マルマン師

 

ヨゼフ・マルマン神父

 

所 属   パリ外国宣教会

創立修道院 奥浦慈恵院(1880

      水の浦養老院(1884

出 身   1849年 フランス、リヨン

叙 階   1875年 パリ外国宣教会入会

      18769月司祭叙階

活 動

 叙階後間もなく日本宣教に派遣された。南韓管区で活躍し、1878年下五島の宣教に携わり、10年間で堂崎教会などいくつかの教会を建築。1880年には大泊に「子部屋」創立、1884年水の浦の「養老院」創立を指導。1888年から長崎港の近郊の島々の司牧を担当し、馬込教会を建築する。1892年、大島、琉球の宣教に携わり2つの教会を建築する。1895年黒島に赴任して教会を建築し、初代主任司祭として司牧にあたり、黒島愛苦会を指導し援助する。1912年黒島で帰天、黒島に埋葬される。

           お告げのマリア修道史 「礎」より

 
 

1873年(明治6年)徳川家康によって行われたキリシタン禁教令は解除され、長い迫害と弾圧の時代が終わった。日本の教会は250年振りに復活した。しかしキリシタンに対する邪教観と偏見に基づく習慣等は直ちに消滅することなく、その後も何らかの形で迫害行為は続いた。そうした中で宣教師たちの活動は公認され、日に日に宣教司牧の活動は活発に行われる事になった。

しかし、宣教師を下五島にお迎えし、直接の指導のもとにミサ聖祭にあずかり、秘蹟を授かるようになるのは、禁教令解除後7年目の明治13年(1880年)のことである。

パリー外国宣教会司祭が、公に初めて五島(鯛の浦)に派遣されたのは明治10年といわれ、フレノ師に次ぐマルマン師が、下五島地区の司牧を委ねられ、奥浦の大泊に落ちつかれた。この時から水の浦も巡回司牧のもとに活発な信仰生活が営まれるようになった。

 

明治6年以来、水の浦でも宣教師を迎える日まで部落の代表、特使を長崎大浦に派遣してミッション会の司祭方と連絡をとり、その指導にしたがって秘蹟(洗礼、告白、聖体等)を受ける準備をしていた。禁教令下の時から危険を顧みず養成してきた伝道士、伝道婦等を中心に要理を学びそして祈りに励んだ。

マルマン師の巡回は年に数回あったといわれるが、当時の交通状態は陸路は未開発、海路(帆船カテンマ船)は天候に左右され、危険で思うままにならず、もっぱら徒歩に頼る以外になかった。マルマン師は馬をつかっておられたが、巡回司牧の難儀、不便さをしのいで各小教区の隅々まで巡って信者を励まし、復活教会の信仰を育てた。水の浦巡回の折、特に宿老、教方(潜伏時代、帳方・水方の組織は、宣教師方の指導によって、宿老、教方制度になった。)達の家には必ず立ち寄って励ましの言葉をかけていた。彼らの家に近づくと、外人特有のアクセントで親しげに大声で名前を呼び、わざわざ訪問していたという。司祭が常駐しない巡回司牧の時代、教方や宿老野役割は重要で、その使命は大切なものであった。司祭の務めに協力し、教会を守っている彼らへの思いをこめ、その労をねぎらうため励ましの訪問であった。

明治13年(マルマン師が下五島地区主管者となられた年)奥浦村大泊、つまりマルマン師の膝元で「養育の仕事」が信仰篤い婦人等によって始められた。

当時、この地方にも非常に多かった不幸な子供たち(捨て子、不具者、私生児、孤児と間引きによって暗に葬られる赤子)の救いのための愛の奉仕であり、そのために神に一生を賭けようと集まった敬虔な婦人達がいた。

この共同体はマルマン師の指導によって生まれ、「女部屋」といわれたが、今日の奥浦修道院が経営する「慈恵院」の起源であり、修道院の原点である。

更に浦上では既に明治10年(1877)岩永マキ等同志の婦人等によって、同じくミッション会司祭の指導のもとで「十字会」の創立がなされ、活発な愛の奉仕が始められていた。長崎を中心に教会に復帰する者の数は日増しに多くなり、岩永マキたちの信仰と愛のあかしの業は平戸や五島の各地に伝わり、敬虔な乙女たちの心を動かし「女部屋」の創立を促したのである。

水の浦修道院史より

 
 

「慈恵院」創立者マルマン師

 マルマン師は、1849(寛永2)フランス・リヨン市に生まれ、スーザン・カルジナルの甥にあたる信仰篤い家系に育った。1870(明治3年)21歳のとき、独・仏戦争に志願して神学校在学中に出征し下級将校となったが、戦後、神学校(アン県・ブルー大神学校)にもどった。

