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 パウロ・畑中 栄松師顔写真

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
 
 昭和15年8月、岩永静雄師は4年間の司牧を終えて三井楽教会へ転任され、パウロ畑中栄松師が第6代主任司祭として着任された。
師が仲知に着任された頃の国内は、戦争の長期化が予想される中で昭和13年に国家総動員法が制定され、政府は議会の承認なしに、経済と国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。
また、同年には国民徴用令によって、一般国民が軍需産業に動員されるようになった。

 昭和15年になると、さらに政府によって経済統制が強化される一方、国民に対しても「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもとに生活の切りつめを強要した。砂糖、マッチ、木炭の配給制がしかれ、翌年には米が配給制となりつ いで衣料にも切符制がしかれるなど、日用品への統制は著しく強まった。

 農村では、同年から米の供出制が実施された。
小作料の制限や生産者米価の優遇などで地主の取り分は縮小していったが、労働力や生産資材の不足のために、食糧生産は昭和14年をさかいに低下し始め、食糧難が深刻になっていった。
 
昭和17年 食糧増産勤労奉仕隊 「真手ノ浦小教区史200年の歩み」より

 同年12月8日聖母無原罪の祝日の夜明け、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。米英を相手に宣戦を一方的に布告したのである。
 翌年1月以降、国内には強力な戦時体制がしかれ、国民皆兵、富国強兵が叫ばれた。
 
 女子は老若を問わずモンペ着用となった。
防空壕が掘られ、防空頭巾を被り、モンペをはいて防空訓練やバケツリレーの消化訓練を受け、空中戦に備えさせられた。若い乙女は報国隊で軍事工場などに徴用された。

 成人男子は軍隊に招集され、未成年者は何処に働いていても無理やり動員されて、青年学校で将来の軍人になるための軍事訓練を受けた。この青年学校は仲知校区内の青年は仲知尋常小学校が、津和崎地区の青年は津和崎尋常小学校が会場となり、特別な軍人教育の養成を受けていた諫早農学校卒の先生から木銃で手作りのワラ人形を突き刺すなどの特訓を受けた。仲知の前田修一郎氏、其の弟の前田年増氏も指導員として駆り出された。

 精神面でも思想、信仰、言論の抑圧が公然と行われ、教育面でも小学校が国民学校に改められ、皇国民の練成をめざす国家主義的教育が推進された。

 それまで国民は元旦、2月11日の神武天皇の即位節、4月29日の天長節、11月3日の明治節の4代節の旗日には学校が休みとなり、大人も子供も皆学校に登校して校長先生の指揮のもと天皇陛下や皇后様のご写真、勅語の巻物が納めてある前で拝賀式が行われ、ご真影を礼拝し、教育勅語を恭しく聞くのであった。
 

仲知青年学校振興大会 昭和16年

 戦争が始まると、さらにキリスト信者であっても各家庭に天照大神たいま(天照大神を祭る神社に置いてあったご神体の模型)を買い、家庭に安置したうえそれに向かって柏手を打ち拝礼するようにと強要されるようになった。未信徒の集落に隣接している米山の子供たちも神社参拝の日には津和崎にあった神社に連れて行かれていた。しかし、津和崎の集落の人は寛容で他の集落の信徒のように参拝しなければ非国民呼ばわりすることはなかったようである。

 教会も戦勝祈願祭、戦没将士の慰霊祭、練成会、軍人歓送式など国の富国強兵策に巻き込まれていった。
 日本のカトリック教会は、昭和14年に採決された宗教団体法の制定により「日本天主公教教団」となり軍と官憲からさまざまな形で弾圧を受けた。
 

江袋、赤波江、竹谷の家族 昭和16年

 こうした不安定な社会情勢の中でも畑中師は第2回目の女子伝道士養成を始めた。畑中師の指導のもとに、教師は修道院の真浦シオであった。
それまで仲知伝道学校の教師を務めていた濱口種蔵氏は仲知国民学校男子職員出征の欠員を補うため、昭和16年より同校職員となった。
また、畑中師は昭和17年、身寄りのない老人たちのため「養老院」の仕事を仲知修道院に委ねた。

