パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


私たちの郷土について

  
濱口種蔵氏
 
プロフィール
1903(明治36)年1月10日 濱口勇吉とセツの3男として江袋に生まれる。
1915(大正4)年4月 仲知尋常小学校卒業

1915(大正4)年5月
仲知小教区永田徳市主任司祭の賄いとして教会奉仕者となる
1921(大正10)年 トラピスト修道会(北海道)に入会
1936(昭和11)年 仲知小教区主任司祭岩永静雄師に雇われて仲知伝道学校の教師となる。
1939(昭和14)年 仲知尋常小学校の教師となる
1939(昭和14)年7月2日 瀬戸脇教会出身の瀬戸ナセさんと結婚し男の子4人と女の子4人に恵まれる。
1948(昭和23)年 仲知小教区信徒使徒職会長となる
1976(昭和51)年 仲知、江袋、赤波江集落の老人クラブ会長となる
氏は常に仲知小教区の中枢にあって、歴代の主任司祭の右腕となり、その司牧に協力された。また、長年にわたり、信徒のリーダーとしてその信仰育成に力を注がれた。
氏の人生哲学のモットーは、「心だに誠の道にかないなば祈らずとも神守らん」。

  

 校長先生と三宅先生から昔の話をしてくれませんかと申されましたが、私如き老いぼれで、訥弁な者が、と戸惑いましたが、お偉い方々がおっしゃる事は聞くべきだと思って話してみることにしました。
 昔の話をするためには、私が歩いてきた道を言わねば年代がわかりませんので、今から80年前の事から始めます。
 私は、明治36年1月10日、江袋で生まれて満88歳になりました。88から80を引きますと8が残ります。8歳といえば1、2年生からの話です。

 江袋から通学するためには、江袋のあの杉の木のある谷を登って約15分で仲知の見える峠にたどり着きます。
 
 

平成10年11月、江袋峠から撮った写真

そこから島の首に下ります。中間の「吉爺向」を通って島の首の大川まで下り、大川を渡って島の首集落を通り島の首峠にある小学校に着き ます。学校は島ノ首下集落から真浦に行く本通り出入口にありました。
 

 話は前に戻りまして、一年生になった時は、石筆、石板を買ってもらいます。そして、修身の本と読み方の本とをカバンではなく、風呂敷きに包んで肩から脇にかけて走ります。足は今のように靴はなく、雨の日も雪の日も足中草履を履いて、雨の日は傘ではなくドンザをかぶって通ったものです。

 こうして5年生まで島の首の学校へ通いました。
 1、2年生は、午前中で終わり、午後は3年生以上が勉強していました。
 その当時は、ラジオ体操も運動会もなく、遠足には運動場より広い江袋の浜の田へ行って陣取り合戦をしたものです。先生は犬塚校長先生と言って奈留島の船森の方でした。女の先生は中野ツルという方で裁縫を教えていました。その当時、男女の先生は袂着物に袴をはいていました。

 6年生になって久志の新校舎に 移りました。
 この時、二代目の校長江頭源治先生と原忠右エ門先生、西村イク先生ともう一人女の先生計4人の先生がおられました。この時から体操も学芸会も運動会もやるようになりました。

 それから三代目の校長川崎龍一先生になり、この校長先生は20年仲知学校に勤めたので、同窓生一同が記念碑を建立したものです。
この校長先生は地区内で貧困のため税金を納める事の出来ない人には、代わって納めてくれたそうです。

 それから私は6年卒業後、神父の賄いをして居りましたが、18歳になって北海道のトラピスト修道院へ行きました。一寸脇道にそれますが、修道院での生活を話したいと思います。
 
何百年の伝統をほこる精進料理(トラピストのクリスマス)

 修道院では昔の旧制中学5年に入りました。中学の時には良い先生に恵まれました。というのは、その当時の北原白秋作曲の「夕焼け小やけの赤トンボ」の作詞家三木露風先生から教えられました。そして、中学5年を終了しますと修練期2年を始めます。

