ガブリエル 西田 忠師

 
偲ぶ
 
(1)、真浦榊氏 享年70歳

略歴

昭和4年4月27日仲知生まれ。
昭和16年8月17日堅信
昭和28年4月13日結婚

通夜の席での追悼の要約
 
真浦榊氏
自宅で営まれた真浦榊氏の追悼式 

 「枯れ木も山の賑い」といいます。私の追悼の言葉が悲しみに暮れる遺族の方々へほんの少しでも励ましとなるならば嬉しく思います。
まず、遺族の皆さんへ心よりお悔み申し上げます。榊さんは佐世保の総合病院に入院されてわずか2週間で帰天され、その死はまさにあっというまの出来事でした。
実は私は今日、日帰りでお見舞いを計画していたのですが、それもかないませんでした。

―中略―

 ここで真浦榊さんをほんの少し追悼します。

 榊さんは6年前、私が仲知小教区に着任した時すでに仲知小教区の経済評議員兼会計をしておられましが、それから5年間、経済評議員山添正義とコンビを組んで私を支え補佐してくださいました。本人にとって会計の仕事は大きな負担であったらしく「会計を辞任したい」との強い意向をよく口にしていました。

 そんな彼が経済評議員の任期が切れるまで会計に踏みとどまった。このように任期が終了するまで会計の奉仕を続けることが出来たのは「せがれが司祭である」ということでした。せがれ(長男)が司祭に召されてみ国のための奉仕者であるとの親としての誇りと喜びと責任感とが辛い会計の仕事を最後まで貫き通す力となっていました。

―後略―

 以上は平成12年3月6日自宅で行われた通夜の席での説教の一部
葬儀ミサは翌日午前11時より仲知教会で子息の真浦健吾師の司式で盛大に挙行された。
 
仲知教会での堅信記念 1993年8月30日
前列左が真浦榊氏

(2)、真浦岩男 享年70歳

略歴

昭和5年12月5日仲知生まれ
昭和19年3月26日堅信
昭和31年6月28日結婚

自宅で行われた通夜の説教の要約

 真浦岩男さんの遺族の皆さんへ心よりお悔み申し上げます。岩男さんは昨晩自宅で急死されましたので、遺族の皆さんは突然の父の死に大きなショックを受けておられるでしょう。
70歳の生涯で病名は肺炎でした。

―中略―

 通夜の説教の準備で年齢を確かめるている内に彼の生涯は今年3月5日亡くなった従兄弟の真浦榊のそれと良く似ているということでした。2人とも同じ70歳で死亡するだけでなく、その家族構成、職業、趣味も全く同じである。つまり、2人は同じ生活環境で同じようにその生涯を全うされた。

 たとえば、2人の家族構成を見ると、真浦榊の家族は男の子2人、女の子5人の7人の子供に恵まれ、その内男の子の1人は神父に女の子の2人は修道女に召され、現在3人とも現役で派遣されている地で活躍中である。

 真浦岩男の家族も男の子4人、女の子4人の8人子供に恵まれ、その内女の子3人は修道女に召され3人とも元気で派遣されている地で司牧宣教に励んでいる。

 このように8人の子供たちの中から3人の娘が奉献の道を進むことが出来ているのは、父岩男さんが外に出て仕事に打ち込み家庭の経済を支えて来たからであるでしょう。さらに、可愛い娘を喜んで神に捧げるだけの信仰心があったからでもあるでしょう。

 仲知の宗教的な環境の中では岩男さんの信仰は目立ったものではありませんでしたが、休暇で好きな酒を飲んでゆったりと過ごしていた彼もよく信仰の話を酒の肴にして愉快に休暇を過ごしていました。
 

援助マリア修道会シスター真浦キヌヨ 宮崎カリタス会
シスター真浦直美
お告げのマリア
修道会シスター
真浦えり子

 ―後略―

(3)、山添正義 享年73歳

 略歴

大正15年11月10日仲知生まれ
昭和14年8月18日堅信
昭和26年7月18日結婚
平成11年10月19日死亡
 
山添正義氏

 フランシスコ山添正義さんの遺族の方へ心よりお悔み申し上げます。

 正義さんは昨日午後3時10分、立串診療所で家族の人に見守られながら永眠されました。
生前の正義さんは仲知教会の宿老としてだけでなく、個人的にも深く付き合いをしていただきお世話になりました。
生前の正義さんは責任感が強く、温厚で、誠実な方でした。言葉巧みな社交家ではありませんでしたが、決して嘘をつくことの出来ない正直者、かつ信心深く仲知教会の宿老として12年間佐藤師、原塚師、それに私に仕えてくださいました。
 
