パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年


 一本の大樹  黒島教会主任司祭 田中千代吉
 

 日本の教会は、殉教と迫害の苦難の歴史を綴ってきたが、1873年にキリシタン禁教令が撤廃され、1880年にはやっと警察からパスポートを貰って、パリ―外国宣教会の宣教師達が公的に、しかも制限なしに自由に行動できるようになり、五島のあちこちに、共同生活しながら、教会から超自然的活力を受け、自己の生活においては神と人との愛の奉仕をもって、教会の聖性の証人となるために働く女子の共同体が創設されたが、仲知修道院も今年で創設百周年を迎えられ、同慶に堪えません。

 一世紀を終えた大木は、地上にあらわれた目に見える大きな幹と枝と葉は、地下に深く広く大きくひろがっている大小の根に支えられ、その根からは地中から吸い込まれた樹液が幹と枝と葉に流れているものです。

 百年の樹齢の木目には、皆さん方の全き奉献生活により、しかも自分のためには何も残さず、神と隣人愛のためによろこんで、信徒の信仰生活を自らの手本を示しながら教え導かれました。それが大きな年輪となっておりなされています。神への愛と隣人愛は本質的には昔も今も、又世紀を重ねても同じ地平にあるものですが、しかしその表現は時代の流れに応じたものになるのは当然のことですが、教会と共に、創立の精神にてらしながら、現代に生きる修道会の精神に従って、これからも神の聖旨に応えて働かれるように期待しています。

 目に見えない地中に埋もれた祈りと犠牲の大小の根を広く張り巡らして、皆さん方の大きな働きを支え続けて下さい。きっと神の豊かなお恵みと祝福がありますから。

 仲知修道院の姉妹と私の最初の出逢いは終戦後、大浦の長崎公教神学校でした。現在の長崎教区の司祭は殆ど、仲知修道院の姉妹達が炊事の仕事をして、食糧難の時代にも工夫して愛情のこもった料理を準備し、与えられたものは全て残さずいただいたものです。

 その食事のおかげで、血となり肉となったその体力、その手、その腕で、毎日祭壇上でキリストの御体と御血を捧げて、キリストの十字架上のいけにえをくりかえしているのです。こんなにすばらしい奉仕は他にないと思います。働き甲斐があると思っていたのでしょう、長い間、公教神学校で奉仕の仕事をしています。私はしかも司祭になってからも5年間、仲知教会在任中、お世話になりました。深い感謝と御礼を捧げたいと思います。

  (”仲知修道院100年の歩み”から引用)
 
保育所の復旧工事 昭和32年
 
 
 

 

 昭和32年9月、台風のため保育所の裏側の石垣が崩れた。保育事業もようやく軌道に乗り出したと思われる頃、大水害を蒙ったのである。早速石垣復旧工事が園長田中師の指導のもとに開始された。

 曽根郷の浜田組が工事を担当し、地元の信者たちは毎日交代で砂、石、バラスなどの運搬など労働力を快く提供し協力した。田中師も信者たちと毎日泥まみれに汗を流して働かれた。この時司祭館の賄として奉仕したのが真浦タシであったが、司祭館もこの時床上浸水となって畳などの被害を受けた。
 

 

電燈配線工事と水道工事 昭和33年

 昭和33年4月九州電力の電燈配線工事が完成し、仲知の全集落に初めて電灯が燈された。
同年8月には水道工事も完成し、町営の水道が使われることとなり、生活は非常に便利になったことはいうまでもない。

堅信式と田中道 昭和33年8月

 昭和33年8月28日、山口大司教を迎えて仲知教会で堅信式が行われた。受堅者は江袋、仲知、大水、米山、赤波江の児童93人であったが、その準備の稽古は下校後、毎日地元の教え方から習った。堅信が近づくと田中師の試験があり、答えることが出来なければ厳しく叱られていたので、子供たちも親も教え方もいつも真剣だった。木に登り蝉のようにお互いに声を出し暗記していた。また相互に質問し合ったり答えあったりして試験に備えていた。
 

