ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


1948(昭和23)年、上中五島男子カトリック連合青年会が発足する。
 指導司祭  : 田川栄一師(桐教会)
 会長兼副会長: 中山義光(奈良尾福見)
 庶務会計  : 中田義光(鯛ノ浦)
 理  事  : 山口九十九(桐古里)
         馬込三郎(丸尾)
         前田年増(仲知)
         白浜光男(野首)
         江村三郎(奈留島村江上)
 
 

パウロ 田川栄一師

綱領

 我らは宗教的熱情を奪起し、自己の聖化を図り、
上中五島カトリックの中核体となりて、カトリック思想の
堅持高揚に努め、以て真の精神文化のために、ここに団結す。

・会則
第1条 本会は上中五島カトリック連合青年会と称す。
第2条 本会の会員は上中五島カトリック青年にして、
  新制中学終了年齢より満25才まで、但し、役員の年齢は満35才までとす。
第9条 本会の経費は会費年20円、及び寄付金を
  もって之に充つ。
第13条 定期総会は8月中に開催し、臨時総会と各支部の役員を以て開催する役員会は、会長がその必要を
  認めたる時、これを招集す。
第14条 本会の保護者は日本26聖人殉教者とし、
  主日、祝日には全会員、聖体拝領をなす。
第15条 本会はカトリックアクションのため、
  少なくとも年1回、体育大会、弁論大会、その他、カトリック活動をなす。
第16条 本会は各支部の連絡、並びに各会員の教養を
  深めるため、春秋2回の会報を発行す。
 

 仲知小教区では、連合青年会発足の前後は小教区単位で青年会、処女会活動が盛んであった。
 江袋では大正期に青年会が組織されていたが、畑中師の頃にも男子青年会、女子青年会が
それぞれ活動していたらしく、当時の青年会会長・谷口清が主任司祭に会計を報告した文書がある。
その頃青年は倶楽部で学習会を開き、そろばんを習っていた。
仲知小中学校の先生に頼んで教えてもらったこともあった。
 このような活動に必要な費用は安い労賃で集落内の畑を耕すこと、味噌こうじ用の麦をつくこと、
重い石の運搬等、青年に相応しい様な力仕事をして収入を得ていた。

 連合青年会主催の行事としては、江袋の谷口康夫氏が会長であった頃(昭和26年頃)
鯛ノ浦小中学校運動場で体育大会が開催された。
 

左:青年団会長していた谷口康夫氏

 その時の運動会の種目では、マラソンが花形の種目で大水繁吉氏と真浦三義氏とが上位の成績であった。
特に大水繁吉氏は(26才くらいであったろうか)マラソンが速く、注目の的だった。

 女子では糸巻き競技があり、急ぐ余りもつれさす者あり、巻いた糸を落として転がす者ありで
とても賑やかな競技であった。
教理を競うという珍しい競技も予定されていたが、当日になって急きょ取りやめとなった。
何かの競技で納得できぬ出来事が生じて、仲知青年会は途中退場し、「帰る」と会長の谷口が申し出て、
主任司祭の西田師から叱られたという一幕もあったが、今となっては懐かしい笑い話である。

(江袋教会 尾上勇氏 談)
 
 青年会とは直接関係ないが、昭和26年4月1日、仲知小教区の満21歳未満の20人の青年たちが西田師から司祭館に呼ばれ、満21才になるまで一切アルコールを口にしないという始末書を書かされている。

 既に、上中五島地区カトリック信徒規約書21条に未成年男女の飲酒が厳禁されていたが、
仲知の青年にとっては、この条項を守ることは難しく、親と主任司祭の悩みの種だったようだ。

 しかし、一方、品行方正で模範的な青年もいて表彰されていたから親と主任司祭の悩みもそれほど深刻なものではなかったようである。
 

上中五島伝道学校

 昭和26年になると上中五島地区には8名の司祭が定住するようになり、伝道学校を1校に統一する機運が熟して、同年12月、鯛ノ浦教会主任司祭・川口善助師の指導の下に鯛ノ浦養育院の丘を整地して着工。
昭和27年3月、木造2階建ての伝道学校兼寮舎が完成し養成が開始された。
養成指導は、上中五島地区の司祭団が担当され、仲知小教区の信者は昭和28年から入学し養成を受けた。
但し修業年限は6ヶ月であった。
  第2回 女子 1953年4月入学- 8月卒業 仲知5名
  第3回 男子 1954年6月入学-12月卒業 仲知4名
  第4回 女子 1955年5月入学-11月卒業 仲知1名
  第5回 女子 1958年4月入学-10月卒業 仲知0名
  第6回 女子 1959年4月入学-10月卒業 仲知5名
 

川口善助師 昭和27年

 
 
 
 

