北側でも豊かな国に生きて文化的な生活を享受しているわたしたちに日本人には貧しい人に対しての責任がありますが、このような社会問題に関心を持ち、その解決に寄与していくためわたしたち何が出来るのでしょうか。それはよく指摘されているように、日常生活の中でできるだけ無駄使いや浪費を慎み、質素な生活をこころがけることでないでしょうか。

日本は消費社会であり、国民のわたしたちは一人残らず消費主義に影響されて、無駄使いをしているだけでなく、精神的にも欲求不満を味わわされている。なぜ欲求不満を味わわされることになるかというと、テレビの宣伝や新聞のチラシによって分かるように、巷には購買意欲を注ぐ派手な宣伝広告が洪水のように溢れているし、ショッピングに出かけると、どこの店舗でも十分に心をそそられる新しい製品が並び、消費者のわたしたちは、生活にそれほど必要ではない製品を衝動買いしてしまうような誘惑にさらされているからである。

 

たとえば、ここでは携帯電話のことを考えてみよう。携帯電話の世界では各社の競争が激しくここ5,6年の内に次々と新しい製品が開発され、各社が販売競争を激化させている。第1世代はアナログ方式で音声通話だけ、第2世代はデジタル方式でウエブの閲覧やメールができるようになった。第3世代携帯はさらに高速通信が可能となり、デジタルカメラ機能付きや動画の閲覧ができるようになった。

 

技術開発が進んでますます便利になってきたのは大変良いことではあるが、購入に当たっては、自分の使い方を十分に考えた上携帯電話会社を選ぶことが大切でないでしょうか。使う必要がそれほどないのに単に流行だからということだけの理由で古い製品から新製品に切り替えるのは無駄使いだと批判されてもいいわけができなくなる。

 

最後に、生活の豊かさにどっぷりとつかってしまっているわたしたちは、一度手に入れた生活のレベルを落とすようなことはなかなかできないであろう。また、貧しい人を援助するために「生活はなるべく質素に」と人からせかれてもそれを実践するのは簡単ことでないであろう。生活を地味にするには目的意識が必要である。たとえば、節約して蓄えたお金を貧しい人のために献金するという意識を持って質素の生活しようとするなら、それは立派な愛の実践となるし、その行いはたとえ取るに足りない小さなことであっても南北問題に寄与したことにもなるのではないでしょうか。

わたしはどうしたらよいのですか

 

英語の学習のためにNHKラジオ「新基礎英語」の学習をはじめて間もなく2年になります。めげそうになりながら開き直りつつどうにか続けることが出来ていますが、肝心な英会話力は実践の場がないことからどの程度の実力になっているのか分からないのが現状です。しかし、2年近くも続けていると覚えようと努力しなくても自然と口に出るフレーズがいくつかあります。その一つに「わたしはどうしたらよいのですか「what shall I do?」というフレーズがある。このフレーズ事態は単なる疑問形であり、ほとんど文章として意味をなさない。しかし、それにもう一つ以上のフレーズを重ねていくことにより大変意義のある文章になる。たとえば、このフレーズに「神の心を生きるため」という、フレーズを追加するとどうなるでしょうか。そうすると、「わたしは神の心を生きるためにどうしたらよいのですか」という文章になります。これはキリストの生き方、人生観を表すだけでなく、キリストに従って生きるはずのわたしたちの生き方、人生観を表すことばとなる。

 

このことばが念頭にあるためか、最近聖書を読みながらこのテーマが表れる事実に気づかされることがあります。いくつか拾ってみましょう。使徒言行録に描かれている聖霊降臨のときのペトロの説教を聞いた人々の反応を思い出してください。聖ペトロが聖書を引用しながら、神がイエスを主とし、メシアとされたのに、あなたたちはこの方を殺してしまったと力説すると、それを聞いた人々はこころを動かされていいます。「兄弟たちよ、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」

 

