エッセイ、黙想など

ロザリオ信心の勧め

 

10月はロザリオの月です。今月も深堀教会では、小学生の子供達を囲んでロザリオ信心をしています。この機会にみなさんにロザリオ信心を薦めたいと思います。現代の教会は、救いにおける聖母マリアの特別な役割とそれに対する尊敬を忘れていません。聖マリアは「自由な信仰と従順をもって人類の救いに協力した」信仰者であり、生涯を通して「信仰の旅路をすすみ、子との一致を十字架にいたるまで忠実に保った」方であった。このような目立たないマリアの救いの役割をわかりやすく説明するために、太陽と月と地球の例えがよくつかわれることをご存じでしょうか。ご存知のように、地球は太陽の回りをまわりながら絶えず太陽から光を受けています。そのように、わたしたちは、太陽であるキリストの回りをまわりながら、キリストから光を受けて社会生活も信仰生活も生きています。他方、月は地球のまわりを回りながら太陽の光をうけて、その光を地球に反射させています。聖母マリアは月のような存在です。太陽であるキリストから光を受け、その光を地球に反映させているのです。

 

かつてロザリオ信心はどの家庭でもよく唱えられていた信心でした。確実に家庭の結びつきを強めていた信心でした。それが今日ではすっかりすたれてしましいました。それなのに、どうしてロザリオ信心を勧めるのか。それはみなさんに、マリアと共にマリアを通してキリストの神秘に生きる信仰を深めてもらいたいからです。ご存じのように、ロザリオは、単にマリアへの崇敬を深めるだけの信心ではありません。むしろ、マリアを通して、キリストへの信仰を深める信心です。ロザリオ信心の仕組みがそのことを示しています。ロザリオ信心は、めでたしの祈りを繰り返しながら、キリストの主な救いの出来事を黙想する仕組みになっています。それはイエスの喜びの神秘5連、イエスの光の神秘5連、イエスの苦しみの神秘5連、イエスの栄えの神秘5連、合計するとイエスの20の神秘にまとめられており、これらの主な20の救いの神秘を、聖母と共に、聖母の心を通して唱えることにより、イエスとの交わりを深めることができる信心です。故ヨハネパウロ二世はこのようなキリスト中心のマリア信心が、家庭の一致のためと世界平和のための有効な信心であることを教えています。

 

さて、わたしたちの社会は、人間中心社会です。神様など必要としない世俗的な社会です。今の多くの日本人は、宗教的なことについて、神様や信仰などについて、あまり興味も関心もありません。多くの人にとって大切なことは、仕事、勉強、快適な生活、娯楽など楽しい幸せに現実を生きることだけでしょう。しかし、神の似姿に創造された私たち人間は神に信頼し、神と親しい関係を保たない限り、心の安らぎも、救いもないのです。聖アウグスチヌスが、「神のもとにいこうまで安らぎを得ず」と言っている通りです。

 

生涯イエスと一致して神の心を生きた聖マリアは、神の恵みでからだも魂も神の栄光に移られました。この聖母被昇天は、わたしたちの将来のあり方を示しています。わたしたちはこの世で旅するものとして、この世の務めを果たしながら、神の国で神の栄光に与ることを人生の目的にしています。このような人生の目的をよく理解し、それに向かって前進するためにも、ロザリオ信心を通して、家庭の一致を深め、世界平和にも貢献出来るような家庭であるように励みましょう。マザーテレサは「豊かな国ほど家庭は崩壊の危険性にさらされています。それは、人々が祈りを忘れた生活をしているからです。仕事、付き合い、テレビ視聴など自分の楽しみのために時間をとって、祈ることを忘れているからです」と言っています。家庭の中に本物の愛を育みために家族が共にロザリオ信心をするように務めましょう。

聖体の特別年

 

深堀小教区の信徒のみなさん、新年おめでとうございます。みなさんにとって新年が平和な年でありますように心よりお祈りします。

すでにお知らせしたように、ヨハネ・パウロ2世教皇さまは、2004年10月から2005年10月までを特別な聖体の年とすると宣言されました。テーマは「教会の生活と使命の源泉であり頂点である聖体」です。2004年10月7日には、このテーマをさらに解説した使徒的書簡「主よ、一緒にお泊まり下さい」が発表されました。この文書のテーマはルカ福音24章にある復活者イエスがエマオに向かう二人の弟子に現れたエピソードからの引用です。

このエマオへの途上の弟子たちのイメージは、教会がとくに聖体の神秘を生きようとするこの1年にぴったりの道案内になり得える。今日においても復活のイエスはわたしたちの人生の愛の同行者として、わたしたちと並んで歩いてくださる。さらに、聖書によって神の神秘をより深く理解させ、いのちのパンである聖体で養うことによって、人生の目標である神の国へと導いてくださる。

 

このエピソードによりますと、旅の道連れとなったイエスは道中、旧約聖書で予言されている救い主はご自分のことだと解き明かす。そうすると、それまで悲嘆と失望に打ちのめされていた彼らの心は一気に燃え上がり、彼らにイエスと一緒に留まりたいという願望を生じさせる。「主よ、一緒にお泊まりください」。

 

そこでイエスは彼らと共に泊まるために家に入ります。そして、一緒に食卓について、パンを取り、賛美をささげて、彼らに渡します。この場面はこの物語の一番の頂点です。「賛美をささげて、手で分け」ということばは、最後の晩餐にも出てきます。それは、すでに原始教会の中で祝われていた主の晩餐、すなわちミサのことばでした。この物語が書かれた頃には、すでにミサの儀式が定着していて、その儀式のことばがここに反映されているわけです。

 

その瞬間に、弟子たちの目が開けます。そして、それがイエスであることに気づきます。

けれども、その瞬間にまたイエスの姿が見えなくなったと言われています。これもやはりイエスとの出会いが、普通の人間との出会いのようでなかったということを暗示しています。

これは今もキリスト教信仰の内容です。ミサにあずかるとき、パンとぶどう酒をもって、イエスのことばに従って主の晩餐を行うとき、そこでわたしたちは現実に復活者イエスと出合っているのだということ、その出会いはその昔弟子たちが出合った復活者イエスとの出会いと違わないのだという信仰です。

 

ミサはちょうどエマオの弟子が復活者のイエスと出合った物語と同じような構造をしています。始めに聖書が読まれて、説教がありますが、これはちょうどエマオへの途上で、イエスが弟子たちに聖書を解き明かしてくださった部分にあたります。それから次に、パンとぶどう酒をもって主の晩餐が祝われたわけですが、これはちょうどエマオの村で、弟子たちがイエスと一緒に食卓についた部分にあたります。この両方が大切です。神のことばと聖体。その二つが教会に与えられた宝です。その二つが教会を形成しています。それらを通して、わたしたちは復活のイエスが今も人生の愛の同伴者としてわたしたちと共に歩んでくださることを確信できるのです。

 

みなさんにとってこの恵みの年がエマオの弟子と同じように、みことばと聖体で養われ、信仰の喜びを再発見できる機会になるよう心よりお祈りいたします。さらに、日曜日の聖体祭儀には家族であずかり、ミサの深さと豊かさを知り、明日を生きるための希望、愛、信徒相互の交わりを生きるための恵みに養われますようにお祈りいたします。

「毎日のミサ」の薦め (3)

〜聖書に親しむために〜

 

1,第2バチカン公会議の教え

「毎日のミサ」については、第二バチカン公会議の典礼憲章にその基本方針がすでに打ち出されています。すなわち、「典礼憲章」の第25条には、「ミサ典礼における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂すること」であり、また、51条には、「神のことばの食卓かがより豊かに信者に供えられるために、聖書の宝庫がより広く開かれなければならない。そのために、幾年かを一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に向かって朗読されるべきである」と規定しています。このように根本的な方針を打ち出して、主日、祝祭日、そして平日の聖書朗読を新たに検討し直し、豊かにしたわけです。日本では主日用として「聖書と典礼」が、主日と平日を併用として「毎日のミサ」が発行されるようになった。

 

2,「毎日のミサ」は、「公教要理」を補うキリスト教の総合

 

