ペトロ・古川 重吉師

1928(昭3)年〜1936(昭11)年 

 
 
中村師、古川師、岩永師の頃(大正8年〜昭和15年)の瀬戸脇教会信徒の生活
 1週に2回、3回と定期的に休む事無く米山教会へ巡回ミサを7年間も続けていると、その途中に否応なく見えるのが野崎島の瀬戸脇集落跡であるが、私はここを通るたびにかつてここを生活と人生の場としていた人々のことが気になっていた。

 この瀬戸脇集落は津和崎や米山から一望できる近距離にあるとはいえ、津和崎と米山からは津和崎瀬戸で隔てられている野崎島の一番南端に位置している、いわば陸の孤島である。

 ここの信徒は野首集落と同様に、交通不便な島であったがゆえに、今は廃村になっているが、昭和45年までは立派なカトリックの集落を形成し、村のほぼ中央部にあった教会を中心にして、つつがなく信仰生活を生きていた。

 彼らの信仰生活についてはすでにある程度紹介しているので、ここでは生活面にスポットを当ててみたい。

 仲知の浜口ナセさんは結婚するまでの21年間(大正9年〜昭和15年)をこの瀬戸脇で過ごされていることから当時の瀬戸脇集落の信徒の生活に詳しい。そこで、今回も彼女が自分の故郷で過ごされた思い出を生活の面から懐かしく振り返って貰った。

1、漁業で潤っていた瀬戸脇

 大正年間から昭和15年頃までの仲知小教区内に所在する大水、小瀬良、大瀬良、赤波江、江袋、仲知、米山、瀬戸脇、野首の各集落の信徒の生活は半農半漁の生活で全体的に見るとその日暮らしの貧しい生活であった。

 しかし、同じ貧しさの中にあってもその貧しさには集落によってある程度の格差があったようである。
 これらの八つの集落の内、まず、比較的恵まれていたのは江袋の信徒の生活である。というのは江袋には他のキリシタン集落にない田んぼと現金収入となっていたハナ実が特産品となっていたからである。

 次に生活力があったのは瀬戸脇の信徒である。
瀬戸脇の信徒の畑は急斜面の段々畑で耕作面積も他の集落のように広くなかったが、漁業を本格的に営む家庭が多く、現金収入の道が開かれていた。

 その漁業の発展を支えていたのがまず、天然の漁港であった。瀬戸脇の漁港は南向きになっていたので、真冬に北西と北東の強風が吹いても漁船を常に港に係留できたのでほぼ1年中漁に従事することが出来た。

 そのうえ、瀬戸脇の周辺にはイサキなどの魚やイカが豊かに捕れる漁場に恵まれていることから、そう遠い所まで出漁しなくてもある程度の水揚げが可能であった。

 このような天然の地の利を生かして瀬戸脇の信徒は他の信徒集落の伝馬船よりも一回り大きな3丁櫓や4丁の伝馬船を造って何人も乗り込み(この舟のことを土地の人は「三間伝馬船」と呼んでいた)漁をしていた。
しかも、一本釣りや延縄やイカ釣りだけでなく、かし網漁法で海底に生息している鯛、クロ、チヌ、ヒラメ、アラカブなどの鮮魚を一網打尽に捕って収益を上げていた。

 瀬戸ナセさんも教え方をしていたが、昼間は父が所有していた三間伝馬の乗り組員となって櫓を漕ぐことや一本釣りで魚を釣ることなど漁師がすることはすべてしていた。女性であったから周囲の人からは余り無理はしないようにと声をかけられたりもしていたが、彼女にとっては子供の稽古以上にこの漁が楽しかったと言い切る。

 3、 4歳頃には父たちのてをかりて櫓をこいでいた。小学生になった7歳頃には一人で櫓をこぐことが出来ていたと言うから相当に男勝りで、漁好きな女性であったのでしょう。

このような生活であったので、瀬戸脇の港とその周辺一帯は漁船だけでなく、村道に至るまで所狭しとばかりに漁に使ったかし網を日に干して乾かせている漁村らしい風景が見られた。

 さらに、漁が景気になると、大きな柱を購入して以前の家よりはやや大きい立派な持ち家を新築する信徒も現れるようになったという。

 このようにして造られた家のうちでよい物は廃村になってからも移転先に移した人や移転にあたって他の信徒に売却した信徒もいたという。

 この話は本人からではなく、赤波江の宿老である竹谷正志と仲知の宿老である山添照雄両氏からお聞きしました。
 
 
赤波江から眺めた瀬戸脇集落跡
瀬戸脇の畑跡

 
瀬戸脇から見た津和崎
 
 

2、交通不便な瀬戸脇・野首集落

 瀬戸脇集落は米山、津和崎から大声を出せば聞こえるほどの近距離の位置にありながら、その間にはオーバーな表現かもしれませんが、津和崎海峡とでもいえるような潮流で隔たっていることから交通は非常に不便であった。
 どのように不便であったのだろうか。

