パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年

 
 
 

教会の歴史への関心
 
田中師在任時代(昭和35年、青空保育所の運動会風景
応援合戦をしている写真

 編者が平成5年4月、仲知小教区に着任した頃である。仲知教会の巡回教会江袋教会は、明治初期に建立され現在でも現役で使用されている木造の教会として信徒だけでなく、一般の観光客にも人気があり、そのためにここを訪問する皆さんからよく「この教会は誰が、何時、どのように、どのくらいの費用で建てたのですか」と聞かれていた。しかし
これらの質問のどれ一つ知らなかったので、この教会の管理人として非常に恥ずかしい思いをした。

 そこで、歴史に造詣が深くかつて仲知の主任司祭であった田中師に電話で二回も江袋教会は「誰が造ったのか教えてください」と無理にお願いしたら快く引き受け「調査をしておきましょう」との返事。しかし、その後、先輩の田中師は肝臓病が悪くなるばかりでつい江袋教会の調査は出来ないままに終わった。

 仲知には師が主任司祭をしていた時の明治初年に上五島地区で宣教したフランス人宣教師の巡回表と五島地区聖堂祝別表がある。これらはいずれも師が上五島地区の司祭方の要請に応えて仲知の司祭館で調査したものである。

 この歴史調査は仲知と青砂ヶ浦教会に保管されている20余のキリシタン集落の洗礼簿を綿密に調査しなければならないので非常に骨の折れる仕事である。このような面倒な下積みの調査はそれこそ歴史が好きでないと出来ることではない。

 編者は師が作成した資料により、米山教会の祝別がペルー師であることを教えられたが、ここには五島地区聖堂祝別表を載せておくことにする。


 
 
 
五島地区聖堂祝別表
祝別物件
祝別者
  年月日
大平天主堂
クザ ン司教
1893.6. 4
真手ノ浦天主堂
クザン司教
1893.6. 5
井持浦ルルドの聖母像
クザン司教
1899.4 .20
浜串天主堂
クザン司教
1899.11.19
葛島天主堂
クザン司教
1899.11.21
曽根天主堂
クザン司教
1899.11.30
鯛ノ浦天主堂
クザン司教
1903.4 .19
米山天主堂
ペルー師
1903.9 .6
冷水天主堂
クザン司教
1907.5 .29
福見・聖フランシスコ聖像
クザン司教
1908.5 .6
桐ノ浦聖母聖ヨゼフ像
クザン司教
1908.5 .7
堂崎天主堂
クザン司教
1908.5 .11
野首天主堂
クザン司教
1908.10.25
奈摩内天主堂
クザン司教
1910.10.17
楠原天主堂
ペルー師
1912.1 .24
福見天主堂
コンパス司教
1913.4 .29
大水天主堂
コンパス司教
1916.8 .5
大曽天主堂
コンパス司教
1916.8 .6
山ン田天主堂
山川師
1917.6 .7
江上天主堂
コンパス司教
1918.3 .8
土井ノ浦天主堂
コンパス司教
1918.3 .9
頭ヶ島天主堂
コンパス司教
1918.5 .14
浜串墓地
大崎師
1924.2 .13
奈摩内 鐘
コンパス司教
1925.5 .2
中ノ浦天主堂
ヒューゼ師
1926.8 .5
船隠天主堂
大崎師
1926.11.22
有福天主堂
大崎師
1927.2 .22
奈留島水ノ浦天主堂
大崎師
1927.2 .24
浜串天主堂
大崎師
1927.9 .15
丸尾天主堂
大崎師
1928.1 .17
飯ノ浦天主堂
西田忠師
1947.
仲知天主堂
山口司教
1948.8 .10
大浦天主堂
梅木師
1948.8 .12

 
 
 
 
 田中師は昭和58年11月8日、江袋教会創立100周年祭の時に招待されて出席している。その祝賀会会場で浦川和三郎著の「五島キリシタン史」によると江袋の先祖は「市右エ門・チエ夫婦であり、この夫婦が一番最初に江袋の移住開拓した者である」と記されているが、「この記述は正確ではない。最初の開拓者には3組の夫婦がいたのよ。」と当時の宿老であった方々を呼び寄せて語っている。
 

 このことを後で聞いた編者は丁度江袋教会の先祖を調査していた時であったので、自分で確かめようと思い調査してみた。この調査に約1ヵ月もの時間を要したが、結局はっきりしたことは分からないままであった。それでも苦心惨憺し400字詰の原稿用紙に10枚程の原稿を書いていたが、「記念誌に載せることにはふさわしくない」と思いその原稿は消却してしまった。今では少し残念に思っている。