 わたしたちが生涯を通して信仰を育成し、宣教の使命を果たしていくためには、年齢、境遇に応じた、信仰者としての不断の成長が求められます。ところが、これまで長崎教区では、幼少期の祈りや要理教育、堅信や結婚の秘蹟の準備が主なもので、堅信後、生涯にわたる信徒の生涯にわたる信仰養成への取り組みは十分でなかった。信仰は具体的な生活環境の中で育まれていくもので、その養成は各自が生涯において継続してこそ真価が発揮されるものであります。この場合、自己養成する重要なテキストとして第二バチカン公会議が信徒のために提供しているテキストが、「毎日にミサ」であるといっても決して言い過ぎではない。「毎日のミサ」は、単にミサ参加者用として出版されたものでなく、ミサに参加できない方で、聖書に親しみ、信仰を養って生きたい信徒のため、また、神との交わりを深め、強めるため、さらには、教会の典礼に合わせて教会の宣教活動のエネルギーを培っていくためのテキストとして有益である。

 

ルカ福音24章にある復活者イエスがエマオに向かう二人の弟子に現れたエピソードは、教会がとくに「毎日のミサ」で典礼に併せて聖書に親しむ運動に生きている信徒を励ます道案内になり得る。このエピソードによりますと、旅の道連れとなったイエスは道中、旧約聖書で予言されている救い主はご自分のことだと聖書を用いて解き明かす。そうすると、それまで悲嘆と失望に打ちのめされていた彼らの心は一気に燃え上がり、彼らにイエスと一緒に留まりたいという願望を生じさせる。「主よ、一緒にお泊まりください」。

 

人間はパンのみで生きているのではなく、みことばによって生きるべき存在です。今日においても復活のイエスはわたしたちの人生の愛の同行者として、聖書のことばによって神の神秘をより深く理解させ、わたしたちと並んで歩み、人生の目標である神の国へと導いてくださる。みことばが人間を生かし、救い、いのちを与え、神との対話、愛の交わりを育てるからです。

くりかえしますが、聖書には、わたしたちの歩みを支え、人類のあるべき姿を照らす、無尽蔵の宝が隠されています。そんな聖書の豊かさ、すばらしさに、わたしたちを導いてくれるのが聖書日課である「毎日のミサ」です。神は「毎日のミサ」のみことばにおいてあたかも友に対するかのように、人間に話しかけ、ご自分との交わり招き、これに預からせるのです。

今回は聖書読書方法について紹介します。

1,レクチィオ・ディビナ

聖なる読書とは、短い聖書の箇所を一節一節ゆっくりと、聖霊の導きに促され、味わいながら、ゆっくり神とともに読む読書法のこと。つまり、祈りの気持で聖書を読むこと。このような聖書読書のことをレクチィオ・ディビナと一般的には言われているが、直訳すると「神的読書」で、「聖なる読書」という呼び方が一般的。内容は、単なる霊的読書ではなく、祈りながら神と語らいつつ読む、聖書を通して神の声に耳を傾け、そして神に呼びかける。このような聖書読書は第2バチカン公会議において、啓示憲章などによって見直され、一般の信徒にも普及し始めた。12世紀に、「読む、瞑想する、祈る、観想する」という「神に至る4段階という考え方が生まれ、この最初の「読む」がレクチィオレビナである。

 

教皇が再興を促す

 古来の伝統“聖なる読書”は、教会の霊的生活を豊かにする方法として奨励されるべきだ、と教皇ベネディクト16世が、聖書学者への挨拶で語った。「教会は、老いることも消え去ることもない神のことば」を通して、「絶えず自らを刷新し、若返えなければなりません」と教皇は強調した。教皇は聖なる読書の再興を促し、この伝統が「効果的に促進されれば、教会に新しい霊的な春をもたらす」ことを確信している、と語った。教皇の挨拶は、2005年9月中旬ローマで開催された、第2バチカン公会議文書「神の啓示に関する教義憲章」公布40周年の国際会議への参加者にあてたもの。「教会と神の言葉は、分かつことのできない絆で結ばれている」と教皇は指摘する。また、「啓示憲章」が明言しているように、「教会は自らだけで生きるのではなく、福音のことばによって生きているのです。そして福音のことばから、教会はその旅路の導きをいつもあらたに受けています」と語った。

 

教皇はさらに、聖なる読書を、祈りを伴って聖書を読むこと」と表現し、個人と神との間の「親密な対話を実現します」と指摘した。「聖書を読むことで、わたしたちは神が語られることばを聞き、祈りによって、誠実に開かれた心で神に応えます」「神のことばは、わたしたちの歩みを照らす光であることを決して忘れてはいかません」と教皇は語った。

 

 

1,聖書朗読配分(聖書日課)の改訂

「毎日のミサ」については、第二バチカン公会議の典礼憲章にその基本方針がすでに打ち出されています。すなわち、「典礼憲章」の第25条には、「ミサ典礼における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂すること」であり、また、51条には、「神のことばの食卓かがより豊かに信者に供えられるために、聖書の宝庫がより広く開かれなければならない。そのために、幾年かを一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に向かって朗読されるべきである」と規定しています。このように根本的な方針を打ち出して、主日、祝祭日、そして平日の聖書朗読を新たに検討し直し、豊かにしたわけです。日本では主日用として「聖書と典礼」が、主日と平日を併用として「毎日のミサ」が発行されるようになった。

 

2,「公教要理」に代わるキリスト教の総合としての「聖書と典礼」「毎日のミサ」

 

 わたしたちが生涯を通して信仰を育成し、宣教の使命を果たしていくためには、年齢、境遇に応じた、信仰者としての不断の成長が求められます。ところが、これまで長崎教区では、幼少期の祈りや要理教育、堅信や結婚の秘蹟の準備が主なもので、堅信後、生涯にわたる信仰養成への取り組みは十分でなかった。信仰は具体的な生活環境の中で育まれていくもので、その養成は各自が生涯において継続してこそ真価が発揮されるものであります。この場合、自己養成する重要なテキストとして第二バチカン公会議が信徒のために提供しているテキストが、「毎日にミサ」であるといっても決して言い過ぎではない。「毎日のミサ」は、単にミサ参加者用として出版されたものでなく、ミサに参加できない方で、聖書に親しみ、信仰を養って生きたい信徒のため、また、神との交わりを深め、強めるため、さらには、教会の典礼に合わせて教会の宣教活動のエネルギーを培っていくためのテキストとしても有益である。

 

3,小共同体つくり運動の前に、まず、各自が「毎日のミサ」で聖書に親しむことが重要である。

長崎教区では参加し、交わり、宣教する教区つくりに欠かせないものとして小共同体運動が展開されている。この運動を推進するために各小教区の各地区での聖書の分かち合いが欠かせない。それを促すために、まず、教区で、聖書分かち合い講座、聖書愛読マラソンなどが実施されてきた。そして、この教区の基本方針に沿って、深堀小教区でも、ここ数年間、小共同体運動を推進していくための足がかりとして、教会内で「聖書の分かち合い」、「聖書読書」、「聖書講座」などを実施してきました。その結果、一時的には、たくさんの信徒の協力と理解をいただき、かなりの盛り上がりと成果が見られたが、多くの課題が山積していることも認めざるを得なかった。そこで、提案したいのが「毎日の聖書」の購読です。聖書を個人で毎日読み続けて霊的生活の力、宣教活動の力としていくには、たいへんな忍耐と努力が必要です。また、聖書に日頃親しんでいない状況で、グループでいきなり聖書の分かち合いを実践してみても、それに溶け込み、そこに信仰の喜びを体験するには大変な時間がかかるのではないでしょうか。そこで、わたしがみなさんに今回薦めているのが「毎日のミサ」の購読です。聖書日課となっている「毎日のミサ」を聖書に親しむためのテキストとして採用し、典礼歴に併せて用いるようにすれば、きっと聖書にも少しずつ親しむだけでなく、「毎日のミサ」の中の聖書を読み続けることで、キリスト教の勉強にもなって、無理なく信仰を養うことができるのではないかと確信しています。ょうか。