これと同じ質問をパウロはダマスコにいく途上でいたします。突然、栄光の主に出合ってパウロは倒れ「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きます。おどろいてパウロがたずねます。「主よ、あなたはどなたですか」。「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」。それまでパウロは自信をもって、ユダヤ教の純粋さを守るために、ファリザイ派の宗教家として熱意と信念をもってキリスト教を迫害し、それが神様のためと思ってやっていたのです。ところが、それは神のこころに逆らうことであったということを知らされて、彼はいいます。「どうしたらいいのでしょうか」

 

わたしたちはどのような生き方をしているでしょうか。神のこころを生きることを優先して生きているでしょうか。たとえそのような心がけをして生きているつもりであっても世俗的な価値観に流され、いつのまにか、神の心とはほど遠い生き方をしてはいないでしょうか。もし、神の心を生きる道から外れて自己中心的な生き方、神を無視した世俗的な価値に従うような生き方になっているようであれば、神の前で祈り「どうしたらよいでしょうか what shall I do?」とたずねることが必要でないでしょうか。

 

 

 人間中心の考え方に慣れてしまっている人にとって神中心の生き方への転換は聖霊の働きなしで決してできません。だから、毎日聖霊の助けを祈ることを習慣にし、その祈りの中で神様に「わたしは今日あなたのこころを生きるためにどうすればいいのですか」と謙虚に祈ることが大切でないかと思う日々です。

挫折に備えて

わたしたちの人生というものは、いつも平穏無事に一生涯、続いていくものとは限りません。いつなんどき、どのような事件が起こり、そして挫折してしまうかもしれません。いやどんな人も、みなその長い人生において、大なり小なりの挫折を体験するに違いないと思います。しかし、挫折したときに、それをどのように受け止め、どのように考え、どのように対処するかによって、わたしたちは自分自身を駄目にもするし、あるいは、その挫折という機会を利用して、より一層自分を高め、成長させ、より充実した生活を作り出していくことも可能です。そのようないつやってくるかもしれない挫折に備えて、わたしたちは今のうちから心の準備をし、訓練しておかなければならないと思います。そのために聖パウロの挫折の体験は参考になるのではないでしょうか。

 

「思いあがることのように、私の身に一つのとげがあたえられました。それはわたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れさせてくださるように、わたしは三度主に祈りました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分発揮されるのだ』いわれました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(二コリント12・7,8)

わたしたちはここで聖パウロでさえも「サタンから送られた使い」、「とげ」にずいぶん苦しんで挫折していたということがわかります。そして、わたしたちと同じ人間としての弱さを持っていたパウロは、なんとか自分を悩ませ続けている挫折から逃れたいと考えたわけです。だからこそ、彼はこの挫折から解放してくださるように三度も主に願ったのです。神がこの挫折から解放してくだされば、苦しみに煩わされることがなく毎日平穏の内に福音宣教という仕事に打ち込めると考えたのです。その気持ちは何となく現代人のわたしたちにも分かる気がします。ところが、神の側からの応えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中にこそ十分に発揮されるのだ」というものでした。つまり、挫折の苦しみから解放されて何にも煩わされることなく、元気に福音宣教に専念できると考えていたパウロの願いと神の望みとは異なっていたのです。苦しみとその結果として生じる挫折の体験の苦しみは、そのまま残るけれども挫折の苦しみを神に捧げながら誠実に働いていれば苦しみがそのままあるにも関わらず、それを乗り越える恵みを経験するというのです。

 

