イグナチオ・浜田 朝松師


福音宣教に目覚めよう

深堀小教区司牧基本方針

このたび4月26日上五島仲知小教区から転任して来ました下口神父です。22年ぶりに長崎市内で働くことになりましたのでどうぞ宜しくお願いいたします。

 着任前の私は現在の深堀は随分と開発が進んで自然環境が悪くなっているのではないかとやや案じていましたが、実際に着任して感じますことはまだまだ海も山も昔の佇まいが残っているという印象で一安心しています。
 

カトリック深掘教会

 
 
 

早速ですが、これから今年の司牧基本方針を極簡単に述べて見たいと思います。それは一言で言えば福音を宣教する小教区となるということであります。

 既に長崎教区報「よきおとずれ」の5月号に紹介されているように長崎教区では効果的に福音宣教する教区となるために、従来の教区組織の見直しが3年がかりで行われ、今年の4月1日から見直された組織の下で新しい福音宣教が出発しています。深堀小教区もこの教区の司牧方針と歩調を共にしながらその一翼を担っていく事が望ましいと考えています。 

今年度実行可能な具体的なプログラムはまだはっきりと見えてきていませんが、現在の段階ではとりあえず主に次ぎの二つの課題を取り組むべき目標としたいと考えています。

1、福祉活動

 教区では宣教委員会、信仰教育委員会、典礼委員会、財務委員会などの11の専門的な委員会が結成されていますが、私は福祉委員会の仕事の担当者となっていますので今年はこの福祉の分野に力点を入れながら社会的な弱者に配慮した司牧をしていければよいのではないかと考えています。

 現代の社会的な状況はまだまだ高齢者を始め児童、肉体的精神的に障害を担っている人、病人などに対しての福祉は行き届いていません。それどころか、彼らはしばしば社会の底辺に置かれ差別や無関心にさらされている。

 このような現代の社会的な状況を考える時に彼らと共に歩む、共に生きるということは何よりも大切でないでしょうか。お互いの弱さを受け入れあい、共感しつつ、やがて友達になっていくということは神が私たちに望んでいることでないでしょうか。

2、深堀教会献堂25周年記念事業

 私は既に日曜日のミサでの着任の挨拶で話したように、着任前には建物などハードな仕事ではなく司祭本来の仕事である信徒の霊的な指導者としての務めに努力したいと考えていました。その思いは今も変わっていませんが、今年(平成13年)6月の第1日曜日(3日)に予定していた深堀教会献堂25周年記念式典は5月5日(土)午後8時から開催された定例評議会で今年の10月か11月に延期していただきました。

 それは時間を与えてくださるならば私も協力してもっと充実した記念式典にすることができるのではないかと計画しているからです。今その計画の内容をここで披露出来ないのは残念ですが、やがて毎月の定例評議会などを通して打ち明けて皆さんの理解と協力とをお願いするつもりであります。その節にはどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 最後に皆さんの協力を願って編集作業をしている「仲知小教区史 姉妹編」の仕事はおかげさまで順調に進んでいます。いましばらく文字の入力の協力を願いながら今年の9月頃の出版を目指していますことを報告して私の着任の挨拶といたします。
 
 
 
 

深堀教会小中学生の黙想会
 平成13年7月23、24日
 

司祭召命について
 

昭和47年3月20日司祭叙階記念写真
 私は昭和32年3月、上五島の若松町桐古小学校を卒業すると、同級生の江口敏雄君と一緒に長崎の公教神学校に入学しました。それは司祭になりたいという夢があったからです。
 皆さんにもきっと、女の子であれば、保母さんや看護婦さんになりたいとか、男の子であれば、学校の先生になりたいとかお医者さんになりたい等、それぞれ将来の夢があると思います。みなさんに将来の夢があるように、私にもありました。私の少年時代の夢は、司祭になることでした。
では、どうして司祭になりたかったのでしょうか。
司祭になることは、基本的に神様からの大きなお恵みでありますが、私には司祭に憧れたいくつのもの自然的な動機があります。
 今日は深堀教会小中学生黙想会の最初の話として、なぜ、司祭に憧れたのかをかいつまんでお話しすることにしました。このような個人の体験談を話すことにしたのはみなさんに友達になってもらいたいからです。友情は心と心とを交し合うことですから、まず友達になりたいと考えている人が先に心を開いて見せることが必要であります。
 それにしても、司祭になってもう28年が過ぎていますのに、これまで司祭召命については一度しか話していない。召命は個人的な体験談ですので、人に話すことにためらいがあったからです。極めて個人的な事柄を人に話すのはとても恥ずかしいことだし、ひょっとしたら人前で涙を見せてしまうかもしれないという恐れがありました。それでも、たった一度だけ4前の夏休みに、前司牧していた仲知小教区の巡回教会であった米山教会の子供達に話したことがあります。
 (1)、立身出生

 私が、小学生時代に故郷の桐で過ごした時の神父様は竹山涼神父様でしたが、その頃、神父様は信者からとても尊敬されていましたし、毎日、お米の御飯を食べておられました。当時、私たち信者の家では何処の家でも、勿論、私の家でも主食は芋とカンコロ飯か、反麦飯でした。お米の御飯を口に出来たのはお正月だけでした。それなのに、竹山神父様だけは毎日、朝、昼、晩、お米の御飯を食べていたのです。その頃の私は毎日約2キロの田舎道を歩いて早朝6時のミサに与り、ミサのつかいをしていたので竹山神父様の生活をよく知っていたのです。