託児所の設立

 労働力であった若者や父親は出征し、若い女性も報国隊員として軍需工場などに徴用される。
大切な食糧増産と、銃後の護りは母親と老人にしわ寄せされた。畑中師は国の奨励に基づいて託児所の設立に踏み切った。

 この託児所の設立により、仲知地区の母親たちは1日中安心して畑仕事に精出すことが出来るようになった。しかし、生きるために一生懸命働いたとしても、その収穫したものの多くは芋であれ、カンコロであれ、麦であれお国のために供出しなければならない時代であった。
 
仲知で司牧された頃の畑中栄松師

 託児所といっても、今日のように建物や遊具が揃っていたわけではない。畑中師が仲知地区の子供たちを集め、旧教会下の空き地で遊ばせたのである。伝道学校の生徒が勉強の合間に一緒に遊ぶといった程度のものであった。伝道学校が終了した後は、その建物を託児所として使用した。
 
仲知託児所時代の協力者 右端 濱口種蔵氏、後列右 
瀬戸ユキエさん(「仲知修道院100年の歩み」より
畑中栄松師、旧司祭館前で 「仲知修道院100年の歩み」より

 昭和20年4月、畑中師が教会奉仕のため長崎の純心高校で学ばせ、仲知小学校で教師を務めていた江袋教会出身の瀬戸ユクエさんと修道院の真浦タシさんが託児所の子供たちの世話をした。
教会下の空き地には、ブランコが2基設けられていただけである。
伝道学校の建物の中には、古いオルガンと蓄音機があった。瀬戸ユクエさんは、小学校の先生をしていた体験もあり、子供たちの保育、宗教教育は行き届いていた。 

お告げのマリア修道会
「仲知修道院100年の歩み」参照
 仲知教会建設計画
 畑中師が着任した昭和15年頃の仲知教会はすでに老朽化がすすみ、建物の中心部までシロアリの被害を受けるなど教会として用いるのに限界がきていた。文字通りの破れ御堂であった。

 前任者の岩永師のときにはすでに梅雨期になると床下に水が池のようにたまってしまい、それが蛙のかっこうの生息地になっていたし、穴の開いた屋根からの雨漏りのときにはバケツと雑巾とが必需品になっていた。

 あるときは屋根瓦の補修工事をしていた信徒の大工が修理の途中屋根から落下して負傷するという事故も発生した。幸いそのときは軽い打撲ですんで事なきをえたけれども 、この事故を機に信徒の間でも教会建設の気運がいっそう高くなった。
 

 このような状況からして仲知教会信徒総代真浦栄次郎、山添忠五郎、久志庄吉、それに仲知教会村会議員前田修一郎らは主任司祭畑中師と相談して教会建設が急務であることを再確認した。

 とりあえず、畑中師は新しく造る教会の敷地を確保するため教会の前庭を拡張して整地する計画をたて、速達実行に移された。

 畑中師から昭和16年に堅信を受けた久志フジさん(71)によれば、この整地造りには宿老や一般の信徒だけでなく、堅信が済んだばかりの生徒たちもしばしば駆り出されて労力奉仕をさせられた、ということである。

 そのころ、北魚目村村長中本文平氏より仲知教会改築工事のためなら、一本松にある村有林を無償で提供しても良いとの申し出があった。この村当局の予期せぬご好意に畑中師も信徒も喜び、協議の結果、伐採するのに何週間かかろうとも業者には依頼しないで信徒の労働奉仕によって松の木を伐採し坑木として売り、その資金は全額建設資金に充当するがよいと思った。

 しかし、その後、日に日に戦時体制が強化され、労働力であった若者や父親たちはもちろんのこと、教会建設にあたり建設委員として中心的な役割を担っていた前田修一郎ら教会の役員も出征することを余儀なくされ、この労働奉仕のことも教会新築工事のことも中断せざるをえなくなった。

 その頃、畑中師は単なる思い付きだったのか、それとも彼なりによく熟慮してのことであったのか、確かなことはわかっていないけれども、仲知教会建設の件について大変なことが発生した。
 畑中師は巡回教会の江袋教会を解体し、仲知に移転する大胆な案を計画された。
 
