パウロ・畑中 栄松師

1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年


 
 
濱口種蔵氏

 

濱口種蔵氏帰天 平成12年9月3日

 仲知小教区の功労者である濱口種蔵氏を悼んで平成12年9月7日仲知教会で追悼ミサが下口師の司式の下盛大に挙行された。
ここに濱口氏のご冥福を心より祈るため追悼説教とミサ後の告別式の弔辞、それに濱口氏次女の父の死を悼む手紙を遺しておくことにする。

(1)、追悼説教

仲知小教区の顔 濱口種蔵氏

仲知教会 下口 勳

 ミカエル濱口種蔵さんのご遺族のみなさんに心よりお悔やみ申し上げます。
種蔵さんは平成12年9月3日午後3時、東長崎の病院で老衰のため奥さんのナセさんと子供達に看取られ静かに逝去されました。享年97歳でした。

 種蔵さんは仲知の信者の皆さんがよくご存知のように仲知の信者だけでなく、江袋、赤波江、米山の信者の皆さんも半世紀に渡りお世話になった大恩人ですので、私は仲知小教区を代表してカトリック東長崎教会で挙行されたお葬式に参列して来ました。

 そこで、この追悼説教では先ず、葬儀ミサに参列したことの感想を簡単に報告することから始めたいと思います。
 お葬式は同教会で、9月5日正午、カトリック東長崎教会主任司祭・坂谷神父様のご好意のもと、仲知出身の島本要大司教主司式、5人の司祭による共同ミサで荘厳に挙行されました。このミサには故人の8人の子供全員、お孫さん、長崎市在住のご親戚の方々、知人、それに、宮崎カリタス修道会とお告げのマリア修道会のシスター、同じ信仰で結ばれている地元の教会の方々が大勢参列し本当に盛大な送別の式となりました。

 彼の葬式に参列して私はやはり「生涯を教会と地域のために尽くされた方の葬式にはその恩を忘れないたくさんの方々がこころを表わしに来られるのだ」と率直に思いました。明治36年1月10日、江袋生まれの種蔵さんは生涯を教会と地域のために無私無欲のご奉仕をして下さいましたが、その奉仕活動はもう一昔前のことであります。にもかかわらず、その親切、愛、奉仕をしっかりと覚えておられた方が大勢おられ、その一人は長崎教区長の島本大司教さまでした。無償で人のために良くしてあげていれば、また、多くの人たちから尊敬され愛されるのです。種蔵さんのお葬儀はそのことを如実に示すものでした。

 ここにいらっしゃる皆さんは種蔵さんのお葬儀ミサに参列できなかった方々ばかりでありますので、もう少し具体的に葬儀ミサの模様と雰囲気をお話したいと思います。

 葬儀ミサの司式をなさった島本大司教さまは故人を偲ぶ説教で開口一番こうおっしゃいました。「濱口種蔵さんは小学生時代の先生であり、恩人であります。先生からはたくさんのことを学びました。今日の私があるのは先生のご指導のおかげです。これは決して誇張した表現ではなく、正直そのように思っている。」それから、大司教様は浜口先生から学んだことの中で今日に至るまでご自分の人生訓としているものがある。それは「何事も中途半端な記憶であってはならない、何事も正確に覚えておくことが重要である。」ということである。
 
前列左端が濱口先生 平成2年島本要浦和司教が長崎大司教に就任さた時、故郷の仲知で祝賀式が行なわれたが、そのときのスナップ写真である。島本司教はこのときの想い出を葬式ミサ説教で語られた。
仲知小中学校時代の濱口先生 前列左端が濱口種蔵氏(昭和30年)

 ご存知のように司教さまは記憶力がよく、初対面の人であっても一度その名前を聞いたらしっかりと記憶に留めておられ、次ぎに対面した時にはもうその方の名前をしっかりと言うことが出来る才能をお持ちであられる。また、海外生活が長かったこともありますが、大司教さまはイタリア語、英語、フランス語など外国語が堪能であり、そのことはカトリック日本司教協議会の中でも高い評価を受けているくらいである。このような技能は神から賜ったタレントであるでしょうが、それにもまして「何事も正確に記憶しなさい」という恩師の教えを忠実に実行したことの成果であるのではないでしょうか。