 例えばこの時の受堅者の一人だった瀬戸ひさ子さん(55)は堅信の思い出を次のように語ってくれた。
「一本松と竹谷の児童は、一本松の倶楽部で下校後午後から毎日のように教え方の山添恵子さん(60)から鍛えられた。稽古のある日は、ほら貝で合図があった。当時、教え方の指導は厳しく要理を覚えていないと罰として細い竹の棒で手のひらを叩かれるので、子供たちは倶楽部の近くにあった椿の木にそれぞれ攀じ登り大声で要理の暗記に夢中になっていた。

 堅信式は山口大司教様司式で挙行され、ミサの前に大司教さまから簡単な試験があった。その試験は公教要理の中から一人づつ2 3問質問され、それに答えるという形式で行われていた。どんな質問をされたのか忘れてしまったが、江袋の瀬戸秀子さんが成績優秀ということで大司教様から直々にロザリオをもらっていた。それで自分ももっともっと勉強して大司教様から褒美をもらいたいと思った。」

 島の首の島本広子さんも信仰面においては田中師の教育は非常に厳しかったと言う。

 「彼女の堅信は昭和36年7月29日で入口師の時となっている。しかし、その準備の稽古の殆どは田中師より受けているので、こと教会の稽古の躾に関しては田中師の思い出が多い。その厳しい思い出を持っている彼女にとって田中師は近づきがたい存在であった。ミサや稽古や5月と10月の聖母月信心業の時に、少しでもよそ見をしたり隣の子供とおしゃべりをしているのを見つかると、教会の後ろに1時間くらいは立たされたり、一本松まで山道を歩いてお祈りをして帰って来るという罰を受けたりしていた。

 彼女の堅信の時は、仲知、大水、小瀬良、赤波江、江袋、米山の122人の受堅生で、その会場となった仲知教会は、受堅生だけで教会はほぼ満杯状態であった。」

 このように田中師の頃は、まだ堅信の稽古は厳しかった。堅信の準備の試験にパスするかしないかは子供にとっても親にとっても大変な関心事であった。

 当時の仲知の陸上の交通は不便で、でこぼこの山道であったので、大司教様の送迎は仲知小教区の信徒が全部真浦の浜に集まってしていた。田中師は堅信が近づくと、山口大司教様を歓迎するために真浦の海岸から教会までの道をコンクリートの道にすることを計画され、仲知郷民の労力奉仕により完成させた。勿論そのとき田中師は陣頭指揮に立つだけでなく、自らも信徒と汗まみれになって働かれた。

 さらに、昭和36年3月には、信徒が日曜日のミサにしても平日のミサにしても気持ちよくミサに参加できるように、校長住宅から教会へのアップダウンの激しい、細い道を、人が安全に通り易いようにするためコンコリート舗装することを計画され実行された。
 

 ところが、この時、師に転任辞令が来た。このことを何も知らない真浦タシシスターはすでに賄い奉仕は終了していたが、師に「小値賀に行くなら縄を一縄分購入してくれ」と頼まれた。そのとき真浦タシシスターは、師が舗装工事をしていたので、てっきり工事用の縄であろうと思い込んでいた。ところが、その縄は転任の荷造り用の縄であったのである。
 

アンゼラスの鐘新設 昭和34年

 昭和34年3月25日、「神のお告げの祭日に相応しく田中主任司祭によって修道院の敷地内に、仲知教会のアンゼラスの鐘(木造)が設置された。
 

 このお告げの鐘が仲知の全集落に響き渡るように、真浦の山、久志(樫の木山)、赤波江に拡声器を取り付け、その配線工事がなされた。こうした計画は田中師のお骨折りによって実現した。

 この時以来、修道院のシスターたちの役目であった「ほら貝」吹きの務めは完了した。この「ほら貝」吹きは明治39年、仲知教会が主任座となった時から始まっている。

 ごミサはもちろん、教会のいろいろな行事、聖体降福式、公教要理、葬式、日曜日の午後の祈りなどが始まる30分前に合図して”寄せ貝”を吹いていた。ほら貝の吹き手である修道院の会員たちは、雨の日も冬の寒い日もいとわず、久志の樫の木山まで登り、真浦、久志、島の首の3つの方向に「ほら貝」を吹くのである。

 ほら貝の音色、調子によって吹いている会員が誰であるか判別されるほど、ほら貝は仲知の生活と溶け込んでいた。

「仲知修道院100年の歩み」より
 

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