 瀬戸ナセさんは13歳から16歳までの3年間、上五島青砂ヶ浦にあった奈摩内伝道学校の生徒であったとき夏休み、冬休み、春休みになるたびに約20キロもある青砂ヶ浦と瀬戸脇とを往復した思い出がある。
 帰郷する日は前もって手紙か、瀬戸脇に帰る人がおればその人に頼んで知らせていた。
 
 当日は勿論20キロの山道を同級生と一緒に歩いた。背中にはどの子も衣類、学用品、テキストなどの荷物を背負っていた。

 だが彼女たちにとってその行き返りの山道は決して楽しいことであっても辛いことではなかった。途中で友達と思う存分おしゃべりしたり、学校で習った歌を大声で歌ったりしながら時間を忘れて歩いていた。普段からからだは味噌つきや草取り作業などで鍛えられていたから歩くことくらいはなんでもなかった。

 米山に着くころには夕方になっていたので、その日の内に家にたどり着くことは出来なかった。だから、いつも米山の教え方で彼女の二従姉妹であたる川端チズさんの家に泊めてもらっていた。

 翌日いよいよ帰る日である。
川端チズさんの家の人からこころ尽くしの朝食をいただいてから津和崎の「潮上せ」と言われていた浜の手前に来ると、浜辺に打ち上げられている「寄り木」と呼んでいた流木を拾い集めて火をつけ、その煙で迎えを頼んでいた。
 さらに、海岸近くまで行って大声で「今来たぞ、連れに来て」と叫んでいた。
そうすると、対岸で畑仕事などをしていた方がそのときの煙と声で判断して自分の親に伝えてくれてやっと迎えに来るというあんばいであった。

 今度は卒業後、彼女が教え方をしていた頃の渡し舟の経験を話してもらおう。
 瀬戸脇の村の人々は津和崎、米山、仲知、江袋方面に用件が出来て出かけなければならなくなったときにはお互い様と言うことで助け合っていた。
 彼女も親戚や友人にお願いして本土に渡してもらうことはよくあったし、彼女も人に頼まれて渡し舟をしたことがよくあった。

 彼女の家は教え方になったとき教会近くの野首への通り道際に移転していた。教え方をしていたし、女性であってもちゃんと一人前に伝馬船の櫓を漕ぐことも出来たので、ときには野首の親戚や友人から船渡しを頼まれることがあった。

 しかし、頼まれてもここ津和崎瀬戸は潮流が激しいところなので潮の流れが止まるどろみまで待たなければならない時があった。そうしないと潮に巻き込まれて小値賀沖にどんどん流されてしまう危険が常に伴ってい た。

 また、海上が時化れば船渡しは不可能であり、そんな場合は船渡しを依頼したお客を自分の家に泊めてやってその晩はゆっくり風呂に入らせたり、夕食を振舞ったり、お茶を飲んだりして交流を深めていた。

 江袋教会信徒の迫害楠本氏顔写真
 楠本三吉(1845年生まれ)といえば、江袋教会の恩人の一人である。
物静かな人柄で、とても優しく信心深い人であった。教会建設のときは、信徒総代として活躍し村会議員も2回務め 、その子孫からは今日に至るまで多くの修道女が出ている。

 この楠本三吉は明治6年北魚目村曽根郷民より21人の江袋郷民と一緒に「算木責め」というひどい迫害を受け 、その模様については浦川和三郎著「五島キリシタン史」で紹介されている。

 この江袋の迫害について子孫にはどのように伝承されているのだろうか、興味深いことなので調査してみた。
 海辺さんは迫害を受けた当事者であった楠本三吉から直接本人からこの貴重な信仰体験を聞いておられる。
 彼女がこの話を聞いたのは彼女が教え方をして古川師の司牧のお手伝いをしていた頃だと言う。

 「楠本三吉じいさんは86歳で死亡するまで現在楠本重雄さんの家の隣に隠居して住んでいた。 姉楠本テル(明治42年生まれ、平成9年死亡)が嫁いていた所のじいさんであることから良く親から使いにやらされていた。

 そのとき、じいさんは隠居の身で縁側に座ってお祈りをしたり、聖人伝を読んでいた。
 私が行くと喜んでくれて霊的な本を貸してくれたり、昔話をしてくれた。

 『今ならこうして江袋の沖を眺めれば曽根もんが来てもここからでもわかるけど、昔はみんな畑や山仕事で忙しくて今のようにゆっくり眺めて警戒する暇もなかった。

 そんなある夏の日のこと、汗をぬぐいながら畑仕事をしていたら、曽根の郷民が突如大挙しておしかけ、話があるから川端の所に集まれと強制された。

 言われるままにみんなが集まると「ここは俺たちの土地だから勝手なことはさせない。この教会は俺たちの所に移すから、俺たちの宗教の信徒になれ。」と繰り返しやかましく言われた。

