大窄政吉主任司祭

 

パウロ 大窄 政吉(水ノ浦) 第13代主任司祭

 

1904(明治37)年        岐宿町楠原に生まれる

1933(昭和 8)年 12月23日 ローマにて叙階

1935(昭和10)年        公教神学校教授

1941(昭和16)年        浜脇教会主任

1943(昭和18)年        平戸教会主任(生月教会巡回)

1952(昭和27)年        長崎公教神学校校長

1955(昭和30)年        高血圧のため、姫路聖マリア病院に入院

1957(昭和32)年  4月 8日 姫路市聖マリア病院で帰天 52

 
 

大窄君等の叙品 副助祭−助祭−司祭

(カトリック教報 第124号 昭和81215日付)

 校長様!司教様が御病気との報知に接し、非常に心配してゐます。御容體は如何でございませうか。校長様を始めとして皆々様の御心配のほどを深くお察し申し上げます。私たちは一日も早く司教様が御全快になられるやう毎日熱心に祈つてゐます。何卒充分に手落ちなく御介抱申し上げて下さいませ。

 私たちの副助祭叙品に際して、恩師たる神父様の慈父的愛情のこもつた御祝詞に接し、大いに感激致しました。厚く御禮申し上げます。私たちは皆々様の熱烈なる御助力によつて非常に感銘深く副助祭に叙品されました。実に母校の長崎公教神学校では、八日間毎日ウニエ・クレアトルを歌ひ、同じく母校の東京大神学校でも、叙品の前晩、カンドウ校長先生が神学生に命じて私たちのために祈らせて下され、又私の父母、兄弟、姉妹、親族は勿論、その他神父様の御好意によつて教報に掲げられた私たちの手紙を見て、僅かでも私たちを記憶してゐられたお方はお祈り下さつたことでせう。それから全世界の信者の代表を網羅するプロパガンダ大学の学生は、一週間毎朝、聖體拝領と小さな犠牲と特別の祈祷を以て私たちを後援して下さり、殊にプロパガンダの霊的指導司祭、カネストリ神父様が老練な、聖霊に充満した説教を以て準備させて下さったお蔭によつて、私たちはほんとに絶大強固な決心と筆舌に盡せぬ喜悦とを以てキリストに全ペルソナを捧献することが出來ましたので、非常に満足致してをります。それで私たちは衷心より神父様及び皆々様に御禮申し上げます。

 叙品當時の模様や私の感想−否キリスト様が私の心に御ささやきになつた事と申し上げた方が適切でありませう−それは此の一通りの手紙には書きつくせません。只神父様への御禮のしるしとして、少しだけお知らせ致しませう。絶對的沈黙と祈祷の中に一週間の黙想をなして、能ふ限り心の準備を致しました。叙品の朝早く、雨あがりの朝もやに包まれた山中湖畔のカステルガンドルフオを出發しました。老いたる聖ペトロがその昔杖を曳きながら、ローマへ歩を進めたであろう有名なオスチア街道を私たちの自転車は疾走して行きます。その車中にあつて私はロザリオを爪繰りながら喜悦の第一玄義から榮譽の第五玄義まで、御主及び聖母の御一生に私の過去、現在、將來を照らして黙想し、嬰児キリストが聖母の御腕に抱かれて聖殿に捧献され給うた如く、私もすべてを聖母マリアにまかせつつラザリスト會修院の聖堂に到着致しました。聖堂にあって叙品の時を待ち乍ら、私は寸時をも惜んで黙想を続けました。いよいよカリスに右手を触れて叙品された時、又祝聖された私に聖體を以てお出になつた御主キリストに對し奉つた時のことは書きたくありませんから御免下さい。只私は聖パウロと共に、「我は活くと雖も最早や我に非ず、キリストこそ我に於いて活き給ふなれ」(ガラチア二の二〇)との感想に耽つてゐたことのみを申し上げます。私は大なる満足と司祭的生活へのより熱烈なる憧れに充ちてカステルガンドルフオに帰りました。帰りつくと、神父様たちや学友等が待ちかまへてゐて、「おめでたう」や、握手で腕もなへる程の歓待振りを見せてくれました。