挫折は辛いことです。挫折の苦しみを受け入れることもできず、自分自身に腹を立てたり、怒ったり、他人を恨んだり、憎んだり、その結果、落ち込み、絶望的になり、あるいは何をしてもやる気を失ったりすることもあるでしょう。しかし、それよりも起こった現実を受け入れ、自分に出来ることから始めていって忍耐強く一歩一歩前進していくほうが、より賢明な道でないでしょうか。しかし、そのためには独りで悩みを抱え込まないことです。パウロのように神を信頼し、助けてくださるように願うことが重要です。なぜならば、挫折の苦しみは神がわたしたちに与える試練のときといえるからです。聖パウロがそうでした。神はわたしたちが挫折して苦しみ悩むとき、その苦悩そのものを無視している方ではありません。パウロを試したように、挫折はわたしたちのこころを清め、新たにし、立派な人間になるように高めてくださるためにいわば人格を鍛える“トゲ”のようなものだと考えてみたらよいのではないでしょうか。あるいはまた、今までの生活を見直し、この人生で何か一番大切なものかを考えてみるように呼びかでもないでしょうか。挫折が自分を駄目にするのをそのままにしているのではなく、何とかそこからたちがある努力と工夫をしながらそれを乗り越える力を神に願いたいものです。

 

みことばに親しむ

みなさんは日本では信者人口が少ない割には聖書がよく読まれていることを知っているでしょうか。NHKカルチャー・センターでは毎年千人近くの一般の方々が神学校で学ぶような内容の勉強をなさるそうです。ところが、ほとんどが信者にならないで終わっているそうです。かれらが聖書に関心を持ち、聖書の知識を習得するのは何故だろうか。それは何よりも西洋の文化や歴史を知るのにキリスト教がそのバックボーンになっているので、キリスト教の聖典である聖書が日本人にとって興味の対象となっているのです。このような知識を渇望している方々は信者の他に、百万人も二百万人もおられるという。そういえば、キリスト教に関心を持っている方々が多いためでしょうか、最近、一般の書店でも、聖書やその入門書の他に聖書小説や聖書劇画など聖書に基づく別形態の創作物が派手な装丁で販売されている。このような状況を前に信者が率先して自分たちの信仰の書である聖書により一層親しんでもらいたいという趣旨で、去年、長崎教区信徒使徒職主催の第2回聖書愛読マラソン大会が開催されましたが、わたしは先日この大会に深堀教会、善長谷教会からたくさんの信徒の方が自主的に参加し、完走されましたことを知り、主任司祭として大変喜んでいます。大会に参加され、完走された方の熱意に敬意をあらわしたいと思います。参考までに完走された方の感想文の一部を紹介しますと、以下の通りです。

 

「読み終えてほっとしました。旧約時代は牛や子羊などいろいろな動物を捧げる信仰に驚きました」。(N氏)、「新約聖書は楽しみながら読みましたが、旧約はこんなことは赦されるのだろうかと理解に苦しむ箇所が多々ありました。旧約聖書をしっかり読むことで、新約の理解がとっと深まりました。聖書に親しむ良い機会でした。ありがとうございました。(S氏)「密告したり、殺したりする話は苦痛でしたが、旧約時代も神様がすぐそばにいて悪に傾きやすい人間を導かれる神様のみ摂理を感じ、どきどきしながら読みました。ありがとうございました。(T氏)

 

信徒使徒職評議会では、今年の3月からの予定として、始めての方のためには新約聖書、すでに旧約聖書・歴史書完走者の方々には、教訓書・預言書編を引き続き挑戦していただく計画があります。まだ聖書マラソンに参加していない方は、この機会に新約聖書の通読から挑戦してみたらいいのではないでしょうか。それが無理なようであれば、せめて個人的にマタイ福音書だけでも通読していただくことをお奨めしたします。なぜなら、今年の日曜日のミサ典礼はマタイ福音書の年になっていて、マタイ福音書が中心に継続して朗読されているからです。日曜日のミサ典礼の流れに沿いながら、個人であるいは家族でマタイ福音書を通読することでキリストの教え、その生き方を学び、キリストをモデルとして生きる力を養うことができます。また、そうすることが日曜日のミサの予習、復習となり、説教の理解も易しくなり、さらにミサにも行動的に参加出来るようになるのではないかと思います。

 