 

そのためにはいくつもの理由があります。それを箇条書きにして説明したいと思います。

わたしたちは漠然とした「生き甲斐」を求めてみことばを学習しようとしているのではありません。福音宣教者として、生涯キリストと共に歩いていくことができる恵みを求めて、自分の信仰を養っていこうとしているのです。それは聖パウロが言う「成熟した人間となり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するための努力であります」。

聖書で信仰養成することの努力は空しいとか、今まででよいとか、時間がないとかといういろいろな理由で、わたしたちの刷新の希望が消し去られそうになることもあります。しかし、いつの日か、神から「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」という返事をいただけるように、聖書を読み続け、キリストとの出会いを喜びとして体験するために自己教育をしていきたいものです。

 

2,聖書朗読配分(聖書日課)の改訂

 

 「毎日のミサ」については、第二バチカン公会議の典礼憲章にその基本方針がすでに打ち出されています。すなわち、「典礼憲章」の第25条には、「ミサ典礼における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂すること」であり、また、51条には、「神のことばの食卓かがより豊かに信者に供えられるために、聖書の宝庫がより広く開かれなければならない。そのために、幾年かを一定の周期として、聖書の主要な部分が会衆に向かって朗読されるべきである」と規定しています。このように根本的な方針を打ち出して、主日、祝祭日、そして平日の聖書朗読を新たに検討し直し、豊かにしたわけです。日本では主日用として「聖書と典礼」が、主日と平日を併用として「毎日のミサ」が発行されるようになった。

 

2,「公教要理」に代わるキリスト教の総合としての「聖書と典礼」「毎日のミサ」

 

 わたしたちが生涯を通して信仰を育成し、宣教の使命を果たしていくためには、年齢、境遇に応じた、信仰者としての不断の成長が求められます。ところが、これまで長崎教区では、幼少期の祈りや要理教育、堅信や結婚の秘蹟の準備が主なもので、堅信後、生涯にわたる信仰養成への取り組みは十分でなかった。信仰は具体的な生活環境の中で育まれていくもので、その養成は各自が生涯において継続してこそ真価が発揮されるものであります。この場合、自己養成する重要なテキストとして第二バチカン公会議が信徒のために提供しているテキストが、「毎日にミサ」であるといっても決して言い過ぎではない。「毎日のミサ」は、単にミサ参加者用として出版されたものでなく、ミサに参加できない方で、聖書に親しみ、信仰を養って生きたい信徒のため、また、神との交わりを深め、強めるため、さらには、教会の典礼に合わせて教会の宣教活動のエネルギーを培っていくためのテキストとしても有益である。

主のご復活おめでとうございます。

 

すべての人と同じようにイエスも、十字架上で息を引き取っていきました。それは、歴史的な事実でした。聖書は、この事実を赤裸々に伝えていますし、それを誰も疑うことはしません。ところが、綿密にイエスの死の事実を告げる聖書が、そのすぐ後で、とんでもないことを語り続けます。それは、イエスの復活です。死者の中からイエスが蘇り、もう一度、弟子たちに語りかけ、指導し、使命を与えたというのです。たしかにイエスが死から復活したということは、前代未聞の出来事です。信仰のない一般の方にとっては、この真理を理解することは容易なことでないかもしれません。しかし、イエスの復活に対する信仰というのが、わたしたちキリスト教信仰の一番中心となる信仰です。聖パウロがその手紙で何度も繰り返して強調しているように、復活信仰を除いてキリスト教はないし、キリスト教の信仰は何であるかといったら、復活信仰だといってもよいくらいです。

 

では、復活信仰をどのように理解したらよいのでしょうか。

イエスの復活とは、父なる神によって、生前のナザレの人間イエスが主として高められたことです。イエスの福音宣教者としての生涯は、むごたらしい十字架の死によって挫折し、敗北のように見えました。しかし、実際はそうではない。父が十字架上で死んだイエスを復活させることによって、イエスの生涯が神の子としての輝かしい栄光ある生涯であったことを認証しました。わたしたちが、イエスの復活を信じるということは、イエスが全世界の主であり、救い主であり、神の子であることを信じ、信仰告白することです。

 

欧米の先進国において、また、日本の社会でも、科学の発展と経済の発展の伴い、ますます神の存在は忘れられ、人間中心の社会になっています。わたしたちもこの世俗的で人間中心の考え方や価値観のつよい影響を受けています。その中で、わたしたちが、イエスの復活を典礼で祝うということは、それは日常生活の中で、神中心、キリスト中心に生きることです。自分のためでなく、神のみ栄えのために生きるように召されていることを深く自覚しなければなりません。

 

この精神的に病んでいる現代社会で、主の復活を信じるわたしたちがしなければならないことは、人間は神によって創造され、イエスの十字架の購いによって救われたものとして、生かされている、おかげさまで生きている、そういう宗教心を根気よく教えることです。イエスキリストの前で、具体的に祈るということや合掌するという宗教感覚が身につけることです。人間は神によって生かされているのであって、人間は神様ではないということ、その感覚が祈りになり、人間中心の生活が神の心を優先する生き方になればわたしたちは幸せになれるのです。絶えず祈りましょう。そして神中心の生き方によって、真の平和、真の喜び、真の救いに与るようにこころがけましょう。

生活の中で信仰を生きよう(1)

 

新しい年がやってきました。新しい年が神のお恵みによって健康で幸せでありますように心よりお祈りします。わたしの場合、深堀に転任して6年目のお正月になりました。その間に長崎教区は大きく変わりました。現教区長高見三明大司教は、前教区長島本要大司教のスローガン「新しい福音宣教つくり」を引継ぎ、組織改革と経済改革を断行しています。わたしもこの組織改革の一翼を担い、これまで6年間、みなさんのご協力をいただいて、社会福祉援助活動の仕事を果たしてきました。さて、高見三明大司教様は、今年の年頭教書で、長崎教区のスローガン「参加し、交わり、宣教する長崎教区つくり」の一貫として、ペトロ岐部と187殉教者の列福式と長崎邦人司教区設立80周年行事を掲げています。これらのイベントの最大の目的は何でしょうか。それは単に殉教者の信仰のすばらしさや長崎教区邦人司教区誕生に偉大な功績があった外国宣教会の司教、司祭の業績を称えることだけではありません。これら二つのイベントを通して、私たち自身が、停滞している自分の信仰に自信と誇りを取り戻させることにあります。

 

(1)社会を知る

そこで今年の年頭の挨拶は、わたしたちが先祖から受け継いでいる信仰に喜びと誇りを持つために大切だと思われることを提案したいと思います。それは「生活の中で信仰を生きる」という課題です。実は「生活の中で信仰を生きる」という課題は古くて新しい課題です。丁度20年前(1987年)、京都で開催された第一回全国福音宣教推進大会以来の日本の教会の優先事項でした。しかし、どこの教区でも小教区でもその実践と取り組みは十分でありません。わたしたち長崎教区の信者の信仰生活にも、深堀教会の信徒の信仰生活にもまだ生活と信仰が遊離しているところがみられ、信仰が停滞していることの足枷になっています。では生活の中で信仰を生きようとするときに何が大切でしょうか。それはわたしたちが日本の社会から悪いことにつけ、良いことにつけ、その影響を受けているものとして、もっと現実の社会を知らなければならないということです。

 

格差社会の中で派遣社員はどんなことで苦しんでいるのだろうか。家庭におして人間関係が稀薄化しているといいますが、夫婦、親子の絆はどのように薄れているのだろうか。いじめ自殺、親子殺し、虐待など子供をめぐる暗いニュースが後を絶ちません。学校や家庭の現場で今子供達はどんなふうに苦しい思いをしているのだろうか、あるいは高齢化社会において、高齢者はどのような状況におかれているのだろうか、病人や身体的精神的障害者はどのような課題を抱えてくらしているのだろうか。全国の自殺者は毎年3万人を越え、日本は今や自殺大国になったと言われていますが、自殺の現状と背景、その対策はどうすればいいのでしょうか。このような社会の現状を知らないで、いくら信心しても信仰はいつまでたっても生活に根付かないのではないのではないでしょうか。マザーテレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、社会の出来事に無関心であることも信仰の成長の妨げになると言えるでしょう。

