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ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年

 
初めに

 昭和22年12月3日、念願の仲知教会建設に向けて工事が始まった矢先に畑田師は天草の崎津へ転任となり、鯛ノ浦より若い精力に満ちた西田師が仲知へ着任された。師は仲知着任の挨拶で、「この青二才に何が出来ましょうぞ」と言われた。
 これは当時上五島の司祭団の中で彼が一番若かったことと、前任者の畑田師が司牧のベテラン司祭であったことを意識されての謙虚で控えめな挨拶であった。

 この挨拶とは裏腹に師の5年間の仲知での司牧活動は、まさにみなぎる若さ、情熱、熱意、才能を燃焼し尽くして司祭として彼の持ち味を十分に発揮された活動であった。

 彼の精力的な熱意ある活動により、未開地の仲知の信徒は、水を得た魚のように信仰面でも生活面でも生き生きと蘇り、仲知は何処の地区にも負けない開かれた信仰の地となっていった。これも一重に師の指導力によるものである。西田師に身近な所で仕えたある信徒は、「司教の人事異動により最も仲知にふさわしい司祭・西田師を与えられたことは、まさに神のみ計らいによるものである。」と言われたが、正に彼の言葉通り、師は仲知の信者をこよなく愛して思いっきり仲知の信徒の信仰と生活の向上のために働いてくださった。

I、事業

仲知教会建設 (昭和23年8月)
 

旧仲知教会

 西田師の着任後の最初の仕事は、建設工事が始まったばかりの仲知教会新築工事を完成させることであった。

 ところが、敗戦直後から始まっていたインフレは、終局するどころかますます進行し、政府のインフレ対策も効を奏さず、気づいた時には建設資金が契約時の約2倍近くになった。それに加えて、建設当初は顔を見せていた請負師も契約通り建築資材を送ってくれないばかりか最後には顔さえ出さなくなる始末。

 建設事業断念か、強行かの岐路に立たされた西田師と信徒はあたかも濃霧の中をさ迷う舟のように進路をどちらに向けたらよいのか迷い悩んだ。

 議論を重ねる中、西田師も信徒も聖霊の助けを祈り求めた。そして聖霊によって若い西田師に豊かに注がれ進むべき道が示された。

 その頃(昭和23年)、中五島の奈留島、桐、浜串、奈良尾、岩瀬浦ではイワシ漁と製造業とが好況となり上中五島の経済は上向きになっていた。そこに目をつけられた師は上中五島の信者の家庭に寄付金を募ることを思いつかれた。

 もちろん、この募金活動を行うことは躊躇があったが、そうでもしなければ工事は資金不足で中断しなければならない。それは恥ずかしい。恥をしのんでも司祭自らが頑張って資金調達に奔走しないと念願の教会は建たないばかりか、山口司教の期待にも沿うことが出来ない。
このように責任を自覚された西田師は、昭和23年1月に開催された上中五島司祭会議の席で仲知教会の実情を説明し、難局打開のための募金活動の認可を受け早速募金活動を開始した。
 

旧仲知教会

 日曜日のミサを済ませると、教会を留守にして青砂ヶ浦は勿論のこと、鯛ノ浦、頭ヶ島、船隠、福見、大平、桐古里、奈留島、下五島の三井楽まで出向いて信者の家庭を訪問し教会建設にご協力をお願いして廻った。

 この寄付金交渉においては、ぐぜられて困ることもあった。さらに、下五島の三井楽では主任司祭の岩永静雄師の許可のもと募金活動を始めたものの、間もなく信徒役員が来て「三井楽の信徒は主任司祭の巡回用の馬を購入するため毎月積み立てをしている」ということで丁寧に断られた。
 

 しかし、その他の地区での募金活動は順調に進み、大勢の信徒が快く協力してくれた。同じ出身教会の先輩司祭である奈留島の主任司祭中田藤太郎師は募金活動にまで同伴して下さった。また、桐小教区の主任司祭の田川栄一師は若くて体力には自信のある神父と言えども、知らない教会の一度もあったことのない信者の家を一軒一軒廻って寄付金を募ることは大変なことだと配慮して下さって、御自分の教会役員に仲知教会の寄付金を募らせたうえで多額の寄付金を一括して届けてくださった。

 寄付金交渉のため毎週連続して2、3日教会を留守にする日々が続いたが、幸いにもその頃は大阪教区司祭の山口正師が静養を兼ねて仲知小教区の司牧の応援をしてくださっていた時期であったので安心して募金活動に集中できた。
 