 1875(明治8)9月、26歳でパリー外国宣教会に入会し、翌1876(明治9)923日、27歳で叙階された。同年112日、直ちに日本に出発し、南日本で宣教した。

 明治10年、フレノ師と五島に渡って各地を巡回司牧していたが、明治13年、31歳で下五島の司牧に専念することになり、大泊に「養育院」の仕事を始めたのであった。師は、明治209月、クーザン司教の依頼によって、長崎港外伊王島へ転任されることになった。師はその後、明治28(1895)46歳の時、北松地区の黒島の初代主任司祭として赴任した。障害をこの地の司牧にかけ、明治45(1912)824日、63歳で、黒島教会で帰天、同教会墓地に埋葬されている。

 五島においては師が創立した「養育事業」および「修道院」は、7年の歳月を基礎作りはなされたものの、これから軌道にのせられるときであった。マルマン師は、すべてを後任のペルー師に託して五島を去ったのである。この時、マルマン師は38歳、ペルー師は40歳の働きさかりだった。

 

 マルマン師は1877(明治10)、下五島地区司牧を担当、先ず、大泊に落ち着かれた。当時は、交通の便も、道路もほとんど開かれていないときで、巡回司牧の難儀は想像に余りあるものがあったが、宣教師と信者たちは互いに励み復活教会の建設に励んでいた。

 このような時代、奥浦村大泊に腕のよい産婆、キリシタンの梅木マセという人がいた。その当時は、産婆の仕事のできる人は少なかったので非常に重宝がられ、各地を巡り歩いて人々を助けていた。彼女は、その仕事にたずさわりながら、人々の貧しさの中に、更に大きな悲劇を見ていたのである。

 江戸時代から行われていたいわゆる“間引き”が今なお続いていることに加えて、貧困家庭の子女、不義の子、不具児、双子(当時は恥とされていた)等が、闇から闇へと葬られていた。彼女はマルマン師にこれらの現実を報告した。

 

育児事業の起こり

 マルマン師は、早速こうした不幸な子等を集めて救済に乗り出した。マルマン師の賄いを務めていたヨアンナ浜崎ツイ(奥浦村間伏出身、当時21歳)に、そうした不幸な子供たちの世話を依頼し、大泊の一民家を借り受けて養育を開始したのである。時は明治13年(1880)1017日のことである。これが現在の養護施設奥浦慈恵院の“起こり”である。

 
 

「慈恵院」創立者マルマン師

 マルマン師は、1849(寛永2)フランス・リヨン市に生まれ、スーザン・カルジナルの甥にあたる信仰篤い家系に育った。1870(明治3年)21歳のとき、独・仏戦争に志願して神学校在学中に出征し下級将校となったが、戦後、神学校(アン県・ブルー大神学校)にもどった。

 1875(明治8)9月、26歳でパリー外国宣教会に入会し、翌1876(明治9)923日、27歳で叙階された。同年112日、直ちに日本に出発し、南日本で宣教した。

 明治10年、フレノ師と五島に渡って各地を巡回司牧していたが、明治13年、31歳で下五島の司牧に専念することになり、大泊に「養育院」の仕事を始めたのであった。師は、明治209月、クーザン司教の依頼によって、長崎港外伊王島へ転任されることになった。師はその後、明治28(1895)46歳の時、北松地区の黒島の初代主任司祭として赴任した。障害をこの地の司牧にかけ、明治45(1912)824日、63歳で、黒島教会で帰天、同教会墓地に埋葬されている。

 五島においては師が創立した「養育事業」および「修道院」は、7年の歳月を基礎作りはなされたものの、これから軌道にのせられるときであった。マルマン師は、すべてを後任のペルー師に託して五島を去ったのである。この時、マルマン師は38歳、ペルー師は40歳の働きさかりだった。

 

 マルマン師は1877(明治10)、下五島地区司牧を担当、先ず、大泊に落ち着かれた。当時は、交通の便も、道路もほとんど開かれていないときで、巡回司牧の難儀は想像に余りあるものがあったが、宣教師と信者たちは互いに励み復活教会の建設に励んでいた。

 このような時代、奥浦村大泊に腕のよい産婆、キリシタンの梅木マセという人がいた。その当時は、産婆の仕事のできる人は少なかったので非常に重宝がられ、各地を巡り歩いて人々を助けていた。彼女は、その仕事にたずさわりながら、人々の貧しさの中に、更に大きな悲劇を見ていたのである。

 江戸時代から行われていたいわゆる“間引き”が今なお続いていることに加えて、貧困家庭の子女、不義の子、不具児、双子(当時は恥とされていた)等が、闇から闇へと葬られていた。彼女はマルマン師にこれらの現実を報告した。

 

育児事業の起こり

 マルマン師は、早速こうした不幸な子等を集めて救済に乗り出した。マルマン師の賄いを務めていたヨアンナ浜崎ツイ(奥浦村間伏出身、当時21歳)に、そうした不幸な子供たちの世話を依頼し、大泊の一民家を借り受けて養育を開始したのである。時は明治13年(1880)1017日のことである。これが現在の養護施設奥浦慈恵院の“起こり”である。



  
   
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