 

(2)ミサはすべての社会活動、教会活動の源泉であり頂点

社会を知ることから信仰は始まりますが、その次に大切にして欲しいものは典礼歴に併せた信仰生活です。これは一般に秘蹟の生活と言われています。秘蹟の生活の中心はもちろん主日のミサ典礼です。主日のミサ典礼は、決して生活から切り離されたものではありません。ミサはすべての社会活動、教会活動の源泉であり頂点です。ミサは疲れを回復させ、癒す力があります。ミサは神への感謝、賛美の儀式であり、神との交わり、信徒相互の交わりを培う秘蹟です。わたしたちはミサで朗読される神のことばと聖体によって信仰が養われ、明日を生きる力をいただくのです。そして、ミサから社会に派遣され、生活の中で信仰を証するように召されています。

 

かつてキリスト教は、厳格な取り締まりと監視、過酷な迫害と弾圧のもとにおかれていた。しかも、司祭のいない信徒だけの時代が250年以上も続いた。そのために、日本においてキリシタンは消滅したと考えられていました。にもかかわらず、信徒は表面的には仏教徒を装いながらひそかにキリシタン信仰を継承できた。なぜか。彼らの間で地下組織を成立させ、信徒の中から張方、水方、聞き役といった役職を選出した。張方は「バスチアン暦」という日繰り帳簿を持参し、祝日や教会の日程を繰り出す役、聞き役は帳方が定めた日を信徒に伝える役、水方は洗礼を授ける役。3者が協力して秘密の行事の集会を定期的につくり、暦に従って祈り、信仰生活を継続した。(長崎市布巻出身の伝道師であったバスチアンは宣教師追放後、西彼杵で潜伏キリシタンの指導者として活躍したことで知られている。)わたしたちは典礼歴に従って主日のミサに続けて参加することで信仰を生活に溶け込ませ、生かすことが可能になります。反対に主日のミサ典礼を怠るなら、信仰が弱くなるのは避けられない。というのは、人間は天使でなく、生身の人間だからです。

生活の中で信仰を生きよう(2)

 

「生活の中で信仰を生きる」という課題は古くて新しい課題です。丁度20年前(1987年)、京都で開催された第一回全国福音宣教推進大会以来の日本の教会の優先事項でした。しかし、どこの教区でも小教区でもその実践と取り組みは十分でありません。わたしたち長崎教区の信者の信仰生活にも、深堀教会の信徒の信仰生活にもまだ生活と信仰が遊離しているところがみられ、信仰が停滞していることの足枷になっています。では生活の中で信仰を生きようとするときに何が大切でしょうか。前回は生活の中に信仰を生きるためには、社会のことを知ることと典礼歴に併せた信仰生活、特に主日にミサ参加の意義について話しましたが、今回はその続きです。

 

(3)、生活の中の祈り

生活の中で信仰を生きるために欠かせないものに、社会を知ることや主日のミサ典礼に参加すること以外に、日々の祈りの実践があります。毎日家庭で祈る場合、祈祷書の中の高尚な祈りも大切ですが、特にみなさんに勧めたい祈りは、「生活の中の祈り」の実践です。

ここで、「生活の中の祈り」とは、どろどろとした日常生活の中の苦しみや悲しみがにじみ出ている祈りのことです。旧約聖書の詩編作者の祈りのように、生活の中の苦しみや悲しみに結びついた祈りです。神の前では幼子のような気持になって、ありのままの自分、裸のままの自分をさらけだして祈る祈りです。新年に当たり、祈祷書の高尚な祈りの他に、このような生活の中の祈りに挑戦して欲しいと思っています。もちろん、日頃祈りの習慣がない方がいきなり生活の祈りを始めても何から祈り始めたらよいか分からずに困ることでしょう。そのいう方にお奨めしたいのが、「毎日のミサ」の聖書をゆったりした気持で読んでみることです。すると心に響くことばが見つかり、それが生活の祈りをする切っ掛けになることでしょう。

 

(4)みことばは信仰を後押しする力

 長崎教区では信徒がそれぞれグループで聖書を分かち合う運動をしています。わたしたちが生きている社会は欲望がうずまく競争社会です。その中で、聖書のことばに照らされて、体験を分かちあい、神様がわたしたちと共にいてくださるんだ、ということを確かめ合いながら歩んでいく仲間は、誰にとっても必要ではないでしょうか。みことばは単に聖書に書かれた文字ではなく、今、復活して、目に見えないけれどもわたしたちの間にともにいてくださるキリストに気づくためのものです。そのためには、ともに聖書を読み、祈る、そういうみことばの分かち合いは大切です。しかし、共同体としての繋がりが稀薄な深堀小教区の現状の中で一足飛びに他の信徒と聖書の分かち合いを始めることはいろんな限界があります。そこでわたしは、去年から深堀小教区では仲間と御ことばのわかちあいの前に、個人で聖書に親しむために典礼歴に併せて聖書を読み、祈るという運動をしています。「毎日のミサ」「聖書と典礼」を活用し、まず個人でみことばを読み、祈り、そこから霊的な糧を得ていくように勧めたい。そうすることが生活に信仰を生きるための効果的な方法であると思っていますし、そのような考えでわたしも聖書に親しんでいます。

 

 聖書を頭だけでなく、体で読む方法として音読があります。脳を活発に働かせ、老化を防ぐ。最新の研究で、音読や簡単な計算で脳の「前頭前野」などを鍛えることが有効だと分かってきました。昨年の流行語大賞ベストテンに輝いた。いわゆる「脳トレ」です。みことばを個人で味わい、みことばから生活の糧を見いだしていく味わいのためにみことばを音読する訓練を身に着けることも試みてはいかだでしょう。

 

 

(5)ペトロ岐部と187殉教者に倣って

現在の信徒の中には、先祖代々から受け継いできた大切な信仰を自分の世代になって、子供達に伝えることができないでいることに悩んでいる親はたくさんおられる。子供の教会離れ現象を防ぐことができないで悩んでいる親もたくさんいる。どうしてそうなったのでしょうか。それは高度経済成長期の中で祈りや信仰教育よりも仕事を優先させてきたつけであるかもしれません。あるいは、神や宗教を必要としない社会の強い影響をいつのまにか受けてきた結果であるかもしれません。

 

今年は長崎で188人殉教者の列福式が予定されています。長崎の殉教者だけを見ても、信仰が見事に次の世代に伝わっている姿をみることができます。有馬と雲仙で殉教したパウロ内堀の家族の殉教にしても、生月で殉教した西玄可の家族の殉教にしても一家全員、夫婦、親子が励まし合って死を選んでいます。これらの殉教家族は、信仰を次の世代に伝えることに成功していない今の日本教会に、生活の中で生きる信仰のすばらしさ、家族が信仰によって生きることのすばらしさなどを考える多くの材料を提供している。わたしたちも殉教者にならい、自分のすべてを神と人への奉仕と救いのために捧げることができるようになりたいものです。そのために大切なのが生活の中で信仰を生きることです。

 

わたしたちを取り巻く社会は市場原理が幅をきかせている競争社会、かつ神を必要としていない人間中心の社会です。そのような厳しい社会の中で信仰に喜びと自信を持って生きることは決して容易なことではありません。しかし、わたしたちはそのような社会の現実を知り、主日のミサに参加し、家庭で祈り、典礼に併せてみことばに親しむことで、生活の中で信仰を生きるようにしたいものです。自信を持ちましょう。

祈りの生活

信仰生活の基本は祈りとミサです。そこで2回目の霊的講話は、祈りをテーマにします。

 

1,    祈ることが難しくなっていることの理由

 

