パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年
(3)、親から受けた信仰の躾
  中山(濱口)ミスノ

  お父さん!今どうしていますか?逢いたいです。お父さんと話がしたいです。天国で何十年振りに懐かしの両親に会って、この世での出来事を、97年間生きて来た人生の話を、たどりながら会話してますか?ピアノやオルガンもありますか?"娘よ"も歌って聴かせてますか?そんな様子を、お手紙欲しいです。お父さんからの手紙は独特で様子が手に取るようにわかるので楽しみの一つだったよ。

 亡くなって九ヶ月になろうとしています。"居ない"という現実に少し慣れて来た所です。お父さんへの感謝の思いは日増しに深くなってます。愛情いっぱいで育てていただき本当にありがとう!どんなにお礼を言っても言い尽くせないです。口数こそ少ないけれど、生活の中で行動で教えて下さった。一つ一つが愛そのものでしたね。黙って示す、と言う所が何倍もの価値があったような気がします。お父さんを悲しませてはいけない、という思いが子供心によけいに働いたものです。

 いつもどんな時も冷静で優しい眼ざしで周りの人誰にでも平等に接する姿勢は私の大事な遺産としてずっと子供達にも伝えて行きたいと思ってますよ。まだ生きていてくれそうだったのであまりお礼は言ってないけど 、これまでの恩返しのつもりで心から看病させていただきました。お父さんありがとう!「人の為に出来る事は進んでしてやるもんゾー」とよく言っていたね。
 
バチカン駐日大使ガスパル大司教仲知小教区訪問
大使に仲知小教区の信徒を代表して歓迎の挨拶をする濱口氏

 "第四なんじ父母を敬うべし"そしてここに忘れてはならない大切な母がいました。目覚し時計にも劣らない「早よう起きろー」(今思うとびっくりするくらいの命令形、これが普段のことばだったから仕方ない)と早朝のミサから始まって(冬の暗い時は特に辛かった)祈り、祈りに明け暮れる。三度の食事よりも、私達子供よりも祈りが好きだったのでは?と思いたくなるくらいそれはそれはまるで厳しい公教要理の先生、82才の今だにその熱い炎は燃え続けています。

 夕の祈り眠くて眠くて舟をこぎたくなる、八ッ!と我に返り眠らない振りをして口先だけでリズムに乗る。子供心に「あー祈りはいやだ!」と思うが恐い一心でお義理で済ませる。ある時は永久礼拝にと親子ゾロゾロ連れだって夜道を歩く 、シーンと静まり返った教会はうちの家族で貸切り、祈りの合掌、でも終わった時の爽快感。
 
 

 その祈りの苦しみ?を乗り越えたのか(母のおかげというものか)小学高学年の頃修道院に志願したくなる。祈る姿がとても美しく、大好きになった時機、二人の姉は行ったのに「何で・・・私も行く!」と真剣にお願いした。残るは幼い妹、弟"両親はどうなるのだろう"と後ろ髪引かれる思いもあった。その約束の夏休み、迎えに来られる筈のシスターが何かの事情で来れなくなりとうとう断念。神様がいいように取り計って下さったのだろう、今でも思う結果的にはよかったのではと。「悪い事したらどこからでも神様は見てる」とよく母に言われ五十路の今に至るまでこびりついてますよ。子供の頃両親に教わったように 、気づいたら自分も我が子にそのまま強いて来たように思う、どれぐらい通じているだろうか。

 保育園時代初聖体の準備期間リハーサルで聖堂へ向かう、嬉しさ、本番さながらの緊張感、新鮮さ、宗教心の芽生え。西田神父様の髪は天然だったのものか、パーマを当ててらしたものか、チュルチュルの前髪と黒縁のメガネが印象的でしたね。
 
初聖体 昭和38年

小学高学年の頃、けいこの帰り道(旧教会上の坂道)、そこに榎の木の細長い枝が"どうぞお乗り下さい"とばかりに横たわっている。一学年上のAさんSさん三人で歌を歌う楽しい一時、そこで下の教会の方でお聞きあそばしていた田中千代吉神父様から"めでたし百回"と罰なるものをちょうだいした事(何で罰をもらったのか今でもよくわからない)、あの木は現在どうなっているものやら。

 学期の終りには宝物の通知表を提出させられてた事(これも何の為だったのでしょう)、落花生の収穫時期ともなると塩味の程よくきいたゆがいたものを大勢の子供達にふるまう太腹、どなたがゆがいて下さったんだろうお礼が言いたい。あの味が懐かしく時々我が家の食卓にも乗っている。

