使徒ヨハネ 入口 勝師

1961(昭和36)年〜1971(昭和46)年

 
思い出(1)

稽古のエピソード
宮崎カリタス会シスター 真浦チヨミ
 

 青い海、青い空、そして緑の山々に囲まれた豊かな自然の中で伸び伸びと育った私の小学生時代は、教会の行事が優先で学校の時間割も教会の行事に合わせてくれるほどでした。

 それもそのはず、カトリック信者百パーセントの学校でしたから。ところが、私たちのクラスには校長先生の子供がいました。教頭先生の子供は偶然にも信者でしたが、校長先生の子供は洗礼を受けていませんでした。学校から帰ると私たちは稽古に行きますが、そのお友達は一人になってしまうので、教会に連れて行き夕の祈りなど一緒にすることもありました。私たちは、稽古が始まるまでは教会横のグランドで「ドン」や「ごむ飛び」「鬼ごっこ」などをして遊び、稽古の鐘がなると一斉に教会まで走っていました。

 教会で夕の祈りを終えると、稽古部屋に移りました。冬の寒い時期になると教え方さんは稽古部屋で馬乗りをして遊ぶことを赦してくれました。馬乗りはとても楽しく稽古の時間中続けていたいなあと思うことが度々ありました。

 当時主任司祭だった入口神父様は、時々私たちの稽古を見学にいらっしゃることがあり、馬乗りをして遊んでいる時もいつもにこにこ笑顔で階段を降りて来られました。「あっ、神父様だ」と一人が叫ぶと、私たちはまるで真面目に要理の勉強をしていた如く上手に席に就くのでした。入口神父様は、私たちの真面目な姿を見て大変喜んでおられました。

 神父様は典礼のことについてはとても厳しい方でしたが、私たち子供をとても可愛がって下さり、ご復活やクリスマスの歌の練習の時は、声がよく出るようにと飴玉の差し入れをして下さることもありました。
私たちは飴玉が楽しみで、歌の練習よりも飴玉欲しさに喜んで歌の練習に参加したものです。

 当時、教会は現在お告げのマリア修道院がある位置にあったので、私の家は教会から一番近かったせいか、ごミサや稽古に行かないとすぐ気づかれていました。

 ある日の稽古の日、時には稽古をサボってみようかと思い稽古の時間に夕食の準備のためジャガイモの皮を剥いている父を手伝って、私もジャガイモの皮を剥いだり、お風呂を沸かしたりいしている内に稽古のことはすっかり忘れてしまい、良いことをしている気分になっている矢先に、「チエミさん稽古が始まっとっとよ、教え方さんが呼びに行って来いって」、と友達の声がするのです。”なんでまた呼びにまで来んばいかんとか”と思っていると「どうもおかしいと思ったら稽古ばサボるために手伝いおったとか」と父に叱られ、とぼとぼと稽古に行ったこともありました。
 

 それから、家にいては稽古をサボることは出来ないと思い、無い知恵を働かせて、山桃や山栗のなる季節には山に逃げたのです。山までは探しに来ないだろうと思ったからです。そしてとうとう稽古をサボることに成功したのです。神様のことを学ぶことも楽しかったのですが、時には、山桃を上手に採る稽古、山栗を上手に採る稽古もしてみたかったのです。そして、この山での稽古は実を結んだのです。

 私が修道院に入会すると仲間たちから、”山猿のようにあっち走り、こっち走り体が動くもんだ”と言われ稽古をサボった山での稽古は、私にとって良かったのか悪かったのかと考え込むこともありましたがその成果は十分現れていたようです。

 しかし、どんなに上手にサボっても皆に知れ渡っていました。ごミサや稽古は、食事をするのと同じように毎日の糧にしなければならなかったので、この二つをサボると後の生活の調子が狂ってくるのです。そして、どんなに思いっきり遊んでもどんなに遠くへ行っても、稽古には間に合うように帰って来ることを親からは散々教え込められました。