今日、家庭でも教会でも祈ることが大変むずかしくなっています。

どうして祈ることが難しいのでしょうか。いろいろな理由がみつかります。数え上げてみることにしましょう。

(1)、わたしたちは根気が無くて飽きっぽい。三日坊主の傾向があるということです。最初は一生懸命にやるのですが、途中飽きがきてやめてしまう。英会話でよく経験する。

(2)人間の弱さですが、怠惰ということも祈りを妨げる。心は燃えても肉体は弱いのです。(3)、生活の多忙さも祈ることの妨げになっている。忙しいならば第1に祈る時間がなくなります。たとえ祈りの時間をとることができたとしても、心がいつもあれこれと日常生活や仕事のことに捕らわれているのでので、いらいらしてしたり、気持が落ち着かったりして、静かに祈ることができなくなる。

(4)また、神様にも責任の一端があるかもしれない。なぜなら、いくら祈ってもすぐ返事をしてくれませんし、お願いしたこともすぐにかなえてもらえるわけではない。祈りが聞き入れられないので祈りを止める人もいる。御父は願わない前からわたしたちに必要なものをご存じであるということをなかなか信じ切れない。

(5)それに神は目に見えない方ですので、つかみどころがない。わたしたちは祈っている内に祈ることに疲れて、祈りに気持が向かわなくなる。

(6)それから祈りがうまくできないのは、いつもしている祈りが自分の祈りのスタイルに合っていないということもある。

(7)信仰の薄さも祈ることを難しくている。何を優先させているか。いったん祈り始めたら、急務と思える山のような仕事が気になり、それらは祈りよりも大切なものであるかのように頭に浮かんでくる。

(8)それからなぜ祈りをしなければならないか、つまり、神を信じるとは、何のために人は生きているか、などキリスト教の基本的な理解が昔の要理程度のものでその理解が、不足しているために、信仰や祈りの大切さや祈りの意味とか目的というものが分からなくなっていることも祈ることを難しくしている。生産や効率向上を最高の価値観とする社会で、非生産的に思われる祈りは価値がない。祈りは現世からの逃避にすぎない。

(9)一番の祈りを忘れたことの根本的な理由は、世俗主義である。

世俗主義というのは、生活の中で神様は信仰を必要としない生活姿勢のことです。

超自然とか啓示とかを全部否定していく、考え方のことです。ヨハネ・パウロ二世は使徒的勧告「信徒の召命と使命」のなかで次のように言っています。「極めて多様な宗教的無関心と無神論がひろがりを続けていること、とくに現代では、世俗主義がおそらくもっともはびこっていることを考えずにはおられません。科学や技術のめざましい発展に不幸にも影響され、神に等しいものになろうとする非常に古くいて新しい誘惑に心奪われてしまい、自分の心の深く根差している宗教心をみずから断ち切る人がいます。かれらは、神を忘れるか、神を自分の生活には何の意味もないと考えるか、またはあからさまに神を拒絶して、現代世界の複雑な遇像を崇め始めているのです。

 

わたしたちもいつのまにか世俗主義の考え方に侵食されています。子供は一番いい学校に、まさに学歴中心のものの味方になっている。青年は教会にいってもいかなくてもいい、教会で結婚していなくてもいい、子供を産んでも生まなくてもいい、そういう現代の価値観の中で生きている。教会や親がいくら教会にこなければいけないなどと言っても、納得しないのです。

 

いずれにせよ、祈ることは難しいことだけに何とか工夫して、少しでもよく祈れるようにしたいものです。祈りは霊魂のたべものです。食事しなければ栄養失調になって死んでしまうように、祈らないといつのまにかわたしたちの信仰心は痩せ襲って、ついに消えてなくなる。神への人類のあこがれと宗教の必要性は、完全に消滅することはありません。「主よ、わたしたちのこころは、ついにあなたの内に憩うまでは、休まることがありません」という聖アウグスチヌスが述べた言葉を自分のものにしないわけにはいかないのです。

U、祈りの本質

祈祷書の中の祈りを口に出して唱える祈りが祈りである、思いこんでいません。これはこうとうの祈りと言われていますが、そのような祈りも立派な祈りですが、祈りは神あるいやキリストに対する心の語りかけということにあります。これは要するに、こころを神の方に向けて、自分はそのみ前にあるのだということを意識しながら心で語りかける。それが祈りである。

また、一般的に「祈りとはこころを神にあげること」という定義があります。

この祈りの定義は、古典的伝統的定義です。心はわたしたちの祈りのすべてです。心が伴わなければ祈りではありません。こころを欠いた祈りはや祈りではありません。祈りを育てるには心を込めるようにいつも努力することが大切です。

よく、わたしたちは、こころを込めて仕事する。心から感謝する。心を閉じる。心を開くといいます。たとえ、祈るときに雑念に悩まされていても、こころを込めて、神の前に自分を投げ出していれば、それは立派な祈りです。

祈りで心を神にあがること、心を祈りに込めることは、嘆願の祈り、賛美の祈り、感謝の祈り、罪のゆるしを願う祈り、あるいは典礼における祈りなどあらゆる祈りにもと求められます。どんな祈りであろうと、祈りが祈りであるために絶対必要条件は、こころからのものである。こころがこもったものである、という点です。どんな長い祈りでも、またどんな荘厳な祈りでもこころがこもっていなければ、神はその祈りを拒む。イザヤ預言者はこう言っています。「かれらは、わたしにことばだけで近づき、唇でわたしを讃えても、その心はわたしから遠く離れており、かれらのわたしに対する崇敬の行事は、自分のこころからでなく、伝えられ教えられてきたものを、そのまま習慣的におこなっているにすぎない。」

 

ところで、わたしたちのこころは、実際には神以外のものにいろいろ惹かれています。

「こころがあるところに宝がある」と言われているようにわたしたちのこころはいろいろなものにひきずられ、動かされている。富に、お金に、地位に、楽な生活に、遊びに、わたしたちの扉は開かれている。目の欲、肉の欲、生活のおごりにこころを奪われている。こころがそうしたものにとらわれていればいるほどに、神から遠く離れていることになります。

 

集中して祈るために

だから、祈るときには、気持を集中させるためいろいろな工夫が必要です。静かな場所を選ぶこともその一つです。外からの刺激や騒音があるところでは、普通気持を集中させることは難しいものです。イエスも「あなたが祈るときは、自分の部屋に入って、戸を閉め、祈りなさい。」人間は機械やロボットではないから、スイッチ一つで意識を自動的に切り替えることは不可能に近い。とりあえず、祈りのために静かな環境、部屋で祈るようにすることが大切になる。

その次にすべきことは徐々に自分の気持ちの流れを神の方に集中させていくことです。今まで仕事をしていたり、人と話していたのであれば、気持はまだそこに引きずられているので、気持を神の方に向けるために黙想書や霊的読書や祈り本を手にとることです。神経をほぐし、からだの緊張をほぐして、ゆっくりと書物を読みながら、意識の流れを神の方に変えていくことです。しかり、祈りのときの読書は、知るための読書ではなく、こころを神の世界に向けさせるためのものです。

 

事例1、祈りの聖人 

大聖テレジア、教会博士

 

1515年、スペインのアビラに生まれる。20歳でカルメル会に入会。彼女にカルメルの修道生活へ駆り立てた動機は、なんと、地上のむなしさであり、また、地獄の恐れであった。彼女を修道生活に駆り立てた動機は、この世が自分の人生の情熱を賭けるために価値あるものとは思えなかった。このとき神は彼女にとっての神は、彼女の人生の情熱を受け止めてくれる対象である。

 

しかし、修道院に入ってから19年間は、彼女のこころは世のむなしさを見つめながらも世間に惹かれ、神と世間との間にあって揺れ動いた。世間と神との板挟みにあって不安定な、落ちつきのない修道生活を送り続けた。その彼女が修道生活に目覚めるのは、39歳のある日のこと、修道院の聖堂で傷ついたキリスト十字架像を見たときでした。彼女は十字架像から放射してくるキリストの愛に、魂の奥底から揺り動かされる。彼女はこの十字架像の中にイエスの愛をみつめ発見した。それ以来、イエスから自分の祈り方や生き方を学び取ろうとする。このときから、彼女の信仰生活は、神との交わりを深めていくことに集中する。そして、このために祈りが強調される。完徳の道を歩み、多くの神秘体験を得た。同会の改革に着手し、多くの苦難を味わったが、不屈の精神で克服した。自らの霊的体験にもとづいた優れた教えを収めた書物を著した。