 そういう楽しい行事、教会を好きにさせる田中神父様スマイルだったのでしょう。♪私達は魚のよう神様の愛の中でおよぐ♪私達にとってきっと神様のような存在だったのかもしれない。中学生となり讃美歌のレッスンで事ある度に夜な夜な教会へ通った。それはテキパキと熱意あふれた陽子先生のご指導のおかげで暗記する事も出来た。

 今でもラテン語の歌をさりげなく口ずさんでいるのもご指導のおかげ、私のただ一つの夫に自慢できるかくし芸のようなもの。クリスマスソングの♪ときしもーふ〜ゆーのさあむきよーに♪あんな心打つような懐かしい響きの歌を今もごミサの中でききたい。こんな素晴らしい故郷仲知という環境、両親、すべてのものに感謝しながら、父の追悼の意味も込めてペンを置きます。そして、こんな時間を与えて下さった下口神父様に心から感謝します。

(4)、父を偲ぶ 宮崎カリタス会修道女 濱口ルシア
 

 下口神父様
クリスマスおめでとうございます。
お元気でいらっしゃいますか。

 父濱口種蔵が天国へ旅立って3ヵ月過ぎましたが、その節はご多忙の中を、また、9月のあの暑い中をわざわざ東長崎までいらして下さってお別れのミサを共に捧げていただき、また父の愛する古里仲知ではあのような真心こもる追悼ミサを身に余る神父様のお悔やみのお言葉までいただきまして本当に有難うございました。
家族一同心より感謝申し上げます。

 生前大変お世話になりました。見舞っていただいたりご聖体や病人の秘跡を授けていただいたり父にとって何よりそれが喜びだったこと励まされたことと思います。
「仲知小教区史」にも父のことを沢山載せて頂いているのに父はもうそんなことも興味も示さないで(数年前はどんな事も心から興味を示し心から喜びどんな事も感謝していたのに・・・・自分の文章を載せていただいている個所でも目を通して欲しかったのに・・・・そしたらどんな反応、感謝の言葉が返ってくるか楽しみだったのに・・・・)目がかすんであまり文字が見えなかったのかもしれません。

 2年前(1998年)の正月は外泊し「娘よ」と「北国の春」とをピアノを弾きながら歌ってとても元気で過ごし、去年(1999年)の夏も外泊し、その時はピアノは弾かないで「娘よ」の歌を歌いましたが、小康状態で夜中に私が目覚めた時何か遺言のようなことを小声で目を閉じたまま言っておりました。

 「お父さんはこうやってみんなにいろいろお世話になって本当に有難う。総て神様に感謝していていかんばねー子供達も各々社会人として一生懸命に勤めているし、総て神様に感謝していかんばねー」と私は父の側に直ぐ行って涙を押さえながら「お父さんは若し死んだら天国だよね」と言ったら「お父さんは天国のためだけに今まで一生懸命に生きて来たんだから、天国へ行かんば―。」と即返事が返ってきました。目は閉じていたけどきっと外泊の嬉しさで眠っていなかったのかもしれません。そして、死の準備と感謝をいつもしていたように思います。
 
仲知出身島本大司教さまを囲んで記念写真、前列左から二人目が本人・宮崎カリタス会シスターの濱口ルシア

 長崎での葬儀は知人もあまりいないから家族だけの葬儀でしょうと思ってたのに、 遠くからわざわざ別れにいらして下さり島本大司教様を始め前長崎市長の本島等様までいらして下さり、夢のようで仲知では父のお世話になった方々ばかりで暑い中を大勢の皆様に祈っていただき幸せ一杯で天国へ送っていただいて本当に思いで深い葬儀ミサでした。
 老いていく寂しさを黙って祈りながら受け入れて暮らしていた父がこんなこと夢にも思っていなかったでしょうに、この場をみんなの愛を見せてあげたかったかと思うと父のすなおに喜ぶあの笑顔が浮かんで涙がとめどなく流れどうしょうもなかったけど、神父様やみなみなさまの祈ってくださる歌声や一生懸命尽くしてくださるその大きな愛、思いやりがとても嬉しく2000年と いう大聖年の大きなお恵みだったと皆様お一人お一人に感謝の毎日です。