西田師ご転任 お別れの言葉

 昭和27年 母の会代表
 
母の会を代表しまして一言お別れの言葉を申し上げます。
 このたび、西田神父様には長崎教区の会計として、ご栄転になられますことを心からお祝い申し上げます。

 5年8ヶ月もの長いあいだ、この不便な仲知教会にご在任くださいまして、心身ともに使い果たされましたことと存じます。深遠なる司牧のなかで、特に仲知教会の発展はまず、母親たちが目覚めなければならないと言われまして、母の会結成にお力を注がれて、今日の母の会を育てて下さいました。そのためには、ご多忙もかえりみず、惜しみなくお力を注がれ、ある時は、叱り、またある時はお褒めの言葉で励まして下さいました。にもかかわらず私どもは、心に思ってもそれを表現できず、したくても何をすればよいのか、そんな戸惑いばかりで神父様には、大変ご迷惑ばかりお掛けしましたことを、お別れに際して心からお詫び申し上げます。

 私どもは西田神父様にいつまでも、この仲知教会でお導き頂きたいのですが、
天主様の思し召しでありますれば、いさぎよくお別れ致します。

 御堂を仰ぎ、田舎には珍しい赤瓦の幼稚園で映画をみせていただいたり、神父様のご指導で出来た精米所の機械の音を聞くたびに、何時も大きいお体の神父様の面影を浮かべ、そのご恩の数々に感謝の祈りをおささげ致します。

 神父様もどうぞ、私たち母の会を思い出してください。
鈍かった私たち、ぼんやりだった私たちをどうか思い出して今後共お導き下さい。
いろいろと申し上げたい事ばかりですが、胸がつまって
これ以上言葉がでません。どうぞお体を大切に、
教区発展のためにご尽力ありますよう心よりお祈り致しまして、
粗辞ではございますが、お別れの言葉と致します。
 
 
 
西田師転任の時に見送った宿労と教え方(長崎・「公教神学校」で)

 
 
長崎・公教神学校

 
 

祝辞 竹谷音吉神父様
 昭和27年 浜口ナセ
 

出身教会である米山教会献堂式ミサに出席されたときの写真。
中央:里脇大司教様、左:竹谷音吉師、右:永田静一師

 神父様、膚を刺す冬も去り暖かい希望に満ちた春が訪れ自然界のすべてが今日の良き日を祝してくれるかのようで御座います。このたび、神父様にはめでたくも司祭職の栄冠を勝ち得られキリストの大使として晴れの錦を飾り、故郷の信徒の前に凱歌を歌われた事を母の会一同に代わり謹んで敬意を表し心よりおめでとうを申し上げます。

 かえりみますと、神父様は津和崎小学校を御卒業なさいますとすぐ長崎神学校に選抜され御やさしい御両親や兄さん姉さん方に励まされ強められて20年間もの神学校生活をなしとげられました事は、これ万事計らい給う天主様のさとりがたき御恵みは言わずもがな、神父様の絶えず、うまず、たゆまずの御努力と御忍耐がなくてはどうしても天主様も御計らい下さらなかったので御座います。

 20年もの中には多くの困難が神父様の上にかかって参りました。お父さん、お母さんは立て続けに早く旅立たれ、兄さん方は大東亜戦争のもくずと消え、御自分は、太平洋の戦いに召集を受けて休学の止むなきに至り、勇戦苦闘を終えて帰還すれば又哲学をやり直さねばならぬハメにあったと聞いています。

 本当に並々ならぬ御忍耐がなければ到底できない十字架で御座いました。この十字架をじっと担われた神父様には、きっと天主様が救霊の事業に御助け下さいまして「苦は楽の種」を実現させて下さる事を確信して止みません。

 終わりに、願わくは神父様がますます御壮健に末永くこれから乗り出すべき猛り狂う浮世の布教戦線に御活躍下さらん事を御祈りいたしますと共に、私共母として祈りかつ働きながら子供の教育に熱心になり、神父様の後を慕う子供らを養成するに足る教育の御恵みを御祈り下さらん事をお願いいたしまして祝辞といたします。
 

西田師の司牧を補佐した山口正師
 

神戸のカトリック系の病院で静養中の山口正師。左が本人で、右の方は浦上教会出身の松尾氏。

川棚教会西田師より

 西田師が昭和22年12月鯛ノ浦から着任すると間もなく長崎の司教館で静養されていた大阪教区司祭、山口正師を仲知に連れて来られた。
それは、司牧の手伝いをさせるよりも同じ浦上出身の同級生の身の上を案じたからである。

 さらに、山口師の病名が心因性によるものであると考えると同じ静養でも長崎の司教館よりは、上五島の仲知の方がのんびりと静養できるのではないかとの思いもあった。こうして山口師は昭和22年暮れ、西田師の勧めで仲知で静養に専念することになった。

 ところが仲知に来て素朴な信徒とふれあって行くうちに体調が日に日に回復し洗礼、告解、ミサの執行等の司牧の協力もできるようになった。このため西田師は山口師を江袋教会に住まわせ、江袋教会の信徒の司牧の他に大瀬良、小瀬良、大水の巡回司牧も一切任せることにすると共に、仲知天主堂新築工事のための資材購入のため佐世保や長崎方面へ長期の留守をする時は、仲知の司牧も 手伝ってもらうようになり最初の計画で助けようと思った事が逆に助けられるという羽目になったという。

 

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