プロテスタント教会では、日曜日の礼拝には各自聖書と賛美歌を持って教会へ行くのが普通です。ですからかれらには自分の聖書という思いがあるわけです。イスラエルの学校では旧約聖書が教科書になっている。その場合、大きな声をあげて競い合って聖書を読むことから始める、と言われています。かつてその光景を写真で見たとき、卵からかえったばかりの雛鳥が、一生懸命に黄色い小さな口を大きくあけて親鳥からエサを獲得する様子が感じられて、心打たれたのを覚えています。このような理屈抜きに神のことばを覚えていこうとする姿にわたしたちは倣いたいと思います。わたしたち信者にとって何よりも大切なことは自分の思いでなく、神の思い、キリストの思いを生きることです。神とキリストの思いを知りたければ神のこととキリストのことが書かれている聖書を祈りの気持ちで読み、黙想することが一番の近道です。今年も聖書に親しみましょう。
 

第2の人生を有意義に

 

わたしたちは何歳になっても、「いつも若々しくいきいき」と毎日を送りたいものですが、

青年期のころと、人生の午後を迎えた中年期以降とでは、おのずと生き方も変わってくるはずです。青年期には肉体的にもいのち輝いていますが、人生の午後は、自分の手でいきいきした人生を築くことになります。その一つの節目になるのが、日本人の場合、60歳だと考えられます。仕事とか子育てとか、自分の意志以外に強制される人生は60歳で終わります。これからは自分の意志で、自分の価値観によって人生を新たに生きるための自由な選択ができます。これは人生の余りや付録などでなく、ここから新たに第2の人生が始まるのです。60歳を還暦といいます。三省堂の国語辞典によると、還暦とはふたたび生まれた干支(えいと)に還ることから、人生の振り出しに還ることですが、60歳は決して人生の下り坂の始まりでなく、一つの人生の折り返し地点に過ぎません。決して頭脳や肉体が幼児期に戻り、これまでの人生がゼロになるということでありません。

 

日本人の平均寿命は世界一です。普通に健康管理をしていれば、わたしたちだって80歳くらいまでは元気で幸せに生きられそうです。それも、自分の心がけ次第です。心の持ち方で、第2の人生を空しい人生とも最良の人生ともできるのです。若いときから無理であるならば、中年の働き盛りの頃からでも、第2の人生を実りあるものにしようと始めることが大切である。中年の時から、第2の人生を我が身のこととして本気で取り組むことが必用である。

 

60歳になって定年退職してから、なかなか新しい生活になじめず、結局不満だらけの生活を送っている人も決し珍しくありません。このような人は本人だけでなく周囲の人にも暗い気持ちを与えていますが、このような第2の人生であれば、空しいことです。神がわたしたち人間にこの尊いいのちを与え、この地上に生きるようにしてくださったのは、わたしたちが不幸や悲しみの中で生きることではない。第2の人生においても楽しく幸せにいきるためにこそ、この尊い命をあたえた。それでは60歳からの第2の人生を健康で幸せに生きるために何を心がけるべきでしょうか。そのために心がけるべきとはたくさんありますが、その中でだれでも共通して心がけることは第2の人生を生きるための新しい価値観を発見することでないでしょうか。会社を定年退職となり子供も自分の手から離れると、ふと、自分の人生は何だったのか自問自答する機会もでてくるでしょう。そんなとき「これまで自分はたいしたことは何もやってこなかった」と悲しく思うかもしれません。しかし、人生をあきらめてはいけません。どうすることが自分らしい生き方になるか自分で納得いくまでじっくり考えてください。

 

最後に、わたしも今年還暦を迎えます。

わたしは深堀小教区に着任したときから長期的な視点にたって、第2の人生の生き方はどうあるべきかわたしなりに試行錯誤を繰り返してきました。その結果、人にも役立つし、社会にも貢献でき、かつ福音宣教にもつながることとして社会福祉活動を第2の人生として選択し、その活動を始めて早くも4年近くなります。長崎教区の福祉活動同様、まだわたし個人が実践している社会福祉ボランチィア活動は、活動理念も実践面も共に未熟だらけです。しかし、強い望みだけは持っています。これからもみなさんのお祈りと支えをいただきながらわたしなりに福祉活動を継続していく予定です。引き続きお祈りで支えてくださるようにお願いしておきます。 
 
