ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


 思い出(1)

江袋教会出身谷口ウメノさん(新田原在住 72歳)より

 「戦後の江袋教会の女の教え方は、谷口栄子さんでしたが任期の途中、結核に倒れ若干19才で若死にされました。このため急きょ私(当時19才)が彼女の後任として任命され、初聖体組の生徒(田口忠秋、谷口正、田端好美の3人)と香部屋の仕事を受け持つと共に男の教え方の浜口友吉さんが仕事で留守の時は、堅信組の子供たちにも教えなければなりませんでした。しかし、いわば突然の任命であり、子供達をどうやって指導したらよいものか日夜、悩んでいるところへ山口正神父様が江袋に来られて、教理の初歩を懇切ていねいに教えて下さり本当に助けられました。

 山口神父様は、さらに典礼行事の事も心優しく教えて下さり、そのおかげでどうにか3年間の
義務年限を全うすることができました。

 江袋教会時代の神父様は、日曜日も平日も規則正しくミサ聖祭を信心深く執行し、信徒もそれに応えて平日のミサでも40人程の信徒が非常な熱意と信心をもってあずかっていました。
 

神戸少年の町養護施設でのミサ風景写真

 しかし、洗礼式や冠婚葬祭は仲知から主任神父様が来られて司式しておられました。エソ釣りシーズンとなりますと聖務のかたわら信徒の小舟に便乗してエソ釣りを楽しんでおられました。

 メジロを飼うのも趣味でその繁殖期には、近くの山に信者を連れてトリモチで子メジロ狩りをし、同じ趣味のある信徒にさしあげていました。子供好きでもあったので学校が休みの時は、江袋の子供達を司祭館の近くに集めて一緒に遊んでいました。時には子供を司祭館に宿泊させて一緒にゲームをして遊んでおられました。

 昭和23年の秋には、賄いをしていた仲知の久志サヤさんを連れて大水に引っ越され、大水の司牧を手伝うようになりました。

 大水でも主の恵みと助けに信頼して毎朝ミサ聖祭を執行し、大水の信徒の信仰を燃え立たせ、すばらしい成果をおさめていました。青砂ヶ浦の主任司祭梅木神父様が病気の時は青砂ヶ浦まで出かけ、ミサのお手伝いをすることもありました。

 大水でもエソ釣りをなさっていたようで、ある日、エソ釣りに出かけた江袋の信者が神父様からことずかったといってエソを3、4尾届けてくれた事がありました。

 教え方卒業後は、修道生活に憧れ大阪の聖ヨゼフ修道会に入会しました。入会4年目に発病したので帰ろうとすると桜の宮教会(大阪教区)の主任司祭をしておられた山口神父様から引きとめられ2年間賄いとしてお世話になりました。」
 
 

上下共に桜宮教会主任司祭だった頃の写真ではないかとみられる。

アントニオ山口 正著 「浦上の使徒」より
 

 西田師と同じく浦上出身の山口正師は、昭和45年6月2日肝臓病のため53才の若さで逝去されているがその一年前、病と戦いながら「浦上の使徒」というタイトルで上五島地区で最初に福音宣教されたテオドール・フレノー師についての小伝を書き残している。

 編者は「仲知小教区史」の脱稿後、その小伝「浦上の使徒」を読み感動したので「仲知小教区史」でフレノー師についての該当箇所を補うことにした。即ち、第2代仲知小教区主任司祭であった永田徳一師が仲知小教区での司牧生活(大正3年から大正8年)を回想し、フレノー師が音楽の才能に秀でていたことを語るくだりがあるので、その個所を読者のために引用しておきたい。

 「小生(永田師)は、大正3年(1914年)に司祭になって上五島の仲知に赴任しました。
そこの信者たちは、皆、素朴で熱心でした。ところが、40才、50才になる婦人達がラテン語の聖歌の歌詞と音符をサラサラ読みこなしグレゴリオもムズカも自由自在に歌うのです。驚いて聞きただしたところ、
昔フレノー師に習ったという答えでした。クリスマスや復活祭の聖歌は2部、3部の合唱を折り込んで、この婦人達でなんなく荘厳に過ごすことができました。
みなフレノー師の置きみやげだったのです。

 私は、上五島(仲知)に6年余り、それから中五島(奈留島)に転任、次に浦上に参りました。
来てみると(フレノー師により)音楽隊が立派なバンドに育っていたのです。」

  思い出(2)

米山教会信徒 竹谷茂氏より
 
竹谷繁氏

 米山教会の信徒竹谷茂氏は自宅が旧米山教会に隣接していたし、実姉の竹谷マチ子さんは米山教会の教え方であったことから教会と深くかかわりがあった。彼自身小学3年生の時より畑中師、畑田師、それに西田師の補佐をしていた山口正師のミサ使いをして、教会の中心で活躍されていた歴代の主任司祭との人間的なふれあいを家族ぐるみで体験した思い出を持っておられる。特に思い出深い方が山口正神父様である。そこで彼から聞いたことを簡単に紹介しておこう。

