パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


 
(3)、神学生

 平成13年2月28日、大水教会の歴史について調査するため、春一番の強風の中大水教会信徒大水ミエ(77)さん宅を訪問した。
今回の訪問は最初の訪問でこれから続けて幾人かの信徒を訪問する計画を立てているが、最初の訪問として大水ミエさん宅を訪問したのは彼女の次男大水愛(54)氏が私の小神学生時代の下級生であったからである。

以下の話はその時の訪問でミエさんから聞いた話しの要約である。
 
大水ミエさんの隠居は教会のすぐ近くにある。

 「畑中師時代の大水教会の宿老は彼女の父の大水金助であった。畑中師はその父と家族ぐるみで親しく交際していた。師は大水に炊事役の妹・畑中ハツエを同行させて巡回すると、私の父を「おんじ、おんじ」と呼んで教会の直ぐ近くにあった私の実家を訪問して下さったし、神父様が訪問しない時は父が家に招待し、家族の者にも司祭館にいるときのようにきやすく、打ち解けてくださっていた。

 そんな親しい交わりの中で昭和19年4月、弟の大水武、大水悟、それに仲知出身の島本要の3人は畑中師より勧誘されて教区の神学生として長崎の神学校へ入学するようになった。

 3人の神学生志願者が仲知より長崎へ派遣される時には夫・大水要助は主任司祭の畑中師に依頼されて長崎へ3人を連れて行った。その時のことだろうと思うが、要助は相浦港から佐世保駅の方へ3人の神学生志願者と荷物を背負いながら歩いていると、島本要志願者がかなり遅れ始めたのでやや心配し「要、もう少し遅れないように速く歩いてついて来なさい」と叱ったことがあるそうです。その頃の要神学生は落ち着いて堂々としていたという。その後、時々近い親戚の要助の家に遊びに来て宿泊することがあった。

 弟の大水武神学生は大神学校へと進級したが、間もなく肺結核を病み、新田原にあった病院で治療に専念していたが昭和28年病死した。

青砂ヶ浦教会の神学生・尾上金助(現・水の浦教会主任司祭)は仲知の神学生の3人と同級生であったから、夏休みなどの休暇の時には大水武の家に寄って一泊してから青砂ヶ浦の実家に帰っていた。

 昭和60年遠洋巻き網船に乗っていた息子・大水武信がローラに巻き込まれて大事故をおこし、緊急にヘリコプターで福江病院へ運ばれて以来、1年ばかり入院していた時のことである。

 誰から聞きつけたのか、ひょっこり畑中師が面会に現れ「あら、めずらしかね、昔はあなたのお父さんたちにお世話になったことを今も忘れんとよ」と言った。そして、暇の時に「この本を読みなさい」と言って信心書をプレゼントして下さったそうである。師はその頃井持浦教会の主任司祭をしていたが、教会建設で忙しい時であった。
 

さいくり神父

 畑中師は教育熱心で信徒の信仰生活だけでなく、学校や家庭での生活一般についても細かく隅々まで具体的に指導していた。だから、信徒からはいつしか「さいくり神父」とあだ名をつけられてうるさがられていた面があった。

 しかし、親の気持ち子知らずで神父様のほうではあらゆる情熱を傾けて素朴な信徒の信仰心をさらに鍛え上げて、もっともっと成長させ進歩させたい、そして、世の光となる信仰共同体を形成したい、させたいとの理想と意欲とに充ち満ちていた。

 このような教育方針をもって司牧活動をしておられたからこそ信徒を厳しく指導したし、また、一方この司牧理念を効果的に実行するために自ら仲知国民学校を訪問するだけでなく、自宅である司祭館に歴代の校長先生方をたびたび招待して親睦を図りながら熱心な教育談義をなさっていた。