 この主任司祭の無謀ともいえる提案はもちろん江袋の信徒にとっては寝耳に水のことであったばかりでなく、信徒全員が反対であった。それでも素直な江袋の信徒たちは主任司祭からの提案であることを重く受け止め、主任司祭の意に添えないことに心を痛めながら日夜協議した。

 ある時は青砂ヶ浦教会まで出向き 、上五島地区の責任者であった梅木兵蔵神父様や夏休みで帰郷していた前田朴神父様にも相談に乗ってもらったが、二人の神父様も主任司祭と良く話し合うようにとのことではっきりとした返事はいただけなかった。

 しかし、談合を重ねれば重ねるほど反対の機運が高まっていった。江袋の祖父たちが苦心惨憺してやっと築き、現在も信徒にとっては心の宝であるこの教会をたとえ主任神父様の命令とはいえども、この提案にだけはいかにしても賛同できないとの意見で一致し、神父様との不仲を覚悟で反対を押しきることにし、宿老がその旨を師に伝えることにした。

 江袋教会の信徒の反対を聞いた師は信徒の意見を尊重し教会移転の話はなかったことにして下さった。
 

 
 信仰教育に熱心であった畑中師
 畑中師は信仰教育、特に子供の教育については熱心な方で、学校にまで出かけて授業参観されるほどであった。信仰的な面も学校教育についても関心を持ち、その指導は戦時下にあったこともあってスパルタ式の教育方針で非常に厳しかった。
 
畑中師の時に初聖体の恵みを受けた仲知の子供たち

 仲知小教区の各集落には師から厳しくしつけられて初聖体と堅信を受けた信徒が多い。彼らが異口同音に話すこと は「その指導は厳格一点張りであった」ということである。
ではその指導はどのように厳しかったのだろうか。それを知るためにはやはり厳しい指導を受けた体験を持つ信徒の口から語ってもらう事に尽きる。

赤波江教会出身で現在は江袋に居住している尾上フサさん(昭和8年生まれ)は初聖体を畑中師から昭和16年8月26日、仲知教会で同級生の19人と一緒に授かった。
 仲知尋常小学校に入学すると、すぐ初聖体のための2年間の稽古が始まったが、その稽古の指導は赤波江教会の教え方をしていた川端ソノから毎日夕方同教会の倶楽部でしていただいた。
 長かった準備期間が終わり、いよいよ初聖体式が近づくと今度は仲知教会で畑中師から要理の試験を受けたという。
 
 畑中師は幼い子供に尋ねた。
 「イエズスさまを愛するにはどうすればよいですか。」
 どのように答えればよいのか困っていると、すぐ側に付き添っていた真浦スイ(当時仲知の教え方をしていた)が耳元で優しくささやいて教えてくれたのでその通り答えた。 
「イエズスさまを愛するとはイエズスさまを喜ばせることです。 」

 次の司祭の質問は
 「イエズス様とあなたが初聖体のため準備している晴れ着とはどちらが大切ですか。」 であった。この質問にはすぐ返事をして「イエズス様が大切です」と答えることが出来たが、司祭が「それなら今すぐ家に帰って晴れ着を持って来るように」と命じられた。

 すると、友達は試験を受けているのに幼い少女は命令されるままに赤波江までの2キロの山道を急ぎ、晴れ着を持って来て神父様に渡した。

 江袋の同級生の子も同じことを命じられ、3キロもある家路を往復し持参してきた上着を恐る恐る渡したところ「この服は昨日着ていた服だろう。もう少し上等の服は持たないのか」と言われた。
実は、その頃は食料品だけでなく、衣類も乏しく毎日同じ服を着ていたのである。
 
初聖体記念 昭和30年ごろの米山教会の子供達
左端の方は初聖体のけいこを担当された米山教会の教え方

  編者の賄いとして仲知教会に奉仕している真浦キヌエシスターが丁度このページの作成をしている時(平成13年4月5日)に畑中師から教えられたことの一つとして次のような面白い話を教えてくださった。

 仲知教会で堅信の準備をしている生徒に筆記試験が行われた時のことであるそうですが、試験問題に「花を見てどう思うか」の質問と「小鳥を見てどう思うか」との質問があった。答えは「花のように美しく生きる」と「小鳥のようにいつも朗らかに明るく生きて神を称える」であったそうですが、正解の生徒は少なかったそうです。


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