 

初心者に対して

テレジアは、祈りでイエスとの親しさを生きるように勧めた。その祈りとは2人だけでイエスと人格的に交わること、つまり、祈りとはイエスとの友情を深め合うこと、友情の交換である。祈りによって、イエスと共にあろうとすることに集中する。そのために彼女は好のみにあった聖絵と聖像をもつことを勧める。

 

初心者に向かって、十字架につけられたイエスを想像したり、あるいは推理することを薦めて、こうすすめる。「聖主が忍ばれた苦しみ、この苦しみを忍ばれる理由、苦しんで織られる方はどういう方か、どんな愛をもっておられるかを省察しましょう。」

しかし、その目的は十字架によって示されている神の愛、そしてイエスの愛にわたしたちの人格の中心を向けさせることにあった。魂の底から、すっかりイエスの愛に生かされること。そのため、主イエスを単純に眺めることである。

 

 

ところで、祈ろうとしても常に雑念に悩まされたりする、あるいは霊的な読書、霊的な講話を聞いても雑念に捕らわれて祈りができないことがある。そのような人はどうずればよいのか。大聖テレジアは具体的にどうすればよいか説明している。

 

「ただ、主をながめることだけでもお願いしているのです。あなたがたの心の目を、もしそれ以上できなければ、ただ一瞬だけ、このみあるじに投げかけるのを、だれが邪魔できるでしょうか。あなたがたは、ずいぶん醜いものでも眺めることができるくせに、想像できるかぎりの最も美しいものをみることがおできにならないのですか。(完徳の道)ただの一瞬、こころのまなざしを神になげかけること、つまり、人間のこころの一番深いところを一瞬間でもよいから、神の現存を信じて、そこに投げかけていくいことをすすめている。15分の祈りの中、14分間が雑念の中に過ごさなければならなくても、その中の1分間でも、こころを神に投げかけることに成功すればよいのである。あるいはまた、雑念に悩まされ、何一つよい考えが浮かばなくても、こころを神の方に向かわせようと務めているならば、立派な祈りである。

 

単純な祈りの方法として、たとえば、東方の修道者のイエスの祈りもある。それは、ただ静かな深い呼吸を続けながら、イエス、憐れみたまえ」をくり返すだけの祈りである。同じように、天いますますやめでたしをゆっくり落ちついてくりかえして唱えることも、立派な祈りになる。

(2)祈りは神との通じ合い。

祈りで神にこころをあげるだけでなく、さらに神と通じ合うことが必要です。なぜならば、祈りは神との対話。決して一方通行でないからです。この定義は、切支丹時代の公教要理にあります。

事例1,聖書

キリスト教は啓示の宗教、ことばの宗教。神は旧約時代に預言者を通して語った。新約になって主イエスキリストを通して語った。これをヘブライ人書は、「神はかつて預言者たちによって、多くをかたちで、また多くの仕方で先祖に語られた。おの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた。」ヨハネ福音書は、告別説教で、弟子達に「もはや私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべて知らせたからである。」

神のことは命、救いのことばです。そのことばに信仰の従順をもって答える、そうして相互の交わりを強める。これがキリスト教の信仰であり、その実践としての祈りである。キリストのことば。わたしはあなたがたに語った。だから、わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

まず、神が先に人間に語りかける。

(1)  お告げのマリアの信仰 天使がマリアに語りかける。そのことばに信仰の従順で従う。仰せの通りこの身になりますように。

(2)  罪人ザケオとイエスの出会い イエスがさきにザカイに呼びかける。

(3)  マリアとマルタ姉妹 マリアはイエスのことばに耳を傾ける。

もちろん、人間がさきに神に救いを願い、それに神が答える形の祈りも多々福音書にはみられる。奇跡物語の大部分がそうである。いずれも信仰がないとき、イエスは、奇跡の業をしなかった。信仰はしばしば祈りの叫びとなってほとばしる。

 

事例2,通じ合いとしての祈りからの信仰生活の例

 

平戸の鷹島の切支丹の信仰の熱意

ルイスフロレスの日本史は有名。豊臣、信長の時代のことを教会の視点から当時の日本の歴史を詳しく書いている。NHKの大河ドラマにもなった。

 

その書物には、キリシタン時代の初期、平戸島沖の度島(たくしま)のキリシタンの信仰生活のことが語られています。

貿易港であった横瀬浦が平戸の殿様によって焼き討ちにあった1561年から1562年まで約1年間、フローレス神父とフェルナンデス修道士が司牧宣教師しました。その様子が語られている。司祭と修道士がかの島にいたときに、とりわけ心を打たれたのは、その地の若者たちが、祈りをすることやデウスの教えを傾聴することに大変な熱意を示したことである。ほとんど毎日次のような光景がみられた。

 

「その切支丹たちは牛を使って段々畑を耕し、朝から晩まで一日中、そうした仕事でくたくたになり、極度の貧しさから死にそうにひもじい思いをして、家路につくわけであるが、かれらは牛追い器具と鋤を肩にしてアヴェ・マリアの時間に教会の前にやってくると、13,14、15歳までの少年なのに、かれらは牛を傍らにつなぎ、教会に入って来る。からだを元気つける夕食の時間に先んじてである。そして膝まつき、両手を合わせ、ロザリオの祈りを3分の一かそれ以上唱えるのに必要な時間くらいデウスに祈りをささげ、そしてそれからやっと家に帰って行くのであった。」

 

「そして、デウスのことや諸聖人の生涯のことをとても聞きたがったので、たとえ雨が降っても、あるいはひどい闇夜に包まれていても、食後に再び教会にやってきた。そしてかれらの一人が多いに畏れ謹んで司祭館の戸口に来てこう言うのであった。「みな隣の教会に揃いました。できますならば、それにお差し支えがなければ、ご面倒をおかけしますが、どうかわたしどもにデウス様のことについてお話をしていだだけますか。」と。修道士の方も、かれらが自分の話を聴聞しようとする熱意に劣ならい熱心さと喜びをもって、かれらの信仰を助けた。そして幾度となくその説話は夜の10時、11時まで長引いた。そして切支丹たちはこのようにすることをとても満悦して、昼間仕事に従事して疲れていたにもかかわらず、眠りこんだりすることなく、デウスのことを喜んで聴聞するのであった。」

 

(1)  祈りの本質

祈りと洗礼の恵み。

祈りとは何であるか理解するためには、洗礼の恵みを考えればよい。聖性の恩恵を受けた。聖性の恩恵とは、ひらたくいえば、神との親しい交わりのことである。洗礼の秘蹟の時に、いただいている神との親しい交わりの恵みを深めるのが祈りである。

洗礼の秘蹟によって、わたしたちは、イエスと結ばれ、神の生命に参与し、神と交わる親しい恵みをうけた。祈りはこの神との交わりを対話によって深め合う神との交わりである。

 

祈りを人間の側から定義すれば、神の愛の呼び掛けを心深く受け止め、神に応答し、神との交わりを深めていくこと。祈りは神の愛のまなざしに応えていく人間の愛の応答である。神から愛されているということを知り、信じて、その愛に答えようとする人間と神との友情である。

 

祈りの聖人の模範を見てみることにしましょう。

(イ)  小テレジア 初聖体

1873年フランスのアランソンに生まれ、若くしてリジューのカルメル会に入会。謙遜と福音的な直さに、そして神に対する絶対的の信頼の道に基づく修道生活を送り、ことばと模範によって、修練者などに同じ道を教えた。人々の救いと教会の発展のために自分いのちをささげ、1897年に24歳でなくなった。小さなテレジアにとって神は、彼女の弱さや小ささを理解し包んでくれる温かい父親である。従って、彼女の信仰生活は、自分の弱さを神の前にさらけだしていくということにアクセントがおかれる。

 

