ペトロ・古川 重吉師

1928(昭3)年〜1936(昭11)年 
段々畑の笑い顔

    島本要長崎大司教

 
長崎大司教
島本要
 
 「要、今日は仲知の修道院で餅まきがあるのよ。一緒に行こうね。」
母は新調の着物を私に着せてから、買ったばかりの靴を、いかにも誇らしげに履かせながら、こう言った。4歳頃の出来事である。雨上がりの路面はまだ少しぬれていて、所々ぬかるみもあった。修院の屋敷は、修院本館の落成を祝う大勢の人出で賑わっていた。

 建物の祝別が終わってから、「それでは、これから餅まきを行います」と言うアナウンスと殆ど同時に、緊張した大衆の頭上に、釣鐘の連打にあわせて、餅の雨が降って来た。白い餅、食紅をぬった化粧餅・・・・・。母の許から離れていた私のまわりにも沢山の餅が落ちて来た。拾おうと思って身をかがめると、まわりの大人たちがいち早く拾い上げてしまう・・・・・・。

 釣鐘の音はやんだ。餅まきは終わったのである。手は泥だらけ。でも空っぽ。一つも拾えなかった。ああ、あの時のくやしさ・・・・・。おまけに片方の履物はぬかるみにとられ、泣きべそかきながら母の許へ走った。母は私の片方の足が素足なのに気付き、あわてて人ごみの中に靴を探しに行ってしまった。

 これが私の仲知の修院の最初の記憶である。今年で私も、もう52歳になった。従って48年前の思い出である。今はその本館もとりこわされ、近代的な洋館が仲知の景色に美をそえている。時代の変遷と修院の発展を意味するものなのだろう。

 仲知は信仰の雰囲気の漂う平和な信者だけの小村である。この村の信仰を支える2本の大きな柱がある。それは主任司祭と修院である。この事実は昔も今も全く変わっていない。私の場合、セリ伯母が修院の一員だった関係で、仲知の修院については極めて深い親しみを感じながら大きくなった。

 「修院の伯母さん」と私たちが愛称をもって呼んでいたセリ伯母さんは、能く、日曜日の午後、私たちの家を訪ねてくれ、お話しを聞かせたり、潮干狩りの時には磯へ行って、 さざえ、あわび等、海の幸を籠いっぱい取って来て、一緒に夕食を早めにすませ、ロザリオの祈りのために真浦まで足を運んだものでした。

 春の麦の刈り入れ時、或いは秋のいも堀りの時など、修院の人たちは姉さん(当時は院長をこのように呼んでいた)を先頭に、大勢で段々畑で働いていた。小学校の入学直前に父を亡くした私は、小学生時代、母とともに畠仕事に出る習慣であった。母と2人でほそぼそと働いているかたわらで、大勢のシスターたちが笑いながら、或いは麦の刈り入れに、或いはいも掘りに精出している姿は、見るからに神々しくもあり、うらやましい限りであった。「大勢で働くのは良いなあ!」と羨望しながら、その後姿を眺めていたのである。
小学校に入ってからは、殆ど毎日、早朝のミサに与かっていた。でも、日曜日のミサは大きな楽しみの一つであった。シスターたちの唱う聖歌は、ミサ聖祭の荘厳さをいやまし、聖なる雰囲気をかもしだし、神との触れ合いを容易にしてくれたからである。

 共同で働く姿、熱心に調和して唱える共同の祈り、私たち庶民と全く同じ服装をしたシスターたちの存在は、私の信仰の発育に大きな模範であり、誇りをもって信仰を生きる力を培ってくれた。

 小学校時代、教え方さん(カテキスタ)として私たちの信仰教育に尽くしてくださったスイさんが、この修院に入会されたと言う話も、遠い昔のことながら、非常に嬉しい思い出の一つとなっている。
かつての笑い声がこだましていた段々畠も、今はもうすすきの花壇と化し、季節の小鳥の群れがさえずりたわむれる原野となっている。