 

第2バチカン公会議も、教会を全世界のための救いの秘蹟と定義し、教会を社会に開かれ社会に奉仕する教会、さらに希望の光として、身近な地域や社会を照らし出すものだという見方をしました。それ以来日本の教会でも開かれた教会つくりということばが教会内で語られ続けています。これまでの教会は内向きの教会であり、地域社会との接点が乏しく、閉鎖的過ぎて、閉じられたイメージが中心的であったから、そのような内向きの教会の姿勢をうち破るために、開かれた教会ということばが公会議後にでてきたのだと思います。

ところが、日本の司教団は、日本の教会の現状をみて、日本にはこれほどの力量はないし、世の闇を照らし出すほどの光もないということを感じました。そこで、まず、教会のあり方、個人の信仰のあり方を社会の現実から学ぼう、実生活から信仰のあり方を見直そうというふうに方向付けました。そして、1984年に日本の司教団は日本のカトリック教会が少しでも福音宣教に目覚めるように「日本の教会の基本方針」を発表しました。

その基本方針の一つは、多くの人を主の祭壇に招き、洗礼の恵みにあずかっていただくことであり、その二つ目は、今の社会と文化をキリストの精神、福音によって変革する、ということだった。

 

今日の日本の社会の文化の中には、すでに福音的な芽生えもあるが、多くの人々を弱い立場に追いやり、抑圧、差別している現実もある。わたしたちカトリック教会の全員が、このような「小さくされた人々」と共に、キリストの力でこの芽生えを育て、すべての人々を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる。最後にでは、忙しい生活をしているわたしたちでも出来る社会的な活動とは何でしょう。どうすれば、わたしたちは福音の担い手になることが可能でしょうか。それにはわたしたちの周辺でも多くの人々が苦しんでいます。そのような人に無関心にならない。できれば、その隣人の痛みがわかり、自分の痛みとしてそれを引き受け、共にその解決のために取り組むようにできうる限りの努力をする。

 

もう一つは、この世ものであってこの世のものでない生き方をする。この世の価値観にすっかり癒着して、どっぷりとこの世に浸かって、この世の論理で歩むようではいけない。そうではなく、この世にあってその良いものは受け入れが、そうでないものに対しては距離をおいて生きる。そのためにもしっかりとして福音的価値観を持った生き方をする。第2バチカン公会議は、教会が社会に開かれ、社会問題にふかくかかわり、その福音化のために働くことが教会の本質的な福音宣教であることを宣言しました。それ以来日本の教会でも遅まきながら社会に開かれた教会つくりということばが教会内で語られ続けています。

これまでの教会は内向きの教会であり、地域社会との接点が乏しく、閉鎖的過ぎて、閉じられたイメージが中心的であったから、そのような内向きの教会の姿勢をうち破るために、開かれた教会ということばが公会議後にでてきたのだと思います。

 

そして、1984年に日本の司教団は日本のカトリック教会が少しでも社会の福音化に目覚めるように「日本の教会の基本方針」を発表し、まず、教会のあり方、個人の信仰のあり方を社会の現実から学ぼう、実生活から信仰のあり方を見直そうというふうに方向付けを与えました。そして、今の社会と文化をキリストの精神、福音によって変革に目を向ける姿勢を示し始めました。従って、これから深堀教会のわたしたちが大事にしていきたいことは、個人的な信仰から共に歩む信仰、そして、社会の福音化、特に、社会で弱くされている人々の側に立つ教会になっていくことです。そこで、日本の教会が20年も前に選び取った方向性を本気になって歩んでいこうとするのか、あるいは相変わらず公会議前の状態へ戻りたいのか、そのどちらかの選択が求められているといえるのではないでしょうか。では、忙しい生活をしているわたしたちでも出来る社会的な活動とは何でしょう。どうすれば、わたしたちは福音の担い手になることが可能でしょうか。それにはわたしたちの周辺でも多くの人々が苦しんでいます。そのような人に無関心にならない。できれば、その隣人の痛みがわかり、自分の痛みとしてそれを引き受け、共にその解決のために取り組むようにできうる限りの努力をする。