昭和53年12月、仲知教会献堂式
右端が山添正義氏
写真中央白いワイシャツの人が山添正義氏
1997年に行なわれた聖ヨハネ五島殉教400周年記念運動会のスナップ写真。

 私は仲知小教区着任以来4年間は仲知教会、米山教会、江袋教会、赤波江教会の改築工事、その後は、仲知小教区史の編纂事業と立て続けにハードな仕事をさせていただきましたが、このような仕事も信徒のご協力、特に仲知の宿老であった山添正義さんらの強いバックアップがなければ出来ない仕事でありました。

 仲知教会の宿老として正義さんは、しばしば信徒の側に立つか、それとも司祭の立場に立つかの難しい舵取りを迫られる時がときとしてありましたが、そのような時にいつも信徒によく司祭の意向を信徒に説明しその立場を尊重してくれる信仰の人でありました。
 
平成6年 生月へ巡礼
左から:山田常喜氏、山添正義氏、
下口神父、真浦榊氏

 また、司祭からいちいち指示されなくても自分の判断において司祭館の倉庫の後片付と整理、仲知教会の大屋根のゴミの撤去と室内の電球の交換などの奉仕を喜んでしてくださいました。また、私の釣り舟の管理もすべて彼が中心になってして下さいました。台風シーズンになったときに舟を安全な海上に引き揚げる時などは人手がいり大変な作業となっていましたが、そのようなときにもご自分の責任において奉仕し、舟の持ち主かつ使用者である司祭には何も煩わせることのないようにとの心配りで、後で報告のみに留めていました。

 趣味の魚釣りにおいてはミズイカ釣りにしてもエソの踊り釣りにしてもイッサキ釣りにしてもあるいはイトヨリ釣りにしても常に強力なライバルでしたが、いつも勝負に負けて悔しがるのは決まって司祭の私でありました。そのように負けて悔しがる司祭に食べさせようと大漁したときの一番大きな魚はミズイカにしてもイッサキにしても、イトヨリにしてもわざわざ司祭館に立ち寄って届けてくださいました。

 彼から思いがけずもらって食べた時のあのイッサキの刺身の美味しかったことは一度や二度のことではありません。時には彼の家で接待を受けて一緒に釣ってきた魚を食して楽しいひと時を過ごすこともありました。

 ここではさらに、立串診療所に入院中の正義さんの思い出を二つほど簡単に紹介しておきます。

 二つとも食事に関連した思い出ですが、その一つはイッサキの刺身の話です。彼が立串診療所に入院中のある日の夕暮れ時に、私は小島の直ぐ前にイッサキ釣りに行きましたら、まぐれでしょうか、かなりの釣果がありましたので、翌日、入院している正義さんにイッサキの刺身を食べてもらおうと思いつき、そのように実行しました。そのときは体調が悪い時であったということで、せっかくの刺身も一切れも食べなかったということを聞いてがっかりしました。

 あと1回は初金曜の病院見舞いの時の思い出であります。
 その頃、彼の自宅に聖地巡礼のお土産に佐藤師からもらって植えたという無花果の木に見事な無花果の果実が実っていました。直ぐ近くを車で通りかかると、その無花果の果実がいかにも美味しそうに熟しているではないか。小雨の降っているあいにくの天候であったにもかかわらず、車を止めた後、山添正義宅敷地内に無断で侵入し熟れて美味しそうな無花果を5 6個ばかりもぎ取り、診療所に入院中の正義さんに食べていただくことにしました。そんな私の思いも通じてか2口、3口ではあったが、喜んで口にされたそうです。

 しかし、その後は全く食事が摂れなくなったので、あの無花果が最後の食事となりました。私としては嬉しくもあり悲しくもありで変な気持ちでありました。
 
 

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