 「お告げのマリア修道会」として組織され、発展した仲知の修院の百年の歩みは真に変化に富んだ歴史である。仕事の内容も変わり、服装も変わった。しかし、仲知という一小村における信仰のチャンピオンとしての使命は今も変わってはいない。また今後とも変わってはならないと思う。
幼少の頃からお世話になった方々の面影が走馬灯のように、次から次、脳裡に浮かんでくる。その中の多くの方はもう神の御許に召されている。生ける人にも死せる人にも、心から「ありがとう」と申し上げたい。と同時に、第二の百年期に船出する仲知修道院の益々の御発展をお祈りしたい。

「仲知修道院100年の歩み」より引用
 
昭和53年頃の仲知の段々畑
1、古川師の思い出 海辺シミさん
 
 江袋教会信徒      海辺シミさん

 古川師については江袋教会の長老である海辺シミさんが青年時代に江袋教会の教え方であった時(昭和2年〜昭和8年)の司祭として良く記憶に留めておられる。
 そこで、今回も彼女に登場してもらい、古川氏についても思い出を語ってもらった。

 「古川師の江袋教会巡回はだいたい一月に一回くらいで、巡回のときは賄いをしていた甥と一緒に徒歩で来ておられた。
 しかし、賄いは後で江袋の浜口五郎作となり、さらに、仲知の真浦秀和に代わった。

 師が江袋に巡回される日には必ず宿老であった田端喜八が出迎えて、「神父様、巡回していただきまして、ありがとうございます。」と挨拶を丁寧にして、食事のため郷民から集めた米を賄いに届けていた。(当時、神父様は信徒の教育に厳格で権威がありましたが、信徒より尊敬され、神父様だけが毎日のようにお米のご飯をいただいていました。)

 師は物静かな人柄であったが、頭脳明晰でその説教なども上手であった。
 ときには男の教え方も女の教え方の私も司祭館に呼ばれて、江袋の子供の要理の覚えぐあいや問題点がないかなど聞かれていた。

 ミサのときに子供が行儀が悪かったり、おしゃべりをしていると、子供ではなく、教え方が司祭館に呼ばれて叱られていた。
 しかし、黙想会とか、教区の行事などで長崎に出向いたときなどはお土産にバナナを買ってきてくれる優しさがあった。

 多趣味な方で、空気銃でヒヨドリを狩猟して遊んでおられたが、一番の趣味は魚釣りでありました。江袋巡回のときも谷口敏義の小船を借りて昼はクサビ釣り、夜になると江袋や大水あたりの沿岸で水イカ漁を楽しんでいた。自分で捕らえたヒヨドリや釣り上げた魚を賄いに調理させて一緒に食べるのも好きであったらしく、よくそのことを話題にしていた。

 常住していた仲知ではどんなにして余暇を過ごしていたのか知らないが、仲知の磯でアマメをえさとして信徒に作ってもらった竹竿でのクロ釣りは有名で当時からその瀬は仲知の信徒より、「神父様瀬」と呼ばれていた。

2、思い出 瀬戸国作氏 
 
 
若かりし頃の瀬戸国作氏、同郷の信徒を連れて小値賀へ買い物
 
 ホームページ開設にあたり、平成13年2月2日、小値賀教会の後期高齢者の瀬戸国作・ナセご兄妹に古川師の思い出を聞きました。

大正14年瀬戸脇生まれの瀬戸国作氏は中村師の時代に初聖体と堅信を受け、その後、長男であったことから町には就職しないで家業であった父の仕事(漁業)を手伝いはじめていた頃(15歳)に古川師が仲知に転任して来られた。昭和4年頃のことである。

 その頃、世の中は不景気であったが、瀬戸脇にも野首にも男女の青年会があって、それぞれ分かれて青年活動をしていた。
 今ではどんな活動をしていたのかすっかり忘れてしまったが、ただ次のことだけは今でもしっかりと覚えている。
 
 
自然のままに保存されている野首の砂浜。私達が平成13年3月巡礼した時は人に管理されていないのにゴミ一つ見つからなかった。ここで古川師の時代に徒競争の練習が行なわれた。