 

もう一つは、この世ものであってこの世のものでない生き方をする。この世の価値観にすっかり癒着して、どっぷりとこの世に浸かって、この世の論理で歩むようではいけない。そうではなく、この世にあってその良いものは受け入れが、そうでないものに対しては距離をおいて生きる。そのためにもしっかりとして福音的価値観を持った生き方をする。

最後にでは、忙しい生活をしているわたしたちでも出来る社会的な活動とは何でしょう。どうすれば、わたしたちは福音の担い手になることが可能でしょうか。私が社会的福祉活動を始めて間もなく4年になる。そのごく小さな経験から今感じていることの一つは、身の回りで弱い人、苦しんでいる人に関心を持つことです。そのような人のことを関心が持てるように常に心のアンテナをスイッチィonにしておくこと。NHK教養番組で社会福祉の番組に関心を持ち視聴することがあります。わたしたちの周辺でも社会的な弱者がいます。多くの人々が苦しんでいるし、悩みを抱えながら生活している。だから、そのような隣人の苦しみと痛みがわかるためには、どんなに小さなことであっても苦しむ隣人と実際に関わっていくことです。そして、それを引き受けることができるならば、どんなに些細なことであっても継続して関わり続けることだと思っています。

 
 

敬老の日にあたり

 

今、日本の社会は高齢化社会です。高度経済成長における物質文化の影響で、平均寿命が延び、高齢者社会の到来といわれるようになってから、日本の社会も教会も、人間を能力や地位、いかに仕事ができるかといった効率性によって評価してしまう傾向がとても強くなりました。このためでしょうか。現代では現役をリタイアした高齢者は、不要品、厄介者、役に立たない者というふうにみられる傾向が強くなっています。

 

そういう社会状況の中で、高齢者のみなさんが家族や若者から廃品扱いや邪魔者あつかいにされてほしくない。大切な老後の生活が、ひがみっぽく、孤独で暗い灰色の生活になってもほしくない。もっと老後の生活が、恵みのとき、霊的な借り入れの時であってほしい、むしろ、精神的には若者以上にいつまでも命溢れ、いきいきとした毎日であってほしい。しかし、そのためには高齢者お一人お一人が、それぞれ意義ある老後を送るにはどうあるべきかを考えることが大切でないでしょうか。

 

70歳からの人生は、時間的にも精神的にもゆとりのある人生が始まる、いわば第2の人生です。しかし、その新しい人生を邪魔する唯一の敵と呼べるものがあります。それは「病気」です。老後の生活を意義あるものとするためには、病気を防ぎ、あるいは、うまくつきあっていく姿勢が非常に重要になってきます。寝たきりや、ぼけになることで、家族や回りの者に迷惑をかけないためにも、最大限健康に注意することが大切だと思います。

 

しかし、健康以上に大切なことがあります。それは第二の人生をどう過ごすのか、じっくり考えることです。つまり第二の人生の設計図をつくり、それに従って生きることです。60歳で定年になり、子供も自分の手から離れると、いくらでも自由な時間ができます。そんなときふと、これまでの自分の人生は何だったのか自問自答する機会が出てくるはずです。そんなとき、これまでの人生を振り返り、たいしたことはやってこなかったと力を落とす必要はまったくありません。平均寿命80年の時代です。時間はまだあります。第二の人生の目標をたて、どういう価値観でいきればいいのか決めることです。

 