 それで、子供心に将来は竹山神父様のように、人から尊敬され、毎日お米の御飯を食べられるような人になりたいと思って神学校に入学することにしたのです。
 

左側26歳の若さで桐小教区の主任司祭になられた頃の竹山涼師。
右側は初代浜串小教区の岩永師。

こんなことがありました。

 私が小学校5年生の時の担任の先生は濱口岩男といいました。カトリック信者の先生で酒が好きでした。父とは従弟でしたが、父も酒が好きでしたので、先生はよく我が家に来て父と酒を飲んでいました。

 或る日、国語の時間にこの酒好きな濱口先生から「将来何になりたいか」の作文を書かされました。その時私は「お米の御飯を毎日食べたいので、神父様になりたい」という作文を書いたようである。書くのは良かったが、すぐにそのことが家族にばれてしまいました。例のノンペー先生が、父に通告したのです。後で、そのことが話題になったときにとても恥ずかしい思いをしたことを今でも憶えています。
 

従兄弟の濱口巌先生
写真は昭和47年3月21日小生の司祭叙階式祝賀会でお祝いに歌を歌っている場面。

 (2)、恩人であった下崎謙一叔父さん
 

左が下崎謙一さん、右が従兄弟の濱口仙一さん
昭和47年3月21日。

 昭和30年といえば今から45年程前のことになります。高度経済成長が始まったときで、都会へ憧れて田舎から集団就職する子供達が多くなりつつあった時代です。その時、私は小学校5年生でした。その頃、私の父の従弟になる人が私の家に住み込むことになりました。その人の名は下崎謙一さん。

 下崎謙一さんは長崎市松山町で駄菓子屋を営んでいましたが、昭和20年8月9日の原爆で奥さんと9人の子供の内7人、それに家、財産のすべてをいっぺんに無くされました。それでも、生きて行かなければならないので、長崎市愛宕町のレデンプトール修道院などの門番と庭掃除をして命をつないでいたのですが、昭和30年には従弟の父を頼って上五島の私の家に住み込むようになったのです。

 私の家では実家のすぐ近くにあった倉庫を借りて桶屋をしていました。桶屋といってもにわか職人でしたので、当時風呂場や台所で使う木製の樽や畑の肥料を運ぶ樽をつくったり、修理をしていました。

 その頃の私は学校から帰ると、謙一叔父さんの作業場でその作業を見ることや、そこで、叔父さんが昔話や先祖の話をしてくれるのを黙って聞くのが好きでした。特に叔父さんは信仰深い人で、よく聖ジャラルドや聖ヴィアンネーなどの聖人の話をしてくれましたが、私はこの聖人の話を聞くのが好きでした。

 いつのまにかこの叔父さんにすっかりなつくようになり、叔父さんの影響と感化で、毎日の早朝ミサに叔父と一緒に通うようになり、ラテン語でミサ使いをするようになりました。

 (3)、兄・下口 政男
 

後列が兄・下口政男。昭和15年頃の家族の写真で、このときまでは健康であった。

 私は7人兄弟の末っ子ですが、もの心がついた時から長男の下口政男が家で療養していました。重度の精神障害児だったからです。両親は施設に預けることを好まず、変わりばんこに留守番をして可愛がっていました。周囲の方々も重度の障害を持つ政男兄さんを大事にしてくれましたが、この政男兄さんは生まれながらの障害者ではありません。発病するまでは小学校でも中学校でも健康で生活態度もよく何も問題はありませんでした。

 しかし、中学二年生のときに人違いされて、上級生より木刀で後頭部を思いっきり叩かれたのです。それが引き金となって脳膜炎を煩い、2年間、長崎の大学病院で治療しましたが直りませんでしたので、家で療養していたのです。後遺症ですけれども、癲癇(てんかん)という発作で全身がつったような状態になり、ものすごく苦しんでいました。

 この全身発作はいつ発病するのか予測が出来ない。深夜に発病すると、両親がすぐ兄の部屋に駆けつけて全身マッサージしてあげていました。口にはタオルをあてて出血を抑えていました。その後、兄は両親に「養生させてくれ、養生させてくれ」と哀願していました。何の罪もないのにどうして善良だった兄は廃人になり、その上、癲癇という全身発作で苦しまなければならないのだろうと疑問に思いながら育ちました。

 やがて、私は「兄は人様にお世話になるばかりであるから、私が兄に代わって人様に役にたつ人間になろう」と思いはじめました。そのためにはどうしたらよいか。神と人に奉仕する人である司祭になるのが一番よいのではないかと子供心に考えましたが、そのときにはもう長崎の公教神学校に入学していました。

 中学2年生の頃であったと思いますが、その頃の神学校では長崎教区より委託されたベルギー人の司祭数名が神学校の霊的養成をされていました。神学生はそれぞれ生活面と霊的面の指導をして下さる司祭のもとで将来司祭になるための養成を受けていました。私の霊的な指導司祭は私達が金魚とあだ名をつけていたベルギー人のスメット師でした。その司祭に私は兄のことを話しましたら、「兄のような存在は教会の建物に例えれば、祭壇に飾っているお花のような存在である」と言って私を励ましてくれたことを今も忘れません。
 

長崎市浦上にあった旧公教神学校

 今私は長崎教区の福祉の仕事をしていますが、福祉の仕事に当たっては兄の苦しみを忘れないように一人一人を大切にして、キリストのご生涯の奉仕に少しでも倣いたいと考えております。
 
 

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