パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


大運動会

 畑中師の司牧期間の約5年間は、既に供述したように強力な戦時体制が敷かれ、人心の動揺、世相の不安が渦巻いていた。師はこのような社会的な状況のなかにこそ信徒相互の融和と親睦とを図ることに大きな意義があると考えて、仲知国民学校の運動場を借りて仲知小教区主催の大運動会を催された。

 運動会には大水から野首までのすべての集落の信徒が大人も子供も集まって開催されたので、運動場は選手と見物人で溢れ大いに盛り上がった。百科事典の真浦タシシスターはその時の幾つかの競技を今も覚えている。一つは各集落対抗のソロバン競争。瀬戸脇教会の会計をしていた瀬戸○○さんはソロバンが得意であったことから瀬戸脇の信徒を代表して選手に選ばれていた。見物人は彼がきっと一番になるだろうと予想して見学していた所、その時のソロバンが普段使っていない4つ玉であったので実力を出し切ることが出来ず途中でソロバンを投げ捨ててしまった。

 また、競技にはすべての集落(8集落)が参加して仮装行列が行われたが、その時に一番目立ったのは瀬戸脇教会の出し物であった。瀬戸脇の選手は派手な衣装を身に纏って当時流行していた「ジャガタラお春」を歌いながら思い思い踊りを披露、観客から拍手喝采を受けた。瀬戸脇集落は他の信徒集落に比べて信徒数はやや少なかったけれども当時の仲知小教区内の集落の中では経済的にも文化的にも進んでいる集落であると評価を受けていた。
 
   聖ヨハネ五島殉教400周年記念運動会

 それから女子青年を対象にした「常識競争」もあった。たとえば「お国の宝である3種の神器とは何ですか」という問いがあった。 一つ目の答えは神武天皇が大和の国を征伐するときの剣、二つ目の答えは天照オオミ神 が首飾りにしていた玉。三つ目は岩屋に入っている天照オオミ神に世の中に出てもらって暗い世の中を明るく平和にしていただくための鏡。この競技で優勝者は大水の女子青年であったが、当時はこのようにカトリックの運動会でさえも単に体育だけでなく、知能、知識を深め、国策を推進し、高揚させる競技が多かった。

 運動会で一番盛り上がった種目はなんといっても仮装行列である。各集落が競い合うように色とりどりの衣装を身につけての仮装行列で未だに伝説みたいに語り草になっているのは米山教会の山田伊勢松と山田好五朗コンビが演じた猿回し演技である。山田伊勢松は案内役で猿を演じたのが米山一の酒飲みであった山田好五朗である。衣装は猿の肌色の茶褐色に近い白木の皮で作った物を着用し、顔も赤紅色に染めての演技で本物の猿に少しも変わらない名演技であった。

 特に来賓席に来ると来賓の畑中師や校長先生方の机の上に猿のようにぴょっと飛び上がってきて 、来賓からもらったあめ玉の袋をむしって口にする所はまさに玄人肌の演技で、さすがの来賓も見物人も腹を抱えて大笑いとなった。その後、彼はこの名演技で猿おんじと呼ばれるようになった。
 
聖ヨハネ五島
同上

「仲知修道院100年の歩み」により簡単に畑中師の時代のお告げのマリア入会者を紹介しておきます。
昭和17年3月、マリア大水トミ入会
昭和17年8月、テレジア山添エイ子(19歳)入会
昭和18年4月、マリア竹谷ヤエ入会
昭和19年1月、マグラレ真浦アヤノ(13歳)入会
昭和19年10月、マルチナ井手淵タシ(14歳)入会

その他
宇野キエさん(74)の思い出
 

 米山教会の宇野キエさんは竹谷福一とタセの長女として昭和2年5月20日、米山に生まれる。父・福一は上五島村大曽から米山に養子として竹谷家に迎えられるが、米山では近くの山から燃料用の薪を切り出し伝馬船で小値賀まで運搬して売るという山師を職業としていたが、長女のキエが4歳の頃小値賀で流行っていた赤痢に感染してしまう。しばらくの間、米山の病院の別棟に隔離されて療養に努めていたが、その甲斐もなく死亡。

 まだ幼いキエは父の死後、仲知に住んでいた叔母谷中ミワの家に引き取られるようになったが、彼女にはそのとき何歳であったか分かっていなかった。
 ところが、ふとした出来事で5歳の時に叔母の家に引き取られたことが分かったのである。
それは次のような出来事であった。