 師の在任中の仲知国民学校の校長先生は切江八太郎氏、川上郷助氏、顕原重雄氏の3人であったが、3人とも師は親しく付き合い教育をテーマにしてよく議論をしておられたという。
昭和19年6月から昭和22年3月まで仲知国民学校の校長をしていた顕原重雄氏は昭和54年4月発行された「仲知小学校設立百周年記念誌」の中で仲知校での「思い出」の中で畑中師に触れ、次のように語っている。

 「私が仲知校に転勤したのは昭和19年畑中神父様がいられる頃であった。私は北魚目にいた時から度々お目にかかったことがあり、『仲知校は日本でただ一つ全校生徒カトリックの生徒だと言われている。この特性を子供たちに自覚させ自信と誇りを持たせたい』、などと言って神父様のご意見を聞いたりしていた。・・・・」

 信徒の心得
 
 さて、さいくり神父はどのように信徒の生活にさいくりをしたのだろうか。仲知のことなら百科事典と呼ばれているタシシスターの話を私なりに当時の教会の状況を考慮しながら箇条書きにまとめてみた。
 
仲知小教区 聖母行列

1、秘跡の生活

 主日と守るべき祝日には仕事を休み必ずミサ聖祭に与り神への感謝と賛美をしてその日を祝いなさい。

2、祈りの生活

 祈りは神と人間との対話である。人は祈りによって神と深く一致できる。だから、絶えず、いつも祈りなさい。
 朝は早めに朝の祈りを唱えてその一日を神に捧げなさい。夜には家族そろって夕の祈りを元気よく唱えその日受けた神の恵みを感謝し、罪を痛悔し神のお守りを願って休みなさい。

3、短い祈り(祈祷)の勧め

 「神よ、あなたに感謝いたします」
 「神よ、どうかお助けください」
 「神よ、どうかお許し下さい」
 「神よ、どうかお導きください」
 「私はイエズス様の子供です」
 「私は天国へ行きます」
 「私は神様を喜ばせる良い子になります」
 
 私は何処にいても何をしても神の現存の下に生きている、神によって生かされていると自分自身に言い聞かせてこのような簡単な祈りをいつも絶えず口にしなさい。そして、神様がおられる天を仰ぎなさい。そうすれば、かならず、神はあなたを守り導いてくださるし、心は神様と一つに結ばれているように感じられて心が平静になり気持ちも落ち着くであろう。

4、掟
 
 掟は神からあたえられている人の生きる道である。人はこれによって救いを全うし、神の栄光をあげることができるので熱心に掟を守ることが大切である。

神の最大の掟はすべてを超えて神を敬い、愛し、人を自分のように愛することである。
 従って、愛と親切をもって人に接し、人の幸福のために仕えカトリック信者として良い模範をしめさなければならない。

5、修徳の実践

 いつも修得を目指して頑張る。
そのためにイエス・キリストの模範を仰いで、その教えを良く学び、熱心に祈り、秘跡を度々受けるようにします。そして、辛いことは我慢して耐え、隣人の幸福のために自分を忘れて尽くすよう心がける。

6、究明

 毎日罪の究明を励行し、罪の機会を避け、誘惑に遭ったら神の御助けを願ってこれに打ち勝つように努める。そして、霊魂を鍛え強めるためには自分の力に頼まず、神に信頼し、度々赦しの秘跡と聖体の秘跡を受けます。

7、苦しみや不幸なことがあった時も、よく忍耐し、罪のつぐのいのため、あるいは人々の救いのためにそれを捧げるように努める。

その他、

 師は挨拶の励行、規則正しい生活、整理整頓にいたるまで指導した。
 たとえば、聖母月信心の後、祭壇の上にロザリオ、祈り本、公教要理の本などを並べて見せながら自ら実演し「夜になってコトボシ(照明器具)をつけなくてもすぐに必要な所持品を手にすることができるほどに普段から自分で責任を持って身の回りの整理整頓が出来るようになりなさい」と繰り返して指導していたという。

 
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