 十月二十九日には助祭になりました。いよいよ品級の秘蹟をうけて霊魂に消ゑざる印を附けられた自分は「他の人々より区別され、聖事に特定された」のだと思ひつくと、実に感慨無量でありました。この叙品の時、私は秘蹟聖寵としては、()聖體についての知識の愛、()福音を最も効果的に宣傳する賜とを求めました。キリストの福音をよく理解し、思・言・行を以て先づ自ら実行し、即ち私自身は福音そのものとなり、聖霊に充満して、以て信者に一層生き生きしたキリストの知識と愛を與へ教外者を説服して、キリストの軽くして甘味なる軛に服せしめ得る賜を祈りました。「私はパウロです。教會の初め、貴方を迫害してゐたサウロを、貴方の偉大なる宣傳者、異邦人の教師たるパウロになし給うた如く、私のすべての欠点を補つて、私をも日本人の教師になして下さい」と。この願いは私の利益のためではなく、キリストとその御血を以て贖はれた日本人のためであるから、必ずお聴き容れ下さつたものと確信してゐます。

 遂に十二月二十三日には司祭に叙品されることに決定しました。今から五十日足らずの日数を毎日指折数へて過し乍ら、特別に聖體への敬虔を以て準備を急いでゐます。副助祭によつて私は全くキリストに占領され、助祭によって、消ゑさる印を受けて聖職に着手し、今や司祭になって、私は、神の御子、神人キリストを人類救済のために犠牲として天父に捧げ奉らうとしてゐるのであります。

 カルワリオ山上にては、至聖なるキリストは至聖なる御自分を犠牲として至聖なる天父に捧げましたのに、私の祭壇上にては、勿論至聖なる天父に至聖なるキリストを犠牲にし奉るのでありますが司祭者としては至聖なるキリストに至聖ならざる私が−たとへ手傳ひとは云へ−加はつてゐます。「至聖ならざる私」この点に、助祭で満足したアツシジの聖フランシスコや聖ベネデイクトの如き聖人たちの戦ひはあつたのでせう。このミサ聖祭の無限の崇高さを洞察する叡智もなく、自分の卑劣をほしいままに味ふ謙遜も持ち合せない私は、一日も早く初ミサ聖祭をささげる時の來らんことを冀つてゐます。只私はキリストが愛と従順とを以てカルワリオ山上に自ら犠牲となり、この犠牲の「手傳」として人間を指定し給うたことのみを考へてゐます。それで聖會の権威者によつて、「汝等が我を選みしに非ず、我こそ汝等を選みしなれ」と私に仰せになるキリストに従ひ、人類救済、特に日本人救済と云ふキリストの大なる愛に参與せんために司祭叙品の日が一日も早からんことを祈つてゐます。

 私は司祭になつても大きな花々しい仕事は出來ないでありませう然しよい加減な司祭にはなりたくないと云ふ野心だけは持つてゐます。この野心を満すためには、私の一切を天主の光榮と信者、教外者の幸福のために犠牲にする、即ち苦しむと云ふことより外に方法はないと考へてゐます。司祭が「第二のキリスト」であるといふことを私は初めて神父様から教わつたのでありました。神学生の間に私は澤山年を重ねましたが、キリストの如く「彼等に従ひ居れり」でもなく「智恵と齢と、神と人とに於ける寵愛とに彌増し居れり」でもなく、私の過去には暗い影が射してゐます。然し現在ではそれを蛇蝎の如く忌み嫌ふ意志を持つてゐます。いよいよ司祭になつたら頭に枕する石もなく、晝はユデア、ガリレアに宣教し、夜は山中に隠れて祈り給うた人の子となり死の床としては苦みの絶頂なる十字架であるべきことを豫想しつつ楽む心を持つてゐます。私はこの意志と心を以て司祭に叙品されたいと考へてゐます。何とぞ私が完全なる準備をなして司祭となり、初ミサを執行することが出來ます様、特別の祈祷と善業をなして下さいませ。そして又長崎の神学生には司祭についての特別の説教をなして、彼等に司祭的感激を與へ以てより熱烈に私たちのために祈らせて下さいませ。私の初ミサは聖パウロ大聖堂にある聖パウロの墓の上で執行致すつもりであります。主旨としては()私の司祭的生命に感謝し、()日本帝國に多くの偉大なる司祭的生命を願ひ、()日本に於ける司教、司祭、神学生が聖霊に充満して、以て日本に於けるカトリツク運動が益々盛になる様に……以下略

 十一月八日ローマにて

助祭 大窄 政吉

浦川神父様

 
 

(カトリック教報 第145号 昭和9111日付)

大窄師来る

 里脇師と共にローマのプロパガンダに遊学中なりし大窄政吉師は里脇師より一ヶ月おくれて十月五日長崎丸にて上海より帰国せられ、神学教授に任命せられた。師は拉丁語に長じ、音楽にも堪能である。師の神学校赴任はそれこそ適材を適所に置いたものと謂はなければならぬ。

