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パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年

 
 
 巡回制度の廃止 昭和31年7月

 昭和31年7月吉浦師は大浦司教館へ転任され、パウロ田中千代吉師が第10代主任司祭として飽の浦教会より着任された。

 田中師はこれまでの巡回制度を初めて廃止された。大瀬良、小瀬良、大水、米山の巡回地への陸路は道も悪く遠いので、これまで巡回集落の信徒たちはその都度、交代で「こいで船」を使って司祭の送迎をしていた。こうしたことは伝統的な習慣であったが、信徒の手間を省き、その労をかけないようにとの親心で、ご自分はミサの道具を持ち、徒歩で巡回するようになったのである。

真浦タシ、田中師の賄いとなる。昭和32年
 

 田中師の人物像と司牧活動についてよく知っている信徒は真浦タシシスターである。なぜならば、彼女は昭和33年2月14日、お告げのマリア本部修道院で初誓願を宣立するが、その前に約1年4ヵ月間、田中師に賄いとして直接奉仕しているからである。
仲知修道院の会員であった彼女がどうして師の賄いをするようになったかについてのあらましは大体次の通りである。

 昭和32年の仲知集落の信徒は、西の集落も東の集落も教え方になってもらうにふさわしい教え方候補者を見つけることが出来なかった。そこで、仲知の主だった人は「教え方上がりで修道院の会員になっておられる方に教え方をお願いしてみることにしよう」ということになり、当時修道院院長であった真浦ノブに面会して頼んだ。
 

 ところが、本人たちはいろんな事情があって「しきらん」と断ってきたので、ノブ院長は教え方の経験のない若いタシに「仲知の教え方にならんね、そのために他の江袋や赤波江や大水などの集落から選抜された教え方志願者と一緒にしばらく勉強ばせんね」と勧誘した。

 しかし、彼女は「教え方の実績のある会員が出来ないのにどうして未熟な私が教え方にふさわしかろうか。」と思い、院長にその気持ちを率直に述べると、「では今主任司祭に賄いがおらずに困っているから、来年の夏長崎の本部に修練に行くまで賄いをして教会に奉仕しなさい」ということになった。

 こうして真浦タシが田中師の賄いとなったが、田中師の人物像と司牧活動についての報告はその殆どが真浦タシから聞いたことをまとめた。しかし、読者の皆さんには所々に他の信徒から聞いた話も混じっていることを承知願いたい。
 
 

昭和33年、古聖堂前のアコウの樹の前で田中主任司祭と一緒に

着任の挨拶

 西田師は着任の挨拶で「この青二才に何が出来ようぞ」と言われたが、その言葉とは裏腹に歴代主任司祭の誰にも負けないほど大きな活躍をなされた。

 ところで、西田師同様に、かなりの信徒が田中師が着任の時挨拶された言葉を未だに字義通り覚えている。

 それは「胡椒(こしょう)と山椒(さんしょう)は小さいほど辛い。私も背丈が小さいから辛くなりますよ。」という短い言葉である。

 この言葉を田中師がどのような思いを込めて言われたのか、今では推測することしか出来ないけれども、師にとってはこれから始まろうとしている仲知での司牧生活の決意を表明した言葉ではないか。つまり、信徒をしっかりと充実した信仰生活へ導くには司祭自身がその霊的生活を、胡椒や山椒が素材の持ち味を生かし引き立てるように充実させなければならない。

 前任の司祭が少ししまりのない司祭生活で余り評判が良くなかったことを踏まえ、これから始まろうとしている司牧を成功させるには司祭自らが霊的生活を豊かにし、信徒を良き牧者として永遠の命と救いへと導くことが是非とも必要だったのだ。

 師の仲知での司牧期間は5年間と比較的に短い期間であったが、この期間を総括すると、まさに師が着任の時の決意表明通り胡椒と山椒が素材の味を引き立てるように、きちんとした真面目な司祭生活を誠実に送ることで、信徒の信仰を味付けし豊かにした期間であったといえよう。

