ペトロ 永田 静一師

1975(昭和50)年〜1979(昭和54)年


 昭和50年2月10日、浜崎渡師は長崎教区小神学校校長として、教区神学校へ転任され、第13代主任司祭としてペトロ永田静一師が着任された。永田師は元来胸の病気で片肺がなく、健康に恵まれていなかったが、確固たる信念を持ってどんな困難な仕事でもやり通すことの出来る強い意志の持ち主であった。

 性急で短気な面があったが、仲知でのわずか4年間の司牧期間で米山教会新築工事を皮切りに仲知教会共同墓地改修工事、仲知教会と司祭館の新築工事、仲知公民館の移転工事など特にハードな建築分野においてその豊かな才能を発揮され、米山と仲知の信徒にとっては生涯忘れることの出来ない足跡を遺された。
 

 「光陰矢のごとし」というように時のたつのは早いもので来年(平成14年)11月には米山教会献堂25周年、再来年(平成15年)の12月には仲知教会献堂25周年を迎える。両教会ともに5年前に改修工事は済ませているが、記念すべき年を迎えるに当たって両教会建設の最大の功労者である故永田師静一師を偲ぶために、米山教会建設の時に建設委員として会計をしていた山田常喜氏、仲知教会宿老であった久志伝氏、お告げのマリア修道院の院長であった真浦タシシスターを中心に師の思い出を語ってもらった。

 しかし、米山教会、仲知教会建設工事の必要性とか工事経過などの記録については去年(平成12年9月)出版した「仲知教会小教区史」に詳しく書かれてあるので、ここでは最小限度必要な記述に留める。

 米山教会新築工事

 所在地 新魚目町津和崎郷986番
 工事着工 昭和53年6月1日
 工事完了 昭和53年11月25日
 構造    鉄筋コンクリート造り
 床面積   585.494平方メートル
 設計    青山設計事務所
 施行    株式会社辻組
 請負代金 3 300万円
 一戸当たりの割り当て金 45万円
 信徒戸数 70戸
 
 
新築落成した米山教会(昭和52年11月25日)

 

I、米山教会信徒山田常喜氏の思い出

 建設に関わるエピソード

―米山の信徒、永田師より怒られる。

 永田師が仲知小教区に着任した頃は米山教会の建設にそれほどの関心はなく、「体は弱いし、建設に協力出来るとしてもたいしたことは出来ない」と、弱音みたいな言葉を漏らしていた。そこで、米山の信徒は新しい教会敷地を確保するために昭和51年12月10日、主任司祭に無断で米山教会建設業者である畑山氏に依頼し、旧教会の隣りにあった稽古部屋を解体し、さらに、旧教会裏側に側溝を造り、その工事代金90万円を支払った。 

 ところが、同年12月31日大晦日に、米山教会建設準備委員の全員が仲知の司祭館に呼び出され、主任司祭に無断で新しい教会の敷地を信徒だけで決定し、その整地工事をしたことについて説教を受ける。しかし、その後から永田師は本格的に建設に取り組むようになり、教会の敷地、設計、施行、建物の構造の決定に自ら陣頭に立ち中心的な役割を果たすようになった。

―大胆な永田師

 米山教会新築工事の会計をしていた山田常喜氏は昭和52年9月、2回目の工事代金1 200万円を永田師に届けるため仲知の司祭館へタクシーで行った。その時、師は司祭館にいたので、風呂敷に包んでいた現金を取り出してからテーブルの上に置き、数えてみてくれるように依頼した。

 すると、師はすでに一度は郵便局で数えてあるので、その必要性はないと言われ、さらに「自分は仲知教会墓地の改修工事で忙しいからこれから出かけなけれならない」と言い、現金の札束に麦藁帽子を被せながら、台所で食後の後片付をしている賄いの中村さんに「現金の番ばしておきなさい」と言ってそのまま出かけた。

 このとき会計の山田氏は「神父様はえらい大胆な方だ」と思ったそうであるが、外にタクシーを待たせたままであったので、そのまま米山に帰った。しかし、その後の永田師の報告によれば、その翌日には有川まで出かけて銀行振込みで送金なさったとのことであった。

―永田師の祈り

 昭和52年4月、米山教会信徒は、教会敷地の草木払い奉仕活動をするが、整地作業は米山教会信徒の畑山建設に依頼する。

 しかし、同年の7月頃になると、整地作業の過程で敷地内に大きな岩盤があちらこちらに出てきたので、業者が発破で砕いた小石を拾い集める作業に信徒も奉仕することになった。その時、仲知の永田師も夏の暑い盛りであったにもかかわらず、毎日のように現場まで来て下さって、信徒と一緒に労力奉仕をして下さっていたが、ある時、丁度教会玄関のところに大きな岩盤が見つかった。信徒たちが困ったような言葉を口にしていると、師がいわく。「これがよかとたい。なぜならイエスさまは『あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる』と言われたから。」
  

聖体拝領を授けている永田師
 また、永田師と信徒たちが発破をかけて砕いた小石をトラックに積み込む作業をしていると、お告げの鐘がなったので永田師がみんなに呼びかけて「さあ、お告げの祈りをしよう」と自ら先唱したのは良かったが、師は口でお告げの祈りを先唱しながら手では小石を拾っている。その様子を眺めた山田氏は祈る時くらいは仕事を中断すればよいのに、と思ったそうである。
 
米山教会の敷地の作業はこの畑中師の車で行なわれた。

 

―裏表のない永田師

 師は思ったことは歯に衣を着せないでずばずばと言っていた。たとえば、米山教会の塔の上に設置する予定の十字架は畑山氏に寄付してもらう計算をしていたのだろう、まだ口約束だけで本当の約束はしていないうちに「おい、畑山、十字架は18万円はするぞ。寄付にしては大口であるが、それでよいのか」と寄付金をせまっていた。

―山田常喜氏、米山教会の献堂式に青森県八戸から出席
 

建設工事経過報告をする山田常喜氏

 昭和52年11月25日に行われた米山教会の献堂式は、船乗りの休暇である月夜間ではない日に当たっていたので、建設委員で新築工事の会計をしていた山田常喜氏は、普通であれば献堂式典には参加できなかった。そのことを承知の永田師は、どうしても山田氏には献堂式典に出席してもらいたい思いがあったのであろう、山田氏に「お前はどうしても都合をつけて出席せんばいかんよ」と念を押されていた。

 彼は献堂式典の5日前になると、青森県八戸から会社の事務所へ「今日帰る」と伝えた。すると、事務所から「今夜八戸から岩手県釜石へ向かう会社の船の便があるから、それに乗って釜石まで行き、それから帰郷した方がより便利である」と勧められたので、そうすることにして釜石から東京まで夜行列車の切符を購入して東京まで行った。

 東京には早朝についたが、東京の大学で勉強している息子と久しぶりにあってからその日の夜行に再び乗って佐世保まで行き、米山には落成式の二日前に到着した。その日は米山の婦人会のみなさんが暁保育所を借りて落成式当日のご馳走作りに精を出していた。旅費は往復約20万円。米山の信徒から「旅費の半分なりとも教会で助けてやるべきではないか」との話もあったが、丁度その月には大漁に恵まれたので旅費は給料から差し引いてもらうことにしたという。

 落成式当日は、永田師より指示された通り、米山教会宿老の松内芳朗氏が信徒を代表して挨拶し、山田氏は工事経過報告の挨拶をした。
 
当時の米山教会宿労の松内芳郎氏


 
 
 

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