黒島教会記念誌
 

 田中師は平成2年4月15日「信仰告白125年 黒島教会の歩み」を出版している。この時、師は黒島教会の主任司祭であった。私には黒島の信仰の歴史に関心があったので、このような記念誌を発行している、と思われるのでここでは、師を追悼する意味で記念誌の中から「発刊に寄せて」と「あとがき」とを載せることにしたい。

発刊に寄せて
 
 

 「1865年5月19日、黒島のキリシタンの信仰告白から125年、フランス人宣教師ポアリエ師が最初に黒島に来られたのは1872年。その6年後の1878年ペルー師によって、名切に教会堂が建設されて今年で110余年を迎える。
故今村悦夫師は黒島教会教会誌を作成しようとなさったが、病のために志し中途にして帰天され、今日にいたった。

 私達は、迫害に耐え守り通した600人の残した信仰の深さ、またこうした信徒のために来島し彼らを励まし、勇気付けた宣教師および教会を築きあげた先人たちの功績を忘れがちである。

 宣教師たちが蒔いた種がどのように芽を出し、根を張り成長しつつあるか、また私たちがどのようにして大きく伸びなければならないかを考えましょう。
それは何も難しいことではありません。
「キリストの大事業で、あなたの演じる役はせいぜい大きな機械の小さなネジに過ぎないことは事実だ、けれども、ネジがしっかりししまっていなかったり、はずれたりしたらどのようなことがおこるか分かるでしょう。機械の各部分はゆるみ、歯車は壊れてしまう。そうなれば、機械全体が廃物となるだろう。1本の小さなネジの役目を果たす。何と偉大なことだろう」(「道」、エスクリーバ著)

 また「わずかなものに忠実であったから主人の喜びに加われ」これはキリストのみ言葉である。このみ言葉を実行する者には永遠の栄光が約束されていることを考えなければなりません。
こうしたことを忠実に守り、伝えて来た祖先の信仰という大きな遺産を偲ぶために教会誌の編纂に取り組んだのである。

 しかし、私達は過去の歴史を懐かしむだけでなく、祖先が築いた信仰を益々強め、新しい霊的な教会作りのために神からいただいているカリスマ(召命と恵み)によって、それぞれの役割を果たして完成に向けて力強く歩み続けなければなりません。

平成元年12月
あとがき
 
黒島教会の中学生と記念写真

 1865年5月19日、黒島のキリシタン20人が、島の600余人の信徒を代表して、カトリック司祭であるプチジャン神父様に信仰告白して125周年になる。

 潜伏キリシタンたちは司祭がいなかった時代にも、洗礼と婚姻の両秘跡だけは保ちつづけて来たが、長い間待ちつづけてきた甲斐があって、司祭に対面できた喜びはいかばかりであったろう。しかし、宣教師たちはすべての秘跡の門である洗礼の秘跡の有効性を確実にするために、その準備に取り掛かった。水方に正しい洗礼の授け方を教え、聖教初要理、お水帳、ろざりお15のみすてりお図解、祝日表の印刷、十字架、聖母マリアのメダイを配布などして心の準備と教理の理解をさせ、罪の赦し、ご聖体の秘跡を授けた。

 明治13年警察からパスポートをもらってやっと宣教師たちは自由に行動できるようになった。それまでは、水方ならびに長方が司祭とのコンタクトを取りながら、信徒を秘跡に預からせるための活動に専念した。つまり、信仰告白は秘跡に与りたいとの一念でカトリック司祭との出会いであり、それを準備する信徒使徒職活動となったのである。

 この活動如何によって潜伏キリシタンの信仰復活か、隠れの状態を続けるのかの勝負どころとなったのだと思う。司祭に会うすなわち秘跡に与る、これを他の人々にも共に与るように働きかける。今日でもその精神においては変わりはない。このことを理解しあうために、編集委員会を結成し記念誌の準備に取りかかりった。

田中師の「黒島教会記念誌」を読んで
新たに判明したこと

(1)、仲知で活躍された黒島出身の中村五作師は、引退後黒島で隠居され死後黒島教会墓地に埋葬されているが、その隣には終戦後仲知から浜田缶詰会社へ集団就職した信徒の世話をした浜口五朗八氏が安らかに眠っている。

(2)、1899(明治32)年から1901(明治34)年まで仲知地区で司牧された2人目の邦人司祭である青木兵助師は、名前を義雄に改名し、昭和6年から昭和22年までの16年間、黒島教会の主任司祭を勤め、昭和14年の助任司祭は昭和19年から昭和22年まで仲知小教区で司牧された畑田善助師である。

 黒島教会の記念誌には昭和14年黒島教会で行われた初聖体女子グループの記念写真が掲載されているが、その写真の中央には当時黒島の主任であった青木師とその助任司祭であった畑田師の写真が載っている。

 

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