イエスに対する愛の目覚め

初聖体の想い出を、自叙伝に次のように記しています。「わたしは、イエス様から愛されていると感じました。それでわたしも、イエス様に、『わたしはあなたをお愛しします。永久にわたしをあなたにささげます。』と申し上げました。願いも、犠牲もありませんでした。もうずっと前から、イエス様と、貧しい私とは互いに眺め合い、互いに理解し合っていました。けれどもこの日には、もう眺め合いではなく、一つに溶け合ったのでした。わたしたちは、もう2人ではありませんでした。私は、大海に注がれたひとしずくの水のように消え失せてしまい、ただイエスさまだけがお残りになりました。」

 

はじめて聖体を受ける彼女の「愛されている」という表現は、口先だけでなく、心からの実感でした。友もつくれず、愛する母と姉たちを奪われて苦しみぬいた彼女にとってご聖体は、絶対確かな愛のしるしとなった。ご聖体という印を通して彼女ははじめて深い平安を得たのです。その後、イエスとの関係を育て、深めていくことを人生の課題としていきます。

 

愛が最高の、そして唯一の人生の目的であり、そこにしか価値がない、という信念。神様のみこころを生きようとするときに最も大切なことは、ただ愛だけである。愛だけに修道生活を集中した。「主はたったひとつのまなざし、たったひとつの愛のまなざしで満足なさいます。心によって、つまり、愛によってイエスにお仕えすればよい。

 

 

(ロ)聖ヴィアンネー

モンナン神父著「聖ヴィアンネーの精神」

1786年、フランスリオンの近郊に生まれる。多くの困難を乗り越えて司祭になり、ベレ司教区アルス村の小教区に任され、熱心な説教、苦行と断食、祈り、愛によって、小教区民を司牧し、信仰面で育てた。また、優れた聴罪司祭として有名になり、全国から彼を訪れ、その指導を受けた。人々の救いのために働く司牧者の模範とされている。

 

(1)人間は祈ることと愛することとの立派な職務を持っています。毎日、祈り、そして愛すること。これがこの世における人間の幸福です。祈りとは神とイエスとに親密に一致することに他ありません。わたしたちのこころはごく小さなものです。しかし、お祈りは、人間のこころを清め、神と対話し、交わり、神を愛することを可能にしてくれます。お祈りはこの世ながらの天国の味わいであり、天国のほとばしりです。お祈りはわたしたちに甘美を与えてくれる蜂蜜です。よくお祈りすれば、陽光の下に消える雪のように、苦しみは跡形もなく消え去ります。

 

(2)、水を得た魚のように自分を忘れて祈りする人を見ることがあります。

「わたしがアルスにきた最初の頃のことでした。ある人が教会の前を通るとき、決まってその中に入りました。朝は仕事にでかけるとき、晩は仕事から帰るときに、扉のところにスコップとつるはしとをおいて、ながい間、聖体の秘蹟の御前にとどまり礼拝しました。ある日、私はあの長い訪問の間に何と主に申し上げているのですかと尋ねました。何と答えたかわかりますか。「神父様、わたしは何も申し上げません。わたしは主をみつめ、主はわたしをみつめておられます・・・」彼はくり返して言った。「何と美しいことでしょう。みなさん、何と美しいことでしょう。聖人たちはただ神を見、神のために働くために、我を忘れました。神だけを見出すために、一切の被造物を忘れました。このようにして天国にゆきつくのです。

 

(3)よく祈るためには多く語る必要はありません。神が聖櫃の中にましますことを知っています。主に自分のこころを包み隠さずに広げ、主の御前におることで満足します。これが最良のお祈りです。

 

(4)主イエスと一致し、霊魂の救いを得る方法として二つがあります。

それはお祈りと秘蹟であります。すべて聖人となられた方は、しばしば秘蹟に預かり、またお祈りによって霊魂を神様のもとまで挙げられた。朝、目を覚ますとすぐに、神に、こころも精神もことばもおこないも、私全体を神のみ栄えのために捧げなければなりません。

一日の間、しばしば聖霊の導きを願わなければなりません。自分の罪深さを知るために、罪人の回心のため、煉獄の霊魂のために、主の祈り、めでたしを唱えなければなりません。

子供が母親にパンを一切れくださいと言うように、神様、わたしを憐れんでくださいとしばしばくり返す。 お祈りしないものは空を飛べない鶏か七面鳥のようなものです。

お祈するものは、空中を羽ばたく鳥のようなものです。

 

 

                                                            

 

 

V、何を祈るのか

 

主の祈り

 

キリストの弟子達でさえも、最初は何をどのように祈ればいいのかは、よく分からなかったようです。「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください。」とキリストに言っています。それに答えてキリストが教えられた祈りが、今、わたしたちが「主の祈り」と言って、日々唱えている祈りです。この祈りこそは、神が人となってこの世に来られたお方、神の子キリストが教えてくださった祈りですから、これこそ一番優れたしかも理想的な祈り。この主の祈りはマタイ福音書とルカ福音書にありますが、この祈りはもともとイエスの祈りでした。イエスが普段祈っていた祈りを弟子達にもわたしたちにも、天の父の子として祈ることが許され、薦められているのです。

 

主の祈りは、仕事や勉強に精一杯生きながら根本は神の手に委ねて、神の望みを中心に、神を大切にして神に向かって生きるということをみつめていくように、という祈りです。

 

マタイ福音書の主の祈りは前半と後半にはっかりと分かれます。前半は、父が聖とされますように、父のみ国が来ますように、父のみ心が行われますように、と神を対象とした祈りです。後半は、パンをください、ゆるしてください、誘惑に会わせないでください、悪から救ってください、という人間のための祈りになっています。

 

この主の祈りの土台は、父よ、という呼び掛けにあります。

祈るときにはこう言いなさい。「父よ、あなたが聖とされますように。ここで、父よ、ということばは、「アッバ」、お父さんという親しみのこもった呼び掛けです。神をお父さん、あるいは「ぱぱ」と呼ぶ親しみをこめた呼び掛方は、当時の社会ではなかったようです。主の祈りの特性がここにあると言われます。イエスは、祈るとき父としての神の存在の前に身をおくことを勧める。もちろん、父よという呼び掛けには、神への信頼がこめられています。

 

では、キリストが使ったこの「父よ」は、どのような意味を持っていたのでしょうか。

神が、ただ人間を超越した絶対者だけでない。」父よ」という呼び掛けは、神が人間に向かって親のような愛情をもった存在であることをあらわしている。

 

事実、イエスは、父としての神の姿を、いろいろな機会に明らかにしている。

マタイ福音の山上の説教の中でイエスは、「自分の子がパンを欲しがるのに石をやり、魚を欲しがっているのに蛇をやる人がいるだろうか、悪い人間であるあなたたちさえ、子供に良いものを与えることを知っている。まして天にまします父が、求めるものに良いものをくださらないはずがあろうか」

「自分の命のことで何をたべようか、何を飲もうか、何を着ようか心配するな。命は食べ物より大切であり、からだは衣服より大切ではないか。野の花を見なさい。種も蒔かず、刈りも入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養っておられる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」などの言葉で、イエスは、やさしい父性的な神、細かい日常的なことまで配慮して応えようとする神の親心を教えています。

一人一人の髪の毛を数えあげるほど人間一人一人に細やかな配慮と愛情を注ぐ父である。わたしたちの幸せをだれよりも願ってやまない神であります。

 

こうした神に愛のはたらきかけは、すでに天地創造の業のうちに始まっている。神の愛が、このわたしにこの世で幸せに生きるように存在を与え、さらに幸福の可能性を実現できるようにたえず働き続けておられる。

イエスは、仕事やすべき事を怠けていいということではなく、精一杯努力しながら、人間存在の根底にある天の父に信頼すること、天の父に委ねることをすすめている。

 

「父」ということばは、このように、父としての神に対する信頼によって主の祈りが基礎づけられているのです。信頼が主の祈りの第1のこころです。

                                    

 

けれども、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは神の心を生きなければならないという厳しさです。

 