 この2年は、ラテン語で聖書の研究、聖歌の練習、希望者はオルガンの稽古、運動はフランス人が多かったのでテニスだけ でした。修練期2年を終えたら哲学2年に入り、哲学2年を終了したら、4年の神学に入り、勉強科目はこれで終わることになっていました。

 その当時、日本は今から70年前の事ですから電気がすみずみまで行き届いていなかったので、朝夕の勉強はランプのしたでしていました。そのせいか近眼になり、神経衰弱に悩まされ10年間は、冬でも氷の水で冷水摩擦をしたものです。

 冷水摩擦をすると、1、2時間は頭がすっきりとなり、良く勉強ができました。その次には又、声が出なくなって歌うことが出来ませんでした。

 修道院では、朝夕の祈りでも、全部歌に なっていました。私は、オルガン係でしたから歌わなくてオルガンだけで良さそうなものですが、一生涯、その生活では勤まらないと言うことで修道生活13年を後にして、古里江袋へ帰りました。

 そして、保養していた時、時の主任神父から伝道学校を始めるので、教師をしてくれと
言われました。

 伝道学校は男子2年で終了、女子も同じく2年でした。それが終わると今度は、小学校校長の山口才蔵先生から要請されて学校の教師としてお世話になりました。時は、昭和14年で、戦時中でした。

 その当時、学校には師範卒業の男の先生もおられましたが、招集令状がきて、赤いタスキで学校から出征されました。しかし、戦死して帰らぬ人となりました。それから、校長先生と私との2人っきりで運動会をしたこともありました。
 
昔の仲知小中学校

 運動会では手旗信号といって日の丸の旗を両手に持ってイロハニホヘトと書くのです。女子は薙刀、婦人は竹槍を持って敵を刺し殺すなどの体操をしたものです。

 何時までも忘れ得ない思い出は、アメリカのB29の飛行機が小島の沖にいる発動船を機銃器で狙い撃ちして、火災をおこして沈めたあと、今度は学校の上空まで旋回して来た時のあの恐ろしさ。

 穎川校長先生が、運動場から「全員、廊下に伏せよ」と叫んだ、あの声。児童生徒を死にもの狂いで山へ避難させたことなどが思い出されます。
その年には運動場を普通の野原と思わせるために芋畑にして一面を青々とした草原に変えたりもしました。

 戦時中は増産ぞうさんで勉強どころではなく働けはたらけの時代でした。夏休みの一ヶ月間は各学校から一人の先生が青年たちを引き連れて、福岡県の折尾の炭坑へ働きにでました。当時は、アメリカの捕虜も数人働かされていました。
坑内に入るときは天皇陛下の写真に向かって最敬礼をさせられていました。

 ある日、その捕虜の一人が逃げだして皆で捜し歩いたこともありました。
 福江島の本山に飛行場が出来るとかでその高等科生たちを連れて作業に行ったこともありました。

 このようにして私は、17年学校に奉職して 定年で退職しました。この17年間に高等科が設置され、さらに国民学校と改名されて終戦後、新制中学に変わり、生徒数も増加してそれまでの複式授業から単式授業に なり、それに応じて先生も暫時補強されて生徒数200名になったこともあります。校歌もそれまで100の健児と歌われた歌詞が200の健児と歌われたものです。

 校歌で思い出すことは、川崎龍一先生の頃出来たものですが、作詞は永田徳市神父様で作曲者が不明で、歌い方も色々あって、ハ調か、ヘ調か、書いた音符がないので困り果てて、へ調として書いてみました。その後、校歌を聞くたびに昔が懐かしく、又、あれで良かったのかと不安を感じることもあります。