 「彼女がミワ叔母の家に引き取られてからのキエの仕事は、叔母の長男谷中万吉と次男谷中裕次郎の子供の子の守であったが、次男谷中裕次郎の長男・谷中輝義が昭和11年3月6日、実家で生まれた時のことである。輝義の出産のために来た産婆が叔母に言った。「この家はいつ来ても履物がきれいに並んでいるだけでなく、部屋全体も隅々まできれいに掃除が行き届いているが、誰がしているのかね」と。「キエがしておるとよ。親がおらんとに、こがんことばさせてよかとじゃろ、5歳の時にここに来て6歳の時からこのようにしているのよ」と 。

 子の守番の彼女はもう6歳の時からきれい好みでいつも叔母に言われなくても進んで整理整頓と掃除を心掛けていたし、それが子の守としての自分の仕事であると思っていた。それが叔母からも産婆からも認められ誉められたことがうれしくて、その後もますます進んで整理整頓と掃除を心掛けるようになった。そして、このとき初めて米山から仲知に連れられて来た時の年齢が「5歳であったと」分かったのである。

 仲知教会で行われていた5月と10月の聖母月のロザリオ信心業が済むと、仲知教会の床は信心業に来た信者の足跡で汚れていた。それが、キエには目についたので、自主的に一人で掃除をするようにしていた。

 このことはもう昔のことなので忘れていたが、最近、仲知にある青空デイサービスに来ていた真浦の真浦レイコさんたちが私を見ると、いきなり昔のことをひょっこり思い出したのか「よう、おばさん、おばさんは旧仲知教会の床を磨いていたの 私達はいつも知らん振りしていたが、心では感心してみていたのよ」と言われた。そう言われてみて初めてかつてそうしていたことを懐かしく思い出した。

 キエさんが幼い頃をこの仲知の真浦で過ごした頃は、戦時中で社会は混乱し人々の暮らしも貧しかったが、大自然と人の心は今と変わらず美しかった。毎日、仲知教会、修道院、そして信者の家から神を称える祈りの声が絶えず響き渡っていた。青い空と蒼い海、そして緑の山から小鳥のさえずりが聞こえる楽園であった。
 
 このような美しい自然と宗教的に恵まれた環境の中で、キエさんは両親がいなくても楽しい思い出をたくさん持っている。その中の一つは信仰生活の思い出であり、この彼女の思い出には我等の畑中師が登場してくる。
 キエの遊び場は真浦徳三郎の家の直ぐ近くにあったヤグラで 、そこで、 大きなせんだんの木と大空を見上げながらごろ寝することが好きであった。
 
祈りの雰囲気が漂う仲知。
宇野キエさんが過ごされた家は現在の仲知教会のすぐ隣りの家である。キエさんが幼い頃には教会は海岸近くにあったが、現在波仲知修道院となっている。

ある夏日和のことである。その日はいつものように朝早く起きて仲知のミサに与り、ミサ後、罪の赦しをいただくために畑中師が告階部屋に来られるのを待っていたが、来られなかったので、家に帰り昼までに子の守と掃除を済ませ、午後夕方、ヤグラに遊びに行って横になっていた。

 すると、修道院からの帰り道のことであったのでしょう。畑中師が通りかかり声をかけて下さり「昼寝ばしよっとね。赦しの秘跡を受けたいのなら今来い」「今はよかよ」まだ彼女が8歳の頃のことである。

 彼女の畑中師の思い出はもう50年も前になるからぼやけているという。
はっきりとはしないままであるが、その思い出はあらまし次ぎのとおりである。

・礼儀作法

 礼儀作法についての指導をなさっていたが、その中で覚えているのが2つある。一つはお茶の作法である。お客の前でお茶を振舞う時には必ず左手にお盆を持って右の手で恭しく差し出すようにすることを教えられた。もう一つは女の子は大人になっても常に穏かでやさしく人に接し 、「言葉少なく、慎み深く」ということをいつも心がけることである。

・人生について

 堅信式が近づくと受堅生はみんな仲知教会に集められ公教要理の筆記試験だけでなく、一般教養と人生論みたいな試験問題を出されていた。教養についてのテストには例えば漢字のテストで「親切」、「礼儀」、「孝行」はどのように書くのかが問題としてだされていた。

 人生についてのテストでは「今まで一番悲しかったことは何ですか」との質問で答えは「罪を犯すことである」が正解である。けれども、そのように答えることが出来ずに、例えば兄弟が死んだことである等と答える子供が数多くいた。
また、「一番嬉しかったことは何ですか」の質問も出されたが、この答えは「初聖体 」であるが 、この質問にも答えることが出来ない子供が多かった。しかし、これらのテストに百点満点の生徒もいてそのような成績優秀な子供には褒美としてみんなの前でロザリオなどが与えられていた。

・日曜日のミサの説教

  内容については忘れてしまったが、師はいつも説教に熱を入れておられたが、熱が上がり過ぎてよく聖台(祭壇)を手で叩いたり、足踏みしたりして信者を怒っていた。

 
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