マタイの主の祈りには、父の配慮と愛情に信頼しきっていいが、同時に厳しさもあります。マタイの主の祈りの厳しさは、「神が尊とまれますように、「み国が来ますように、「みこころが行われますように」にという前半の祈りの中にあります。実はイエスキリストこそが、神を尊び、神の国のため、神のこころのために生きた方です。ご自分が父に信頼して、父の栄光のため、父のこころが行われるように、生きたことの要約が主の祈りです。ですから、主の祈りを唱えることで、わたしたちは、キリストの生き方に迫っていく、触れていくことになります。

 

主の祈りを唱える続けることは、単にキリストとの触れ合い、一致、交わりを深めるだけでなく、十字架の死にいたるまで父の心を生き、そうすることで人類を愛し、その救いのために生涯をささげたキリストの生き方そのものに倣うことになる。

 

(1)  幼きテレジアの霊性 信頼の霊性

わたしたちは、イエスに倣って、最善の努力をしながら神のあわれみに信頼し、努力を日々つづけることが必要です。神への信頼、イエスへの信頼の生き抜いた祈りの聖人は幼きテレジアです。テレジアはこう言っています。

 

「二階に行ってしまったおかあさんのところへ行きたくて、赤ちゃんは一生懸命段階をのぼろうとします。自分の力では、とうてい二階にのぼれなくても、何度も何度も挑戦します。それを見たおかあさんは、急いで二階からおりてきて、赤ちゃんを抱き上げ、二階に連れて行きます。信仰生活で神がわたしたちに中で働いていることが確かめることができればどんなに安らぎを得ることでしょう。しかし、それはほとんど期待できません。何も感じなくても、しっかりした信頼の中で、自分をゆだねて生きていくのです。自分の惨めさを感じ、絶望し、祈りを止めたい衝動に駆られても、失望せずに祈る続けることに価値があります。

 

 

W、どのように祈るか

 

ところで、どのように祈ったらよいのかということが多くの人々にとって課題でもあります。なぜならば、祈ることは簡単ではないからです。

(1)  まず、第1に考えなければならないことは、祈りの仕方です。祈りの仕方にはいろいろあって、この祈りをしなければならないことと言って、ある特定の祈りを限定したり、押しつけたりしてもあまり役立たないということです。

(2)  人には人それぞれに適した祈りとか、祈りの方法があります。大切なのは今の自分に一番合った祈り方を見つけ、それをすることになのだと思います。それは世界にいろいろな食べ物や飲み物がありますが、ある食べものや飲み物はある人にはとてもよく合っており、またその同じ食べ物や飲み物が他の人にはむしろ有害になることもあるのと同じです。たとえば、刺身はからだに合わないと言う人がいますが、大好きな人も大勢います。それと同じことが言えると思います。自分に合った祈り、祈りの仕方を見つけ、それによって神様と一層親しくなり、深く一致し、喜びを感じることができればいいと思います。自分に適した祈りであれば、どんな祈りでもいいのです。

 

たとえば、いままで教会の祈祷書を使ってお祈りをしていた人が、どうしてもうまく出来なくなったら、その祈りは止めて、聖書とか霊的な読書を活用して、祈るという方法を試みることもいいと思います。自分に合った祈りを神の助けのもとに試しながら探してゆけば、必ず、神は敵した祈りを見つけさせてくださいます。このように自分に合った祈りを見つけ、その祈りによって自分一人で祈ることは大切です。

 

(3)共に祈ることのすばらしさ

 

しかしミサの祈りとか、教会の祈りとか、あるいはロザリオの祈り、祈祷書の祈りなど、ある決まった型の祈りを他の信者と、時には一緒に祈ることもよいことですし、決して軽んじてはいけない。また、「2人以上の人が共に祈るな、わたしもそこにいる」とおっしゃったキリストのおことばのように、家族で祈ることはキリスト共に祈ることになるのです。その意味において、わたしたちがただ一人で神に向かって祈る事と同じく、他の兄弟姉妹と共に祈ることも大切です。

 

(4)簡単な祈り 

それからもう一つだけ、それはわたしたちの祈りを唱えやすくするようにしたらどうかということです。仏教徒の方はよく一日に何度も「なみあみだぶつ」をくり返します。それは「仏様にこころから帰依します。ささげます。」という意味ですが、とてもすばらしい祈りだと思います。カトリックにも短い祈りの伝統があります。それは射祷という名前の祈りです。東方教会にも短い祈りの伝統があります。それはイエスのみ名の祈りです。呼吸を整えながら、主イエス、罪人のわたしをあわれんでください。この祈りをくり返すだけのいのりです。

 

                                           

 

 

W、祈りのすすめ

 

(1)マザーテレサ

千葉繁樹著「マザーテレサとその世界」

質問 日本人のわたしたちに、何かメッセージをいただけませんか。

日本では、今家族がバラバラになりつつあります。1989年の頃の日本の家庭環境

マザー もし家庭が祈ることを始めるなら、愛と一致がもどるでしょう。というのは

共に祈る家庭は共に留まるからです。祈りの実は信仰です。信仰の実は愛です。愛の実は

奉仕です。もし祈ることをはじめるなら、祈りを私たちの生活に取り入れるなら、家庭は

家庭はもっと健全になるでしょう。今日では、どこの両親も、子供やお互いに、ほほえみあう時間さえない。それで子供達は家庭の中から喜びや愛を、ほほえみを見つけることがないので、さびしさをまぎらすために、外へ探し求めに行くのです。若い人々は愛を満たすために麻薬に走ったり、ちまたにさまよったりする。今日日本や他の裕福な国々では、とてもひどい愛の飢えがあるかもしれませんね。誰からも必要とされていないという孤独

、誰からも愛されていないという貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっとひどい貧しさだと思います。裕福な家庭には、このようなあがきが絶えずあります。家庭生活は完全に破壊されつつあります。というのは、人々はあまりにも物質的なことでいっぱいで、精神的なことを考えなくなっているからです。沈黙した心に神が語りかけられます。ですから、まず祈ることです。というのは祈りのないところに愛はなく、愛のないところに互いに信頼や会話や助け合いはありません。神への飢えがある日本にもイエスと祈りのみがその飢えをいやします。

 

 

(2)教皇ヨハネ・パウロ二世

教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」ロザリオ年2002年10月から2003年11月まで。

 

41番「共に祈る家族は一致を保ちます。聖なるロザリオは、とくに家族に一致をもたらす力ある祈りであることを知らせます。家族の成員の一人一人は、イエスに目をむけることによって、同時に互いのことに目を向け、心を伝え合い、団結し、互いに許しあう力を回復し、神の霊によって新たにされて愛の絆を修復します。

 

現代の家族が直面する多くの問題は、特に経済的先進国の社会においては、ますます互いの意思を伝え合うことが難しくなっていることにその原因があります。家族はめったに集まろうとせず、まれに顔を合わせることがあっても、多くの場合、それはテレビをみることに費やされます。再び家庭でロザリオを唱え始めるならば、日常生活はテレビとはまったく異なる映像、すなわち、救いの神秘という映像を映し出します。購い主主イエスの映像、聖母の映像が映し出される。ロザリオをいっしょに唱える家族は、ある意味でナザレの家族の雰囲気を再現しています。かれらはイエスを中心におき、喜びと悲しみを分かちあい、自分たちの必要なものも、将来の計画もイエスにゆだね、イエスから希望と旅路を歩む力を汲み取るのです。

 

42番、また子供たちへ

また、子供達の成長をロザリオに委ねるのもまた、たいへんよく、益になることです。

ロザリオはキリストの生涯を、その受胎から死まで、そしてまた復活からその栄光に至るまでたどるものでなかったでしょうか。両親は、子供達が大人になるにつれて、子供の生活についていくことがますます難しくなっています。科学技術が進歩し、携帯電話などの新しい情報伝達手段が生まれ、すべての速度は増し、世代間の文化的隔たりもますます広がっています。親はこどもたちが直面している快楽や暴力への危険と誘惑に大きな不安を感じるようになっています。子供達のためにもっともよいのは、子供達に小さいときから家族とともに毎日祈ることです。



  
   
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