 父はいつも貧しく暮らし、何も出来なかったけど、神と人を心から愛し、神様や周りの人に支えられていることを感謝していました。

 亡き父に代わり改めて御礼申し上げます。
本当に有難うございました。
尚、平成12年12月27日はいよいよ納骨でまた神父様にお世話になります。どうぞよろしくお願いします。
では寒さに向かう折からお体を大切のお過ごしくださいませ。
喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます。
神父様にはどうぞよい新年をお過ごし下さい。

 
2000年12月21日
濱口ルシア
レモン色の学窓
   仲知出身 島本 要 浦和司教
 
 小学校4年生の時である。
僕ともう3人、掃除当番であった。その頃は悪い盛りで、奇想天外の悪知恵のひらめく年齢であった。その日もそうであった。箒で床を念入に拭いて、雑巾で水拭きする代わりに、箒と拭きを同時にやって、短時間で、簡単に要領よく、ことを片付けようという虫のよい考えが浮かんだ。

 「オイ、バケツに水を汲んで来い」。偉そうに命令したのはこの僕である。バケツの水を思い切り、力一杯、床面に投げるようにふ りまくと、水は机の下を流れて四方に広がっていった。「もう1バケツ」、「もう2バケツ」・・・・・・次から次流される水で、教室は一面水浸しになった。机を全部片方に寄せて箒で水浸しの床面をは掃くと、灰色に汚れた水は、教壇、板張りの古い壁、北風にも西風にもガタガタと共鳴する窓ガラスに容赦なく飛沫をあげて、コンクリートの廊下へ流れていった。

 たまたまそこを通りかかった島ノ首の喜代松と喜代美さんの2人が僕たちの仕業を見て「また、この掃除の仕方よ」と言いながら、あっけにとられ、首をかしげてしばらく眺めていた。恥ずかしかった!。水浸しの床面はなかなか乾いてはくれなかった。必死に雑巾で拭き取ってみたが及ばない。おまけに、壁も窓も教壇もとばっちりの垢で泥泥・・・・・。
 
旧仲知小中学校校舎
現在の仲知小学校

 消火訓練ならともかく、誰が見ても掃除したとは言えない奇矯。それでも、廊下を通りかかった濱口種蔵先生を見つけて、「先生、掃除は終わりました。検閲をお願いします」と言えたのだから、あつかましい限りである。濱口先生は、泥だらけの四面の壁と床板の間に光る水を見て、当惑していた様子だった。「よっぽろ涼しかろだいれ」。これが先生の口から出た言葉であった。

 教室を一巡された先生は、恐々と立ち並んでいる僕たちを眺められた。とばちりで汚れた僕たちの顔・・・汚れた着物をさらに汚して平気で着ているなまいきな僕たち・・・・・。「帰ってよろしい」先生のお言葉は弥蛇のそれのように有難く嬉しい一言であった。それでも、学校を後に家路についた時の心情は謝罪のそれであった。僕の働いた悪事を赦して下さった先生に対する謝罪の気持ちである。「先生、すみません」。口には出せなかったけれど、その気持ちは未だに変わっていない。

 恩師濱口先生で思い出すことがもう一つある。それは小学6年生の国語の時間での事である。小テストのため、真浦アヤノさんと山添キセさん、それに僕が黒板の前に呼び出された。「皆さんの方へ向きなさい」。処刑台でも眺めるかの様に、皆の目は僕たちに注がれていた。ニヤニヤした顔、当てられなくて良かったとホッと安心した顔、噛みつくような鋭い顔。顔の展示会のようであった。

 その間、先生は問題を探すため、本のページをめくっていた。『張りつめた氷』と書きなさい」と言う先生の一声に、僕たち3人はすぐ黒板に向かい、問題の語句を板書し始めた。「何だ、簡単じゃないか」と思って、チョークを取り、「張りつ」まで書くと、先へ進めなくなった。「め」の字を忘れたのである。いろいろと書いてみたが、なかなか「め」の字にならない。あれこれあてずっぽに書いては消し、消しては書いているうちに、冷や汗が出て来た。焦る。しかし、どんなに焦っても「め」の字は脳裏に浮かんでこない。優秀な二人の女史は 、はやばやと自席に戻っている。それでまた一層焦る。とうとう「め」の字が書けなかった。あきれかえった先生にこっぴどく叱られた。
 その時以来、正確に学ぶことの大切さをいつも痛感している。

「ちゅうち」 仲知小学校百周年記念誌より
 
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