 
自然のままに保存されている野首の砂浜 (左側上部は残念ながらダム建設で自然が破壊されている。中央部に見えるのが野首教会)
 
 古川師が瀬戸脇か野首に巡回して来たときのことである。ミサのお知らせで「今日は近づいている運動会に備えて午後から野首の砂浜で徒競走の練習をする。干潮になる頃を見計らって野首の砂浜に瀬戸脇の青年も野首の青年も全員集合せよ。」との呼びかけがあった。

 潮が引いた直前の砂浜は水分を含んでいるので、乾いている所よりも土壌が硬くなり、はるかに走りやすく運動場として使用できる。野首の砂浜は現在でもそうであるが、けっこう広く波打ち際沿って測ると150メートルくらいの長さとなり、運動場としては最適である。

 神父様は青年たちをその砂場で思い思いに走らせて誰が速くて選手に適しているか見ていたが、やがて「おれも走りたい。一緒に競走(走りぐらし)てみよう」と言われて青年たちと徒競走することになった。

 ところが、スタートから神父様がぐんぐん飛び出してそのままのスピードをゴールまで堅持してダントツの1番になったので、そこに集まった青年たちはみんなびっくりした、ということです。
 
 それから 戦後のことであるが、長崎の中町の信徒4、5人を連れて釣りに来られたときがあった。
瀬戸脇周辺ではイサキが釣れる好漁場のポイントがいくつもあることを神父様は良く知っておられるので イサキ 釣りに連れていくのが一番喜ぶだろうと思ったが、あいにくその季節はシーズンオフであった。

 そこで自分のモーターで野崎島周辺をあちらこちらに移動しながら丸二日間クサビ釣りの案内をしたらとても喜んで下さった。

 他方、瀬戸国作氏の妹瀬戸ナセさんは瀬戸脇尋常小学校を卒業後、古川師に派遣されて伝道学校へ入学し、卒業後も瀬戸脇教会の教え方を2年間して古川師に奉仕した。
そこで、彼女にも古川師についての印象をお聞きしました。
 古川師に教え方として仕えた頃の彼女は15、 6歳の娘であったことからあくまでも娘としての印象しか残っていない。それは「若くてとてもハンサムな神父様であった」ということです。

 教え方になってからの彼女の仕事は主に二つあった。

 一つは子供たちに毎日、登校前と下校後にほら貝を吹いて子供たちを教会の隣りにあった賄い部屋に集めて要理を教えることであった。

 
瀬戸脇教会跡 撮影平成13年3月
瀬戸脇には集落の上に瀬戸脇尋常小学校があったので、子供たちを集めやすく毎日2回稽古をすることが出来た。毎日2回していたからこそ、古川師が巡回されたときにテストがあっても子供たちは良く出来ていたのであまり心配することはなかったし、子供たちも素直で自分の子供のように可愛かった。
 
 教え方のもう一つの仕事は古川師が巡回されたときのミサに備えて子供たちに聖歌の指導をすることであった。 

 ミサの準備は古川師が賄いとして連れてきていた仲知の真浦幸男がしてくれていたので、彼女は彼の手伝いをすればよかった。

 しかし、聖歌の稽古だけは彼女が責任を持って指導しなければならなかった。幸いに彼女は聖歌を歌うことが好きだったし、伝道学校で聖歌を習っていたことがあって聖歌を指導することに困ることはなかった。
 しかし、よりいっそう聖歌の稽古を盛り上げるために地元の先輩に当たる瀬戸ソナさんに良く手伝ってもらった。

 彼女は教会の役職にはついていなかったが結婚しないで教会に熱心に奉仕することを喜んでいた。それに彼女は片手ではあったが、上手にオルガンを引くことが出来たので、子供たちのためだけでなく、青年たちの聖歌の稽古のときにも手伝ってもらった。
 
 古川師の巡回ミサは月に一度程度であったが、そのミサとその後に引き続けて行われていた聖体降福式の聖歌を子供たちや青年たちと一緒に歌い、共に神を賛美することが出来たのはとても楽しいことであった。

 
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