 

旧仲知教会室内

 こうして始めた募金活動によって集まった建設資金は桐古里郷17 900円、浜串25 650円、福見15 200円、青砂ヶ浦5 092円、鯛ノ浦14 050円、頭ヶ島5 000円、船隠19 650円、大平4 520円、奈留島9 720円で、これに上五島地区の司祭の寄付金15 600円を合わせると合計132 182円になった。

さらに仲知教会信徒調達金811 431円と仲知小教区巡回教会米山、赤波江、江袋、大水、小瀬良と前仲知小教区の巡回教会であった野首と瀬戸脇からの寄付金126 113円、それに長崎教区からの援助金100 000円を合計すると、1 169 726円となり難航していた資金調達は何とか乗り越えることが出来た。
これも西田師の私心を捨てての熱心な募金活動とそれに協力して下さった上五島地区司祭、信徒の温かいご芳志によるものである。

 仲知教会には西田師の募金活動に協力して下さった上五島地区の司祭と全信徒の寄付者の姓名を記録した書類が保存されているので、ここでは桐古里郷の寄付者を参考までに紹介しておくことにする。

 浜口忠次郎、小田守夫、畑田勝、宮原藤四郎、汐留伊蔵、戸川建七、戸川仁助、宮原友太郎、田中梅吉、鼻山徳松、岩谷喜三郎、宮原次郎、浜口徳次、浜口喜八、川添金八、山口次郎吉、下崎寅一、桐修道院、山見仁助、黒髪キノ、浜口仁兵、浜口藤太郎、川上昇、川端ヒロ、宮原新造、川添芳造、川端悦治、高見増太郎、下川増衛、峰脇源治、浜口達己、下川善四郎、川端新一郎、白浦サブ、宮本重太郎、小浦要八、下川喜四郎、峰脇セツ、高見善衛、山見栄一、汐留清之助、山口九十九、峰脇貞子、峰脇操、峰脇キヤ、下川清太郎、浜口利太郎、下川栄、下川キク、浜口源治、浜口善作、浜口京助、江口四郎、下口勢四郎、下川辰次、下崎松夫、下崎健次郎、戸川金次郎、浜口峯吉、下川ツナ、菅原一男、森下イロ、下川金作、中山富太郎、浜口宇八、小浦初ニ、小浦喜平、下崎セツ、横山藤三郎、小浦ヨセ、黒髪サチエ、戸川徳次郎、下崎富雄、桐カトリック女子青年会 以上

 桐小教区の信徒の寄付金は他小教区の寄付金に比較してそう多くはないが、隠居している所帯も含めて全所帯の信徒が寄付金に協力していることに特徴がある。
 

 こうして、昭和22年11月3日に着工した仲知教会新築工事は大幅に遅延したものの昭和23年7月完成、同年8月10日、山口司教の司式で祝別、落成式が盛大に挙行された。
 

堅信記念写真
 
 堅信式も兼ねて行われたこの落成式には寄付金活動でお世話になった上五島地区の司祭団と仲知小教区初代主任司祭であった中田藤吉老司祭、それに来賓として北魚目村町中本文平氏、助役の小賀浩興八氏が出席された。仲知修道院で行われた祝賀会はお金がかからないように工夫し、各家庭からそれぞれ自家製の焼酎と一皿の家庭料理を持ち寄って祝うことにした。お客の飲み物は修道院の自家製の焼酎をいただくことにし、ご馳走は修道院の姉妹たちと婦人会の手料理で接待することにした。

 こうして準備された祝賀会では完成の喜びが静かな仲知集落全体に広がり、これまでの司祭と信徒の苦労は一気に吹き飛んでしまった。祝いの会場を盛り上げるには余興が欠かせないものである。その余興で特に注目されたのは久志隆三郎氏の余興であったが、彼はプロの写真家のようにカメラを覆っている黒幕に顔を隠しながらタイミング良くシャッターを切るまねをしながら「皆さんの顔の真中には団子鼻が並んでいる。」などと、冗談を言って会場を賑わせた。また、昆布結びの実演をした井出渕茂一氏の余興もかなり注目された。 (真浦キヌエ談)
 
 
 
 
寄付者名簿録 収支台帳

 
 
仲知教会新築工事収支・決算の概要
収入の部
寄付金 467,945
信徒の調達金 811,471
雑収入 112,170
収入合計 1,391, 586
支出の部
建築資材 903, 885
人件費 395, 507
雑費 66, 367
支出合計 1, 365, 759
残高 25, 827

 

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