 比較的人より体格に恵まれている竹谷茂氏の得意は、魚釣りなど幾つかあったが特に木登りすることが得意であった。このことから山口師のメジロ捕りを助けて喜ばせていた。司祭館の直ぐ脇にカタシの木と柿の木が一本ずつあったが、それらの木によじ登りメジロがよりやすい場所に自分で作ったメジロ籠を設置しておくのが彼の役割であった。山口師はただ彼がセットしたメジロ籠にメジロが入り込むのをじっと観察しておいて茂氏に伝えることであった。メジロ捕りに心得のあった茂氏がセットした籠にはよくメジロがかかっていた。

 茂が家の縁に座っておれば司祭館の山口師から「茂、今メジロが籠に入ったごとあるよ。捕ってくれないか。」と合図がある。すると声をかけられた茂は待ってましたばかりにすばやく木よじ登りメジロを捕り山口師に差し上げるのであった。メジロは神経系統の病気に効能があるとかで、同じ病気で療養していた山口師はそのメジロを薬として食していたそうである。

 茂氏によると、山口師は江袋教会や大水教会だけでなく米山教会にも仲知の久志サヤを賄いにして少なくとも1ヵ月はおられた。その間に竹谷茂氏はすっかり山口師と友達になり、時には普段決して食しないパンとか美味しい刺身などのご馳走をいただくことがあった。山口師は背が高く、温厚な人柄で長崎の浦上弁を話しておられたそうである。
 
 
 

思い出(3)

アントニオ 山口 正師

 善長谷教会(深堀教会の巡回教会)信徒川上喜美子(52)さんより編者は平成13年6月17日(日)午前8時頃、善長谷教会での巡回ミサを終え、深堀に帰ろうとしていると、川上(旧姓長谷川)喜美子さんよりアントニオ山口正師のためのミサの依頼を受けた。山口正師は西田忠神父様の頃に仲知小教区で司牧された山口正師と同姓同名であるので、もしかしたら同一人物であるかもしれないと思い、念のために本人に確かめたところやはり間違いでなかった。立ち話程度の情報でしかないが、せっかくのことですので少し彼女から聞いたことをまとめてみました。

―   彼女は山口正師の姪にあたる。昭和39年3月、深堀中学校を卒業し、兵庫県の織物会社に就職して6年が経過した昭和45年5月29日、浦上出身の松尾さんという方より、突然、神戸市灘区にある海星病院に入院している山口正師が危篤状態であるという通知があった。びっくりした彼女はとりあえず会社に事情を話して許可をもらい見舞いに行った。すると、腹膜炎のためお腹が異常に腫れ上がり苦しそうであった。そこで、挨拶もそこそこに痛い部分をさすってあげたり、体をタオルで拭いてあげたりしているとまたたくまに回復していった。

 三日目になると、さらに神父様の病状は良くなったように思えたので、会社に帰ろうとすると、また、にわかに病状が悪くなりそのまま意識不明に陥った。司祭としてすばらしい最期を迎えることが出来るように田口枢機卿様がお出でになられて臨終に立会い病者の塗油を授けると、とても安らかな気持ちになられた。

 最後は同郷の司祭の片岡師や野口師らに見守られながら、死を受容し、心を整えて永遠の世界に旅立った。享年54歳。

―  三日間の看病をしている間に彼女は山口師といろんな会話をしているが、その一つは隠居の話である。まだ54歳の山口師は病名が告知されていなかったためなのか、ご自分の病気が死に至る病であるとは考えていなかったようである。病気が回復し本来の司祭の仕事に復帰できる希望を持ち続けていた。

 さらに、老後は浦上の叔母から無償でもらった土地に小さな家御堂を造り、そこで優雅に楽しい余生を送る計画を立てておられた。これらの希望が叶った後は、師の看病をしてくれた彼女に「隠居も土地もただであげてもよいと思うがいかがですか」、と言われた。まだうら若い21歳の彼女は欲がなく、「そんなものは要らない」ときっぱり断ったそうですが、その後の一時期、「断らなかった方が良かったかもしれない」と、後悔したことがあるとか?

 その彼女は土地の代わりに師が入院中に趣味として作製した聖母マリアの木彫りをいただき、今でも師の形見として大切に保存し、編者にもわざわざ見せて下さった。聖像の木彫りには神父様の信仰心が刻まれており、お葬式の会葬者に会葬御礼として配布されたご絵の表紙は最後の遺作となった聖母マリアの木彫りが飾られている。
 

山口師が製作した最後の木彫り作品

 
 
山口師の特集のページ

御絵によるイエス・キリスト


 
 

―     アントニオ 山口 正師の略歴

大正5年12月20日、浦上生まれ
昭和3年、長崎神学校入学
昭和11年、東京神学校入学>
昭和18年〜20年、従軍
昭和21年10月17日、夙川教会で司祭叙階
香里、田辺、三国、少年の町歴任
昭和34年8月より桜宮教会主任司祭
昭和45年6月2日 帰天同年6月4日、夙川教会で大阪教区葬が盛大の行われたが、主司式は大阪田口枢機卿であった。死亡して1年後、師の叔母にあたり、白百合学園に終生勤務していた山口セイさんが教区から許可をいただいて兜山霊園にある大阪大教区聖職者の墓地に師の墓碑を建立しようとしたが、工事中ということでその隣接地に仮の墓碑を建立した。その祝福式は安田大阪補佐司教がなさって下さった。
 

正面;安田大阪大司教様、左:川上喜美子さん
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