長崎教区の異動

 長崎教区にはローマから里脇大窄の両司祭が新たに帰朝せられた結果、可なり大きな異動が行はれることになつた。先づ梅木師は昨年の御怪我が今に全快せず、到底劇務に堪へないので、島原教會に退いて静養することゝなり、里脇師は之に代つて大浦教會の主任且つ長崎教区の會計に任ぜられ、大窄師は今村師に代つて神学校に教鞭を執ることとなり、今村師は久賀島の清水師と交代し、清水師は多病な為に蔭尾島の島守となり、大村の片岡師は西彼杵郡の大島教會に退き、大村は諫早の山口師が擔當せられることゝなつた。然し浦上の主任守山師が十月初旬より病の為め床に就かれることゝなつたので、南田平の中田師が一時あその代を務め、當分の中清水師はそのまゝにして今村師が南田平の留守を預かることになつた。

 
 

カトリック運動  (カトリック教報 第8年第19号 昭和111015日付)

一.定義

 カトリック運動といえば、運動なる言葉に気をのまれて、直ちにものものしい団体的機構とか、はなばなしい社会事業とかを想像させられるのであるが、それは該運動の偶性的な表現であって、本質ではない。本質を離れて偶性的な事に就くのは、畢竟から騒ぎをなし、秩序を乱し、随って社会にも個人にも害をきたす所以である。よって、あらゆる方面にカトリック運動の必要を叫ばれている今日、殊に、十月の布教を期して、カトリック運動の本質等について再吟味をなすことは重要なことと思われる。

 幸いに、布教の教皇ピオ第十一世様は、その最初の回勅によって、既にカトリック運動の明瞭なる定義を与えていられる、曰く「カトリック運動とは、俗人が、司祭の使徒的聖務に参与することをいう」と。

 司祭の使徒的聖務に参与するということを理解するには、まず使徒的聖務とは何かを理解していなければならぬ。

 品級という神法によって司教、司祭、その他の聖職者があり、なお、ローマの教皇と全世界の司教の下に、聖会法によって信徒の司牧にあたる主任司祭という特殊の階級が、全世界三億万という大衆の信徒を擁して、ここに世界第一のカトリック宗教団体を形成しているのだが、この団体は、教導、成聖、統治の三権能下に統制された真実にして完全、可見的にして、かつ、救霊という超自然的目的を追う必然的社会として確立していることは顕然たる事実である。この社会を教会といい、二つに区分して、信徒の大衆を「教えられる教会」、教皇、司祭などの階級を「教える教会」と称する。聖職者とは、この教える教会に属する人々をいうのであって、教を説き、聖祭を行い、秘跡を施す等の聖務を司る事としている。この階級及び聖務を歴史的に考察してみると、十二使徒等よりその権利義務を受け、使徒等はまた直接キリストよりそれを受けた。そして、キリストは、亡んでいる者を救おうとして、御父より遣わされ、救済の恩恵を世々の人類全般に及ぼそうとして、ペトロを頭とする十二使徒を選抜して教会を設立し、これに教導、成聖、統治の三大権能を付与したことが立証されるのである。

 故に使徒的聖務とは、「教える教会」に属する聖職者が、キリストの人類救済事業を継続するために司る事務を言うのである。

 

二.性質

 今、カトリック運動とは右のような意味の使徒的聖務に「教えられる教会」に属する信徒が参与することをいうのであるが、それは勿論、信徒が司教司祭に代わって、説教壇に立ったり、聖務を行ったり、秘跡を施したりするという意味ではない。個人に、家庭に、社会において、力の及ぶ限り前衛となり、或いは後衛となって、精神的に、物質的に聖職者を援助し、以てその聖務の遂行を期せしめるのをいうのである。故にカトリック運動は現世的でもなく物質界にも属せず、ましてや政治的でもない、全く純然たる精神的、天上的にして、かつ、宗教的運動である。勿論、キリストの王国という一個の社会の立場から、すべて人間社会の表面に現れる大問題を宗教道徳に関する限り、キリスト教的原理に基づいて解決して進むので、その意味に於いて、また社会的運動でもあるわけである。

三.目的

 「個人の上に、家庭や社会の中にキリストの王国を広めて救霊を計る」というのがカトリック運動の遠い目的であるが、近い目的としては、人類の良心をキリスト教的に養成するにある。この二つの目的は不可分の事柄にあり、最も近い目的を貫くことによって、遠い目的に到達するということになっている。この近い目的を貫徹の手段として、運動員に要求されるのは、堅実なる信心、天主や霊魂上の事に関する相当なる知識、活動的奮発心、教会聖職に対する絶大なる奉仕心である。これらの手段によって自己の宗教的、道徳的教養を深め、家庭人として、また社会人としての義務を忠実に果たすならば、必然的に他にその感化を及ぼしていくわけである。