 ごミサに行かなくても、稽古をサボっても親は勿論、友達や地域の方が良く見ており、それによって守られていたようにも思います。地域を揚げて子供の信仰教育が実践されていました。

 学校の先生に、「今日は何時まで教会に行かなければならないから早く終わってね」と言うとそれに合わせて下さり、教会あっての仲知であり、新しい洋服も教会の祝祭日着として買ってもらうことが多く上等着はごミサのためのもので、すべての物の中心は教会であり信仰生活でした。

 小さな入り江の中にお告げの鐘がこだまし、朝の鐘と共に教会に集い、夕の鐘と共に感謝の祈りを捧げて1日を終える仲知の姿、この中に神の御国の息吹が注がれていたように思います。

 私と接する人々がこの仲知で育まれた信仰に気づき仲知の信仰の素晴らしさを感じることができるように伝えていかなければならないと思っています。

 ”先祖代々育てて来た仲知、確かな信仰と、喜びの福音をありがとう”

主の平安
神父様お変わりありませんでしょうか。
復活されたイエズス様のさわやかな息吹を受けて、また新たな任地で司牧生活にお励みになっていらっしゃることでしょう。
仲知では、今は天の国に帰った母(モニカ真浦モミ)、また兄弟たちが大変お世話になりました。ありがとうございました。
神父様から依頼されました原稿はお望みの内容になっていないかもしれませんが送らせていただきました。明日より、しばらく留守をするので取り急ぎ書いたもので、ご丁寧に原稿用紙を送って頂いていましたが、時間の都合上パソコンで打ったものを提出させていただきます。勝手なことを致しましてお許し下さい。
神父様のこれからのますますのご活躍をお祈り致します。
お体には十分気をつけて下さいませ。
「仲知小教区史姉妹編」出版を楽しみに待っています。

聖母マリアと共に
平成13年5月15日
 
思い出(2)

仲知教会の思い出
お告げのマリア修道会シスター 真浦タキヨ
 
 

 ・いつも神様のそばにいた

 仲知の財産とでもいうレンガ色の教会が、澄んだ青空に力強くそびえ建っている。そんなイメージを頭に描きながら、何百年もの歴史が刻まれている仲知教会に思いを馳せてみる。
山と海、畑、そして澄んだ青空がいつもあった。
教会に行くのはあたりまえ、それは何よりも大切なことだ、と幼いころから知らされていた。いつも神様のそばにいたように感じる。

 以前の教会は、現在修道院のある敷地に建てられていた。木造で水色の教会は何となく神秘的に見えていた。後ろ側には、岩から湧き出る水でできた池があり、回りには草花があってそこはいつも私たちの遊び場でした。

 正面の方には、両わきに大きな「あこうの木」があり教会を守っているようだった。教会のシンボルとでもいうように、教会と「あこうの木」はマッチしていて誰もがその根元に集まってきていた。根元でくつろいだり、木登りをしてスリルを味わっていた。ある時はこの木に登り、夏の日にはセミにも負けないくらい公教要理の暗記を頑張った。

 木の上で覚えるとすぐ覚えてしまうような感覚さえもっていた。この「あこうの木」は、秋になるとすごい勢いで葉を落とし教会の回りのまさご石を埋めつくした。この頃のけいこの時間には、まず木の葉を拾ってから始まるのが日課になり、「今日は一人200枚・・・」と言う教え方さんの掛け声で必死で集めたものでした。

 教会の回りには、花壇がいくつかあって四季折々にいろんな花が咲いていたが、その中でもカラーや、カンナの花が目立っていて栄えていた。それをいいことに、私たちはかくれんぼをしたりして陽が暮れるまで荒しまわり集中していた。

 もちろんしかられることもあったが、それにもめげず遊びは続いた。隣には運動場があったが、ここでも年齢、学年を問わず、それぞれのグループでいろんな遊びが展開された。瓦で遊んだり、"どん"と言う遊び(土に線を描いて通り抜けしていく遊び)は、土に描いた線が見えなくなるまでとっても楽しく集中した。