 それから、大司教さまは同窓会の思い出も少しお話になられました。その同窓会は平成2年5月、長崎教区長として着任された頃のことではないかと推測されますが、仲知で同窓会があった時、濱口先生を招待し久しぶりに楽しいひと時を過ごされたそうです。そのとき、同窓生は成人で多くの社会的経験を積んでいる方ばかりであるのに、先生にとってはいつまでもかつての児童に見えるらしく、仲知小学校の先生であった頃と少しも変わらない様子で話したり、歌ったり、踊ったりして雰囲気を盛り上げていました。その時のいかにも楽しそうな先生のお姿が今も忘れられない、ということでした。

 それから告別式ではご親戚を代表して前長崎市長本島等氏が故郷の江袋で過ごした頃のことを懐古しながら在りし日の種蔵さんを偲ばれましたが、ここでは時間の都合上割愛いたします。その代わり、カトリック東長崎教会の坂谷師よりお聞きしたことを簡単に紹介します。

坂谷師は約1年間ばかり東長崎の病院に入院中の種蔵さんを見舞ったそうですが、笑いながら、その時の印象を次のように語ってくれました。

 「私がご聖体を持って彼の部屋に行きますと、いつも喜んで迎えてくれたのはうれしかったが、よく仲知の神父と間違えられて困ることがあった。からだは長崎だが、心はいつも仲知であった。」と言われました。97年の長い生涯を振り返ってみると、若い頃15年ばかり、北海道トラピスト修道会におられただけで、後の80年の人生はずーと仲知で過ごされたわけですから、長崎に入院されて思うこと、考えることのすべては仲知で過ごされたことであっても少しもおかしくありません。

 それから、坂谷師は見舞うといつもニコニコ顔で「ありがとう」、「ありがとう」の言葉の連発で感謝されていました。このような彼の振る舞いから「この方は信心深く礼儀正しい方だと思っていた」と言うことを話してくれました。
 
 次に、今度は私(編者)が種蔵さんを簡単に追悼します。
生前の種蔵さんは昭和11年5月、当時仲知小教区主任司祭の岩永静雄師に請われて仲知伝道学校の教師に就任して以来、2年前長崎に転出されるまでの約70年間、教会、学校、保育所で記念行事があったときの挨拶はもちろんのこと、教会での冠婚葬祭の挨拶もほとんどお一人で奉仕なさっていたことを、仲知の皆さんはよくご承知しておられると思います。しかし、「死人に口なし」と言います。濱口先生といえども人のために挨拶出来てもご自分のためには何も話せません。そこで、今度は先生に代わって私がその思い出を話したいと思います。
 
仲知伝道学校で教師をしていた頃の濱口種蔵氏 前列中央

 私が平成6年4月、仲知に着任された頃の濱口先生はまだお元気で仲知親愛倶楽部(老人会)の会長として活躍し、仲間とご一緒にゲートボールや茶話会を楽しんでおられました。夫婦で仲良く早朝ミサに与ることはもちろん、江袋で不幸があったときには片道3kmの山道をご自分の足で通夜にもお葬式にも与るほどの元気さで私達をびっくりさせていました。
 
 
ゲートボール大会のスナップ写真
得意の演技を披露する濱口氏

 
その頃の私は濱口先生に対して自分を飾らない人、話し言葉に特徴がありユーモアのセンスのある人、主任司祭を尊敬しその司牧方針に忠実であることなどのイメージを持っていましたが、その彼と接しているうちにそのようなイメージを覆されるような思いをすることが時々ありました。

 私が仲知教会の窓の改修工事などで忙しくしていると、わざわざ私のところに来られて「仲知の信者は若い神父様をもらってもうけたばい」と何回も口にされたのです。そのたびに私は彼の言葉にどう返事したらよいか困り果て黙っていました。なぜなら、どう考えてみても、信心深い彼が口にされそうな言葉ではなかったからです。

 しかし、実際の種蔵さんは老いてもなお好奇心いっぱいで、現実の社会を生きる旺盛な生活感覚を持ち合わせておられたのです。だからこそ、私は他の機会に「仲知小教区史」編集の協力を願いました。この願いに対しては「10年位前には自分にもその気があった。しかし、今では記憶力が失われているし、何よりも編集の気力が沸いてこない」と話されていたが、この点では残念に思っていました。

 もう一つの思い出は晩年の種蔵さんは信仰によってありのままの自分を見つめ、受け入れ、愛していたということです。人間のありのままの姿には長所だけでなく、人間としての弱さや罪深さなどの短所も含まれている。そのようなありのままの自分を神の前で受け入れ、さらけ出しその罪を司祭に告白することはいつも信仰が求められます。