わたしたちキリスト者にとりまして、老後の人生の目標とは、救い主であるキリストへの福音にふさわしい生活を送ることです。生きるにしても死ぬにしても、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように生きることです。もう一つ老後の人生の目標になるものは、復活信仰によって生きることです。復活信仰は、死後永遠に神の国において幸せに生きることができることを教える信仰であるからです。老後は、決して人生の余りでもお釣りでもありません。むしろ、神様の世界に帰るための大切な準備のときであり、人生の総決算をする時期です。このためには、毎日を感謝の内に過ごすことが大切でないでしょうか。毎日復活信仰に支えられ、信心と愛の実践に励み、健やかな老後を生きてほしい。そうするならば、きっと死の不安からも解消され、安心して毎日を精一杯いきられるのではないでしょうか。

 
 

「毎日のミサ」購読のお薦め(1)

 

 明けましておめでとうございます。深堀小教区のすべての信徒にとりまして、この2006年が愛と信頼に満ちた平和な年になりますように心よりお祈りしたします。さて、みなさんがよくご存じのように、「毎日のミサ」は、もう20年も前からカトリック中央協議会から、主日と平日のミサに預かる会衆者がミサに行動的に預かることができるように会衆用冊子として発行され、徐々にミサに参加する信徒に浸透してきました。最近ではミサに参加できない信徒も、聖書により一層親しむため、日々の信仰生活を充実して生きるため、また、教会の典礼に沿って祈るため「毎日のミサ」を利用している信徒を見かけるようになりました。

 

世俗化や教会離れが憂慮される昨今ですが、一方で、ミサを生活の中心に据えておられる方の存在、ミサに参加できなくても「毎日のミサ」をテキストとして、聖書を読み黙想することによって教会の典礼歴に合わせて祈る信徒の存在は、教会の大きな希望であり、喜びです。深堀小教区ではすでに「毎日のミサ」を信徒の信仰養成のテキストとして、53人の信徒のみなさんに購読をしてもらっていますが、新年度も引き続き「毎日のミサ」の年間購読を通してもっと聖書に親しんでいただきたいと願っています。「毎日のミサ」は隔月にみなさんのお手元に配布できます。担当者は深堀の小西祥子さんです。新規で購読を希望の方は、担当者か、シスターか、司祭の私に遠慮なく申し込んでください。

 

先日、わたしが薦めて新規で「毎日のミサ」の年間購読をお願いしていたある信徒が、交通事故で長期入院を余儀なくされました。長期入院だと働けない上に、治療費など出費がかさむことになるので、きっと「毎日のミサ」の購読は断られるのではないかと内心恐れていました。ところが、本人から逆に「毎日のミサ」で祈りが新鮮な気持ちでできるようになり、有り難く思っているという感謝のことばをいただき、私としては気をよくしている。「毎日のミサ」の年間購読料は個人で注文の場合、5,400円、団体で注文の場合4,400円(割引は約2割)です。いずれも隔月配布ですので、年6回の配本になります。家計のやりくりで四苦八苦している信徒には定期購読することは難しいかもしれません。そのような方はすでに購読している方からバックナンバーを譲っていただくようにすればいいかもしれません。そんなことはしたくないと思っている方がおられるなら、主日ミサの会衆用パンフレット「聖書と典礼」の裏にその週のミサで朗読される聖書の箇所が1週間分印刷されていますのでそれを活用してみてください。最初のうちは手元にある聖書で該当する箇所を毎日めくることは、面倒であり、煩わしいかもしれません。それでも忍耐強く続けていると、自然に聖書そのものに慣れ、「毎日のミサ」の読者以上に聖書を理解できるようになります。というのは、その日に朗読される聖書の箇所の理解のためには、その箇所がどこからの引用であるか確かめるために、実際に聖書を手に取って調べて見る必要があるからです。いずれにせよ、聖書に親しむために「毎日の聖書」、「聖書と典礼」のどちらを選ぶかは読者であるみなさんの自由です。どちらを選んでも毎日典礼の聖書配分に従って聖書を読み続けるにはかなりの努力と忍耐が伴います。それでも根気強く続けていくうちに、みことばによって生活が味付けられ、やがては、みことばに親しむことが喜びとなる体験をすることになるでしょう。