 教会は、私たちの集まる場所そして遊び場所であり、ここでお互いに労わりあうこと、そして素朴な人間性も学んだ。神様のそばで素直な気持で祈り、けいこに励んでいった。ごミサの時には、小学校高学年から中学生の女子は2階に上がり聖歌隊として活躍していた。クリスマスが近づくと猛練習が始まり特訓された。堅信式やその他のお祝い日などは、美しい歌声が響いていたようで、皆さんから喜ばれていたのを覚えている。
 

 日曜日のごミサには、信者でない小中学生の先生方も見え、私たちと一緒にお祈りしていた。今思うとすばらしい環境や、私たちをまっすぐに神様へと導いてくれた方々の中で幸せな時であったように思う。ごく自然に神様を見ることができた。

・神父様のこと

 私が最初に出会った神父様は、今は亡き田中神父様でした。しかし幼い頃でしたので仲知での記憶はあまりないが、田中神父様とは三井楽で二度目の再会をした。仲知の人と言うことで良くかわいがられ、また頼まれごとも多かった。時々面白い言葉をこぼすユーモアのある神父様でした。

 たぶん一年生の頃からだっただろうか、入口神父様の姿を記憶している。学生の間はずっと入口神父様で、その頃は、神父様は入口神父様だけだとさえ思っていた。時間等には大変几帳面でまた清潔感のある神父様でした。ごミサやけいこの時間は、一分一秒とも大切にしていた。お告げの鐘が少しでも遅れると、たちまち行動に現れていた。

 告解の時間も規則正しく行い、聖堂の前から後ろまで待つ私たちは自然とそのマナーを教えられていた。ある日のけいこの時間に教え方さんから指導を受けていた時、突然"コラコラー"と言いながら傘の柄みたいなものを持って現れた。たぶん様子をうかがいに来たのだろうと思うが、その時にも真剣に頑張ることを諭された。

 堅信のけいこになると神父様が時々テストをされた。とってもきびしく合格点に達しないと堅信を受けられないと言うことでものすごい勢いで要理を暗記した。こうして堅信までの白熱した一時代のページが終わった。

 そういう時、浜崎神父様の着任となり、何となく仲知の雰囲気も変わってきたように感じた。神父様は歴史や国文学が得意で、司牧する中でそういう学問的な知識も与えてくれた。時々聖歌も教えてくれていたがカトリック聖歌を自分で気持ちよく歌いながら、ほのぼのとした雰囲気で教えてくれた。

 また、時には浪曲みたいなものを歌い、信仰の応援歌としてみんなを励まし、和ませていたようだった。仲知教会のためのこのような信仰に導いてくださった神父様は、短い期間で神学校の校長となられて転任していかれました。その後、中田神父様、佐藤神父様と着任して来られたが、その頃は仲知に戻ることが少なくなっていたので、神父様方との関わりはあまりなかったが、間接的に私の召命を支え励ましていただきました。

 特に佐藤神父様には、今は亡き私の父と母も大変お世話になっていました。また神父様とは縁があり、水の浦でも4年間一緒にいて助けていただきました。幼い頃から恵まれた環境と、いろんな形で神父様方の支えを受け今の私があることに、感謝と尊敬の念を覚えています。すべて神様の愛の計らいだったと信じています。

・我が仲知教会を誇りに思う

 時代は変わり、社会は猛烈な勢いで変化しつつある今、仲知の過疎化も進んできている。しかし、その中にあって仲知教会は、「岩の上に教会を建てよ・・・」とのイエズス様がペトロにおっしゃった言葉通り、しっかりとした信仰の上に建つすばらしい教会がある。近年取り入れたステンドグラスも益々それを物語っているように思う。

 あの頃と変わらない神様の息吹は、今も今からも生き続けるものと思う。祈る教会の中に神様は光を与え、導いてくださると信じています。仲知とは遠くに離れていますが、いつも大きな力で神様のうちに繁栄していくことをお祈りし続けたいと思います。
 

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