 私たちは反論して「この教会は自分たちで浜から大きな石や木材を運んで苦労して建てたのだから、曽根に移してもらったら困る。それに私たちは先祖からの信仰を捨てることは絶対に出来ない。」と言い合った。

 そうすると、「この石の上に座れ。」と言われ始めは膝の上に大きな生の薪をいくつも組み合わせて積まれた。でも薪じゃこたえんと思ったのか、薪はほたって近くにあった大きな石を拾い集めてきて膝の上に載せ、「これでもか、これでもか、捨てると言わないとまだ乗せてやるぞ。」と言い、黙っていると顎につくまで積まれ、これはたまらん足が砕けたばいと思ったが、隣で同じ拷問を受けて苦しみもがいている仲間に目で合図して、「頑張ろう、頑張ろう」と励ましあった。

 砕けたかと思った足も腰も立ってみたら何とか立てて、天主様が私たちを守ってくださったんだと感謝した。』

 実際にこのような責め苦に遭遇したのは一度だけのことで、後は郷民が警戒し、曽根の船が碇瀬を迂回し、江袋の方角に向いた時は「江袋に来よっとぞ」ということで当番を必ず一人おいて見張っていた。
当番にあたった人が知らせるとみんな子供を連れて山に逃げていた。3回ほど来たがあきらめたのかその後は来なくなったそうである。
 
碇瀬は写真中央にあるが、小さい瀬であるために写真では拡大しないと確認できない。

 もう10年以上前になるが、私が新魚目町主催の老人会クラブで曽根にある国民宿舎の温泉壮に言ったとき曽根の永田さんという人から「おばあちゃんたちはどこの人かな」と聞かれたとき、連れの人から言うなと合図されたが、それを押し切り「私たちはあなたがたのじいちゃんたちから迫害された江袋の信徒ですよ。」と言うと、「それは私もじいちゃんから聞いている。そうやったとなあ」とつぶやいていた。

 
 
 
迫害場所
信者が迫害を受けた場所


 古川重吉師転任

仲知伝道学校学生 山添行男  昭和12年
 私どもの敬愛する古川神父様
神父様は神学校を卒業なさると間もなく、 仲知というこの辺鄙な片田舎に特に仲知の不自由な破れ御堂にお出でくださって以来8年という長い年月を私どものために御勤続なさって下 さいましたが、この度長崎教区の大移動に伴い、図らずも神の島教会(長崎市)へ転任なさることになりました。

 神父様は私どもの良き牧者としてのスタートを仲知小教区に踏み刻まれて以来、終始一貫8年の長い星露を経過する今日まで、公に或いは私的に信徒の円満、協調 を図り道徳教育の向上発展に、或いは仲知小教区の悪癖飲酒の害など消滅させんと心砕かれなさいました。

 思うに神父様の手によって洗わせたる赤子、学童、幾百人の多くに達し、初聖体、堅信など数回に及び、8年前に神父様がお出でになってから聖命を受けるものが増加しました。神父様の深き恩寵により仲知小教区は成人したのであります。

 ことに私ども仲知伝道学生として思い出深きは開闢以来、始めて伝道学校を開校されて、つたない私どもを修徳と勉学に熱い心でご指導くださいました。

 あれから一年が過ぎようとしています。
しかし、神ならぬ身の知るゆえもなく、神父様は御転任となられまして驚いています。

 今にして思いますのは、もっと早く知っていたならば、もう少しは神父様のご教訓を守り、修徳に励んで神父様をお喜ばせすることができたのに、と残念でなりません。

 ああ、神父様よ、私どもの足りなかったこと、不足だったことをお許しくださいませ。

 しかし、神父様、ご安心下さい。私どもはこれから心を入れ替えて卒業の暁には、学も徳も申し分のない伝道師になりますことをお約束いたします。
神父様は幾多の辛苦を乗り越えて、この仲知教小教区の伝道学校の基礎を築かれました。
 私どもはそのご恩に報いるため狂乱怒涛の渦巻く俗世界に船出して信仰のために喜んで戦います。

 ああ、神父様、
いかに神様のご摂理と申しながら、このたびのご転任はご恩を受けた私どもにとりまして悲壮の感に堪えません。
 どうか、神父様、私どもが卒業のそのときはぜひお出でください。この悲しい別れであっても、神様の摂理とあればじっと堪えてお捧げしたいと思います。
 神父様が残された教訓を大切に私どもは立派な信徒、そして伝道師として頑張ります。

神父様もお体を大切に多くの人々を救いの道へお導き下さい。
 神父様のますますのご活躍をお祈りして、お別れの言葉に代えさせていただきます。

「仲知小教区史」より
 

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