 200名の健児で、又、脇道に入りました が、終戦後は勉強一筋になり、研究授業、学芸会、運動会などには北魚目学校、津和崎学校の3校は、行ったり来たりで励まし合ったものですが、仲知学校が嫌われた点は、交通不便であったこと、 電気がなかった事、この久志 は秋になれば水不足で、夜中水汲みする事などで、仲知学校に転任辞令を受けて辞められて行った女の先生もいました。
 

 水不足で学校の掃除も、海水を汲んでしたこともありました。私が辞めた翌年仲知郷の会長を持たせられ、365日毎日水道の仕事と電気の仕事に出ていました。と言うのは、仲知区域の江袋から竹谷まで水道が通る道に鉄管を埋めるので鍬で掘り起こしていました。今のようにブルドーザーはなく、郷民皆、奉仕作業でした。

 同じその年、大瀬良から竹谷までの電信柱を運んで建てなければならなかった。今のように運搬車はなく、船から積んで来たのを人力で運ぶのです。でもこの2つの仕事が一年で完成して、今まで不自由であったのが、明るい世界となったのが昭和33年でした。

次に進学について

 仲知校からは、交通不便か何かの原因で進学者が少なく、上五島校が出来るまではほとんど居ませんでした。上五島校が出来てから男子一人、女子一人、長崎海星校に4人でしたが、その後、だんだん多くなり、バスが通うようになった今日では、他の学校なみに進学するようになったことは、先生方のたゆまざるご指導の賜物と皆様のご努力の結果だと思います。

 努力と言えば、本島等長崎市長さんのことを一言申し上げます。本島市長さんは、江袋出身でこの仲知小学校を卒業され、仲知校に高等科がなかったため江袋から毎日山道を歩き北魚目校に通学されました。

 それから長崎へ出て、自分で働いて高校を終えられ、それから京都へ行きました。大学を努力に努力、 苦労に苦労を重ねながら自活して卒業されました。勿論、親の励ましもあったと思います。 母親は集落から選抜されて青砂ヶ浦の伝道学校を3年で卒業されて、江袋の教え方となりました。 その指導力は抜群でした。私も鍛えられまして初聖体、堅信をその時授かりました。

もう一人、島本要大司教様を紹介します。

 大司教様は昭和18年、仲知国民学校卒業生で、その当時は極小さかったので、 大きい同級生からげんこつをやられてもじっと我慢強い児童でした。

 小学校を卒業すると、戦時中でしたが福岡の神学校へ進学されました。そこで中学、高校、そして、上智大学へ進み、ローマ留学、プロパガンダ大学で学び司祭叙階を果たされました。 それから更に、ラテラン大学で勉学されて法学博士を取得されました。 次にローマ法王庁外交官大学へと進まれやがて終了しました。その後は、 ヴァチカン市国大使館としてインド、キューバ、ブラジルにおいて活躍していましたが、 やっと20年ぶりに帰国しました。帰国後は横浜神学校校長並びに浦和教区長を10年歴任されました。

 そして、故郷の長崎教区に大司教 として着座。何と45年ぶりの帰省であった。
 
仲知小学校生徒、島本司教様と一緒に定置網体験
写真は二枚とも「仲知中学校閉校記念誌」より

島本大司教様は20年の長い留学生活、幾多の試練を乗り越えての長旅でした。 その結晶として大司教の栄冠に輝いたのでございます。思えば、私が6年の担任をしていたときの島本君は、 もちろん、学業、操行それほど驚くほどの才能があったわけではありません。天才でもありませんでした。 島本君の今日の栄光はご自分のたゆまざる努力と熱意から生まれた結晶だったのです。

 こうして田舎の仲知小学校であっても、このような立派な人物が生まれました。 皆さんも頑張って立派な人間、立派な社会人に育ってください。
「努力に優る天才なし」心から皆さんの成長をお祈りして私のまとまりのない話を終わります。

平成3年2月16日 土曜日
仲知中学校 美術室にて
「仲知小教区史」より
 
インド・ヴァチカン大使館に勤務されていた島本要師(1969年頃)

 

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