 

「今日とくに勧められるのは「聖なる読書」、つまり「福音書」の中のみことばを祈りとして読むことです。読むというより行為を通してイエスのことばに耳を傾け、マリアのように思いめぐらし、祈りとして聞き入れることが望ましいのです。イエスのことばが信じる者のこころに保たれて、絶え間ない回心、調和のとれた生活、神の愛の証人になればいいのです。」大聖年神学歴史委員会発行「イエス・キリスト」(ドン・ボスコ社)より

 
 

の分かち合いを実践してみても、それに溶け込み、そこに信仰の喜びを体験するには大変な時間がかかるのではないでしょうか。そこで、わたしがみなさんに今回薦めているのが「毎日のミサ」の購読です。聖書日課となっている「毎日のミサ」を聖書に親しむためのテキストとして採用し、典礼歴に併せて毎日用いるようにすれば、きっと聖書にも少しずつ親しむだけことができるようになるだけでなく、キリスト教の勉強にもなって、無理なく信仰を養うことができるのではないかと確信しています。
 
 

 

「毎日のミサ」の薦め (3)

〜聖書に親しむために〜

 

1,第2バチカン公会議の教え

「毎日のミサ」については、第二バチカン公会議の典礼憲章にその基本方針がすでに打ち出されています。すなわち、「典礼憲章」の第25条には、「ミサ典礼における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂すること」であり、また、51条には、「神のことばの食卓かがより豊かに信者に供えられるために、聖書の宝庫がより広く開かれなければならない。そのために、幾年かを一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に向かって朗読されるべきである」と規定しています。このように根本的な方針を打ち出して、主日、祝祭日、そして平日の聖書朗読を新たに検討し直し、豊かにしたわけです。日本では主日用として「聖書と典礼」が、主日と平日を併用として「毎日のミサ」が発行されるようになった。

 

2,「聖書と典礼」「毎日のミサ」は、「公教要理」を補うキリスト教の総合

わたしたちが生涯を通して信仰を育成し、宣教の使命を果たしていくためには、年齢、境遇に応じた、信仰者としての不断の成長が求められます。ところが、これまで長崎教区では、幼少期の祈りや要理教育、堅信や結婚の秘蹟の準備が主なもので、堅信後、生涯にわたる信徒の生涯にわたる信仰養成への取り組みは十分でなかった。信仰は具体的な生活環境の中で育まれていくもので、その養成は各自が生涯において継続してこそ真価が発揮されるものであります。この場合、自己養成する重要なテキストとして第二バチカン公会議が信徒のために提供しているテキストが、「毎日にミサ」であるといっても決して言い過ぎではない。「毎日のミサ」は、単にミサ参加者用として出版されたものでなく、ミサに参加できない方で、聖書に親しみ、信仰を養って生きたい信徒のため、また、神との交わりを深め、強めるため、さらには、教会の典礼に合わせて教会の宣教活動のエネルギーを培っていくためのテキストとして有益である。

 

聖書を個人で毎日読み続けて霊的生活の力、宣教活動の力としていくには、たいへんな忍耐と努力が必要です。また、聖書に日頃親しんでいない状況で、グループでいきなり聖書の分かち合いを実践してみても、それに溶け込み、そこに信仰の喜びを体験するには大変な時間がかかるのではないでしょうか。そこで、わたしがみなさんに今回薦めているのが「毎日のミサ」の購読です。夕べの祈りの時にでも、聖書日課となっている「毎日のミサ」を聖書に親しむためのテキストとして、あるいは祈りとして採用し、典礼歴に併せて毎日用いるようにすれば、きっと聖書にも親しむだけでなく、キリスト教の勉強にもなって、無理なく信仰を養うことができるのではないかと確信しています。

 
 



  
   
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