 時には余りにも厳格で真面目すぎたために、信徒から「もっと、もっとにこやかに、柔軟に信徒にも地域の人にも接してくれるように」という苦情が出ることがあったのは事実である。しかし、実はそれは外面的なことに過ぎず、本当は心優しい司祭であった。これを良く知っているのが師の賄いをしていた真浦タシなのである。

病人や弱者の友

 平成13年3月14日早朝ミサ後、編者は曽根教会で司祭の賄いとしてなお現役で奉仕している真浦タシシスターに仲知の司祭館まで来ていただいて田中師についてお聞きした。
 
 

 約1時間の聞き取り調査でいろいろと思い出話をして下さったが、その中でも一番忘れることの出来ないのは「田中師は特に病人や貧者など人々が余り顧みない弱い立場にある人を非常に大切にし、よくこころからお世話していた」という彼女の思い出である。そして、彼女は「自分にはこれを例証する思い出をたくさん持っている」と言って幾つかの例を具体的に話してくれた。

 彼女はこの思い出話に大部分の時間を費やすほどの熱弁で語った。このような彼女の話に私は深く感動するとともに、これまでの田中師への見方や理解の仕方が浅く、足りなかったことを深く反省させられた。この個所ではプライベートの話になるので必要だと判断さる個所では仮称の名で彼女から聞いたことをまとめてみた。

(1)、ある精神薄弱者との出会い

 仲知の集落に知恵遅れの子供がいた。田中師はこの子の家庭にしばしばお見舞いし、この子が入院すればするで病院にまで出かけてお見舞いをして、この子とその家族と親しく交わっていた。このような見舞いの繰り返しで、その子は田中師を親のように慕い「神父様は自分たちの味方で何か心配することがあってもイエス様のように自分たちを守ってくれる方である」と信じるようになっていた。

 ところが、この子が大人になり、西彼杵郡三和町の精神薄弱者養護施設「愛光園」に入所すると、今度は深堀教会の主任司祭であった佐藤師から頻繁にお見舞いをしていただくようになり、佐藤師と友達になっていた。しかし、間もなく佐藤師が仲知の主任司祭として転任することになった。佐藤師は彼に転任の挨拶をした。すると、涙声で別れを惜しみ「どこにもやりたくない、行くな、行くな」と言い張った。困った佐藤師は「私が勝手にあなたから遠い所に行くのではない。上司である司教様の命令で動くのですよ。」 
 「それなら神父様の転任先は何処なのですか」 
 佐藤師は正直に「上五島の仲知教会です。」
と答えると、彼は直ちに「仲知ならよか」との返事になった。
これは郷里の仲知で田中神父様から日頃大変みじょがられていたことを思い出しての返事であったのである。
 

(2)、ある病人Aさんとの交わり

 同じく仲知の司祭館の近所にAさんと言う病人がいた。この子の母は頭が良く仲知では珍しく長崎で勉強をしていたが、仲知の信徒と結婚し子供が生まれると家庭で洋裁の内職をして家計の足しとしていた。
この母の長男は母の血を引き運動神経抜群で学校の成績も良く将来が宿望されていた。

 ところが、育ち盛りの時に脊髄の病気になり体が不自由になっていたが、田中師はいつもこの子とその家族に声かけをし励ましていた。時にはお客さんからもらった衣類とか菓子類をプレゼントしてこの子を喜ばせていた。この子が教会のミサに来ると「芳江さん、芳江さん」といつも親しく声をかけていた。

 このように田中師がこの子を大事にしていたので、その母は司祭館に何かの用件で来る時には賄いのタシに「いつも、いつも、神父様には良くしてもらってね。子供だけでなく、親も感謝しているのですよ。」というのであった。
賄いのタシはどのように田中師がこの子と交わっていたのか分からない。多分人にはわからない所で施しや声かけをしていたのであろう。そうでなければ、あのように感謝の言葉をくりかえし口にするはずがない。