 種蔵さんの信心深さの偉大さは頻繁に司祭に告解して裸の自分をさらけだし、自分ではなく、神への信頼に生きていたところにあると思っています。そのような信仰深く、正直な種蔵さんを私は好きでしたし、尊敬していました。自分の弱さや罪深さを受け入れ、見つめることは人間の成長、成熟に欠かせない要素ですが、それがわかっていてなかなか実行できないのが私達ではないでしょうか。

 カトリック教会は大聖年に当たる今年、私達に内的な刷新、即ち、反省、究明、回心を呼びかけている。罪の意識が薄れ、赦しの秘跡から遠ざかる信者が多くなっている今日、自分の罪深さを受け入れることや、見つめることは神からの赦しをいただき、神と和解するために大切なことでないでしょうか。そして、この点で種蔵さんから学ぶことがないでしょうか。

 最後に感謝です。種蔵さんの97年の人生は聖パウロの心境に近く、神を信じ、愛し、また神がキリストを通して約束された天国を堅く信じ、希望した人生でした。ですから、遺族のみなさんは故人と心を合わせて種蔵さんが一生涯の間に神からいただいたお恵みに深く感謝しなければなりません。神が今日まで聖霊を通して種蔵さんの人生を導いてこられたからこそ、種蔵さんはその長い人生をつつがなくみ心のままに幸せに生きることが出来たのです。また、神ばかりでなく、神は種蔵さんに先祖、家族、親せき、友人、知人、恩人、地域、仲知の大自然というすばらしい生活環境などなどたくさんの人や物を無償で与えてくださいましたので、これらの人と物にも感謝しなければなりません。
 
 
仲知信愛クラブ(敬老会)会長時代の濱口氏
前列右から3人目

(2)、弔辞 江袋教会信徒 尾上勇
 
尾上勇氏

  最も尊敬申し上げる濱口先生
 今日を遡る事20年も前、先生と交わしたあの約束を果たすべくわたしは只今先生の御前に額ずいています。見えるでしょうか、聞いてください。母を交えた3人の会話の中で先生どちらが先に召される かは分からないが、もしも私が、先生のお葬式に立つことが出来たらご恩返しに弔辞ば言わせてくれんのと柄にもないことを申した所先生はとても喜んで下さり、「およ、そがんしてくれんか。あよ、うれしかざい、頼むてよ」と言って厚い眼鏡の奥で笑っていました。残念なことにその時の言葉が今現実として訪れました。

 幼少の頃から可愛がってもらい小学生の時は勇ってよか名前ばつけてもらっているのに名前の反対でいっちょも勇ましくないたい と言ってお叱りを受けたこともありました。
以来、お世話、ご指導受けっぱなしで来ました。先生有難うございました。恩師へのご恩に 報いる ことも出来ず恥ずかしく、すまなく思っております。先般ご長男の如先生に「お父さんはどがんしとるとですか」お尋ねしたところ「何の入院はしとるとばってたいしたことはなか」とのことでしたので余り気にもとめずそのうちにお見舞いに上がりたいと思っていたのですが、果たせず誠に申し訳なく残念でなりません。どうぞお赦しください。

 先生におかれましては明治、大正、昭和、平成の苦難の世を豊かな信仰心を持って見事に生き抜かれました。その偉大なる功績を称えます。多年に渡る教職、教会奉仕、社会活動、或いは信仰の導き手となり時には歌って踊って愉快な人生であり、誰からも頼れる先生として慕われる存在でした。

 持ち前の明るい人柄、温もりのある人間味を醸して下さいました。先生の数多い功績を私の拙い言葉では語り尽くせないほどにありました。懐かしく思い出に残る沢山の心の形見を有難うございました。仲知地区にあって聖家族にも似た生活の中でジョン先生、宮崎カリタス会シスター姉妹お揃いの立派な子供たち婿さん嫁さん 、そして可愛い沢山のお孫さんと楽しい賑やかで平和なご家族を築いて来られました。

 ご臨終の時を迎えてはナセおばさんの手厚い看護のもとご家族の見守る中でのご帰天であれば何ぞあとのこりすることなどあろうはずもありません。
百年にも近い生涯を終えられ天国へ召されていく大恩人とのお別れを惜しみ静かに安らかなるお眼りをお祈り申し上げまして先生に最後のお別れを告げます。さようなら先生。

 ミカエル濱口種蔵先生享年97歳
平成12年9月3日東長崎の病院にてご逝去
9月5日東長崎カトリック教会で島本要大司教司式による葬儀ミサ
9月7日仲知教会で追悼ミサ

告別式 弔辞 江袋教会信徒 尾上勇
 
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