信徒使徒職時代
1867(慶応3)〜1878(明治11)


3 江袋教会




 江袋教会には、今野与八、本島五郎八、谷口熊吉という3名の伝道士と、姓はわからないがタミという伝道婦がいた。年長者であった今野与八(1838年生まれ)は、クザン師が慶応3年、森松次郎伝道士の要請に応えて来島された時、同師から聖教を学び、島田喜蔵の家族と一緒に長崎へ行き、洗礼を受けた。

 しかし、そのことが曽根郷民の耳に入って問題となり呼び出されて詰問された。このため、島田喜蔵の家族は浦上へ逃げたが今野与八は郷里に残り、伝道活動をした。
 
 江袋のキリシタンは、彼の受洗後、明治2年に2名、明治5年に4名、明治6年に6名、明治7年に1名、長崎で洗礼を受けている。そのうち彼に導かれて洗礼の恵みを受けたのは、浜上助八、山口文造、○○市太郎(姓は不詳)の3名である。

 洗礼簿を見ると、3名とも長崎でボアリエ師より受洗し、代父はいずれも今野与八となっている。

 彼は伝道士としての仕事は明治6年頃に彼より若い本島五郎八と谷口熊吉に譲っている。しかし明治34年頃までは江袋教会の役職に就いて教会の発展のために大きな力となった。

 本島五郎八と谷口熊吉の両名が江袋教会の伝道士であったことは、「五島キリシタン史」にも紹介されている。

 江袋教会の洗礼簿を見ると、本島五郎八の洗礼は明治2年4月26日。谷口熊吉の洗礼は、同年11月26日でいずれも長崎・大浦天主堂でアマール・ウィリオン(AmalWillion)師から受けている。受洗後2人とも郷里で伝道士となり、まだ洗礼の恵みを受けていないキリシタンにカトリックに復帰するよう呼びかけた。

 本島五郎八(1855年生まれ)は、間もなく(明治7年頃)島田喜蔵青年と一緒に神学校に入学した。その当時の神学校は長崎ではなく、マラッカ半島のピナンにあった。しかし、数年後黄疸症にかかり帰郷した。

 帰郷後は伝道活動を再開し、江袋を中心に近くのキリシタン集落やかくれキリシタンの集落に足を伸ばし宣教活動を行った。しかし、明治18年(31才)にその頃流行していた伝染病で他界した。

 彼の最期は、グロリア(賛美歌)を歌いながら息を引き取ったといわれている。しかし、伝染病だったので親戚の人も集落の人も寄りつけず、淋しく集落の若者ただ2名に担がれて人里遠く離れた“折り下り”の山峡に埋葬された。大正4年頃、江袋教会の宿老をしていた谷口栄吉等が中心となって郷民と話し合い、彼の遺骨を掘り出して愛する先祖の待つ古里の墓地に改葬した。

 その理由としては、江袋教会のために多大な功績があった人を淋しい山の中に置き去りにして恩を忘れては、将来子孫の繁栄はありえないと考えたからである。現在道田高吉神父様の隣にある墓碑が彼の墓となっている。
 
 

道田師の墓碑 本島五郎八の墓碑

 一方、谷口熊吉(1846年生まれ)は、曽根出身であるが、いつ頃江袋に移住したのかについてはわからない。しかし、18才の頃より早くも江袋教会の水方という役職について活動していた。

 その彼が、本島五郎八と共に伝道士となったのは、24才の時である。伝道士となっても、水方の仕事は明治14年まで続けている。しかも、明治5年から明治14年まで江袋教会で出生した新生児は、すべて彼の手によって仮の洗礼が施されている。

 更に、赤波江や大水の信者から依頼されて洗礼を授けることもあった。水方としての務めは、明治14年にはなくなるが伝道士としての務めは、生涯熱心に果たした。彼は現在江袋に居住している谷口姓の人とは血縁関係はないが、初期の江袋教会の基礎を築き上げた人として、今野与八、本島五郎八と共に江袋教会の恩人の一人であることを忘れてはならない。
 
 

4 赤波江教会



 1870年代の赤波江は戸数8戸ばかりの小さなキリシタン集落で、大瀬良宗五郎、赤波江助作という2名の伝道士と赤波江キタという伝道婦がいた。

 大瀬良宗五郎(1845年生まれ)は浦上出身で、1862年頃から水方の役職について、赤波江、大瀬良、仲知、明松、立串、小串で先祖伝来の信仰を伝えていた。明治5年には長崎へ行き、宣教師から聖教を学び、帰郷後同じ地域で伝道活動を行った。

 一方、赤波江助作(1840年生まれ)は野首出身。1860年頃、小串のタシと結婚後赤波江へ移住したが、彼の洗礼のことは「五島キリシタン史」には記されていない。

 しかし、野首で一番最初に長崎で洗礼を受けた白浜岩助と白浜又五郎とほぼ同じ頃に、長崎で洗礼の恵みを受けている。

 帰郷後、赤波江を宣教拠点にして本格的に宣教に励んだ。その活動範囲は水方としても伝道士としても、赤波江、野首、瀬戸脇、大瀬良、明松、大水と広域にまたがっていて、仲知小教区では、第2の森松次郎と呼んでもよいほど活動した人である。

 彼の導きにより洗礼の恵みを受けた信者は多い。たとえば、大水の開拓者大水安五郎・マシ夫婦の3男大水徳造(1830年生まれ)は彼自身が代父となり、明治6年10月29日、長崎で洗礼を受け信仰を表明している。この時の授洗者は上五島での最初の宣教師、フレノー師であった。

 赤波江キタ(1856年生まれ)は長崎で洗礼を受け、帰郷後伝道婦となった時はまだ17歳といううら若い娘だった。

 しかし、どんな迫害にも屈しない母ヤスの強い感化を受けて熱心に伝道活動を行った。彼女の伝道活動の主な場所は大水であり、大水には彼女の導きでカトリックに復帰した信者は多い。

 たとえば、大水徳造の妻テルの場合、長崎で明治7年3月2日、サルモン師より洗礼の恵みを受けているが、その時の代母は赤波江キタである。彼女は同年の8月と9月にも長崎へ出向き、大水の洗礼志願者を洗礼に導いている。
 
 
 

5 仲知教会

 仲知の伝道士は、水元作平(1855年生まれ)という青年だった。彼がいつ頃信仰を公表し伝道士となったのかはわからない。

 仲知教会の洗礼簿を見ると、19才(明治7年)頃から真浦岩五郎の後を継いで水方をしている。明治8年から明治14年までの6年間に仲知で生まれた新生児(35名)のほとんどは彼が洗礼を施している。

 水方になって2年後には伝道士ともなり、まだ信仰を公表することをためらっていた仲知のキリシタンに要理を教え、カトリックに復帰させるために大きな力となった。

 明治初期、仲知にあった寺子屋風の学校では、彼が教師をしていたという伝承もある。その彼が伝道士であったことは確実で、その長男水元喜蔵と親子2世代続けて生涯伝道士として教会に献身した。
 
 

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