(3)、大水の重病人

 これは平成13年3月4日、大水秀子(71)さん宅を訪問した時に聞いた話である。

 彼女の父、大水庄作は大水の教え方を12年間して大水教会に奉仕した信仰熱心な人であったが、晩年は家庭で胃ガンの末期的病状で死期も近づき祈りの内に病魔と戦っていた。妻は丁度麦の農繁期で猫の手も借りたいほどの忙しい時であったが、病人は妻に「神父様が私のところにご聖体を持って来て下さるごとあるけんか、着物に着替えさせてくれないか。」と願った。妻は「今日は午後から麦の収穫で脱穀機が畑に来るようになっているから忙しい。それにまた、神父様にはご聖体は頼んでいないので、多分今日は来ないでしょう。」と冷たい返事。

 そこで、家族は病人をそのままに畑仕事に打ち込んでいると、昼前に奈良尾町の福見の大水成次郎が大水に用件があって来たので接待していた。するとどうでしょう。革靴の音が聞こえて来るではないか。誰だろうと思って家の直ぐ側の登り坂を見ると、なんと田中神父様ではないか。すっかり慌ててしまった家族は客の大水成次郎に加勢を願って大急ぎで病人の着物を着替えさせて田中師を迎えた。

 田中師は日頃から病人を大切ににしておられたから、ご自分の判断で頼まれなくても大水まで足をわざわざ運んでくださったのである。それにしても病人の直感が現実のものになったことに全く驚いた。だからこそ、大水秀子さんも母から聞かされた話として、この時の田中師の病人訪問のことを忘れずに何時までも覚えているのであろう。

(4)、ある精神弱者Bさんとの出会い

 西竹谷は現在廃墟となり人は住んでいない。ここは昭和43年ごろまでは7件も8件もの信徒の家族が住んでいた。ここに変わり者ではあったが、明るい屈託のない少年がいた。この少年は田中師が大好きであったから、よく近くの海岸で採ったサザエやミナなどの磯物や、彼自身が竹竿で釣ったクサビなどの鮮魚を司祭館の田中師に持って来ていた。時には手紙を添え「蒼い海をみれば嬉しくなり、どんよりとした曇り空を見上げれば悲しくなる」
と心の思いを伝えていた。すると、田中師も彼の手紙に返事をしたためて彼との交流を大切にしていた。

 まとめ

 師はどちらかといえば畑中師や浜崎師のように社交家ではない。生活のスタイルは極めて地味であり、酒を飲み交わして騒ぎ立て愉快に友との交わりをつくるようなことは、あまり彼の好みではなかった。しかし、隠れた所で人よりも劣った人、人々から見放されている病人、弱者、精神障害者にたいしては特別の愛情を注いでいた。

 聖書学的に言えば田中師は不治の病に苦しむ人、からだの不自由な人、生活困窮者と共にあることによって、彼ら一人一人がいかに神にとってかけがえのない存在であるか、どれほど神によって愛され、大切にされているかを実行していたのである。

 福音書を読むと、イエスは社会的な弱者であった重病人、罪びと、からだの不自由な人たちと深く付き合い連帯しその友となった。イエスのこのような生き方は当時の社会的宗教的な指導者たちからは「酒税人や罪びとの仲間」とさげすまれている。しかし、このイエスこそ、神の子であり、福音のために神から使わされた救い主であったのです。

 機能社会の現代でも社会的な弱者、死の病を抱える病人、精神障害者はたくさんおられる。
「この最も小さい者の一人にしたのは私にしてくれたことなのである」とのイエスの言葉をそのままに実践した田中師の模範に倣い、社会的な弱者や病人とのかかわりをもう一度見つめ直して、一人一人が意識革命を行い差別や偏見のない健康な社会をつくっていきたいものです。

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