四.本質的要素

 a自己のキリスト教的完成ということは、運動員が絶えず考えていなければならないことであるが、しかし、それはカトリック運動そのものの終始する何物でもない。

 b終局的に志すべきは、宣教である。その宣教に俗人が加わるのである。しかも随意に宣教するのではなく、聖職者の指導下に行わねばならない。この聖職者の手を離れるということは、カトリック運動そのものの死滅だと思わねばならない。

 cこの運動は組織的に行わねばならない。しかも、聖職者の階級にならって、まず、主任司祭を中心とする小教区カトリック運動を起こし、それをまとめて、司教を中心とし、かつ、司教の膝下に総指導の本部を持つ全教区カトリック運動を組織する。それから全国各教区の連絡を計って、全国的カトリック運動という様な整然たる運動に移らねばならない。(具体的にカトリック運動は何をなすべきかはここに省略する)

 
 

聖マテオ福音書講義  (カトリック教報 第209号 昭和1271日付)

第八章

()ペトロの姑癒される(1415)

 百夫長の僕のらいふうの平癒を記して、キリスト様のメッシアとして偉大なる権能を証明した聖マテオは続いて、ペトロの姑の平癒を述べて、キリスト様の権能は如何なる種類の病をも癒すことが出来る。絶大の権能と慈悲を持つメッシアの姿がそのままキリスト様の御身に現れていることを証明しようとする。「イエズス、ペトロの家に入り給いて、彼が姑の熱を病みて臥せるを見、その手に触れ給いしかば熱その身を去り、起きて彼等に給仕したり」。(マルコ1・2931、ルカ4・3839)

 マルコ伝とルカ伝を見ると、キリスト様はガリレアにお帰りになって、カファルナウムに下り、安息日に会堂に至って、悪魔つきをお癒しになってから間もなくこの奇跡をお行いになったものと思われる。会堂を出て、直ちにペトロの家に行き給うた。マルコはその家をシモンとアンドレアの家と呼んでいる。もっともアンドレアはペトロの兄であったから、キリスト様へ弟子入りをする前には共に往っていたはずで、そんなに呼んでも差し支えないわけである。しかるに、ヨハネ1・44に、ベツサイダをペトロとアンドレアの町といっているし、しかもペトロとアンドレアの家での出来事としてあるので、この奇跡はカファルナウムに於いてではなく、ベツサイダで行われたのだと主張する者もいる。しかし、マルコ1・33の句はカファルナウムの出来事として考えなければ理解されないので。

その主張は認容され難く思われる。ある人はまた、ペトロはベツサイダ出身であるのに、どうして家をカファルナウムに持っているのか、それを不審に思っている。しかし、それは何も不審に思うには及ばない。姑がそこにいたと記してあるから、ペトロの妻はカファルナウム町の者であったので、そのまま妻の家に向かうことになっていたか、或いは、漁業のためカファルナウムに住むのが好都合なのでアンドレアと協議して、そこに家を持っていたかである。ある人はまた難問を発する。即ち、ペトロはキリスト様に向かって、「我等は一切を措たり」と申したのに、どうしてペトロの家と今更言うことが出来るか。それで、ペトロの家とここで言ってあるのは、今ペトロの家だという意味ではない。かつてペトロの家であった、或いはペトロの父の家であったという意味であると。しかし、この解釈は未熟である。なぜなら、使徒達は最初から一切を捨てて、主に従ったのではない。しかも右の出来事は、一切を捨てる前のことだということはルカ5・
11を見ると了解される。なおまた、マルコ1・18、マテオ4・20には網だけを置いて、一切を捨てたつもりで主に従っているが、ルカの5()にはやはり網も船も持って働いている所が記されてある。こういうわけであるから、カファルナウムのペトロの家での出来事だと見た方が最も正確だと考えられる。

 キリスト様は貧しい弟子の家にお立ち寄りになる。それは清貧の美徳を称揚し給う思召からである。しかも、病人を癒すためにお立ち寄りになる。その病人はペトロの姑であった。ルカ4・38には「重き熱」と記してあるから、熱帯地によくある熱病に悩まされていたであろう。キリスト様はこの病を癒すために手に触れる。御自分の至聖なる人性を以て、病を追い払うべきことをお示しになるのである。他の福音書には言葉を以て命じたと記している。行為と言葉を以て病を癒し給うのであるが、これこそ秘跡の立派な象徴である。奇跡は直座に行われた。姑は直ちに立ち上がって、気も晴々となり、御主のおもてなしに取りかかる。御主から治して頂いた勢力をそのまま御主への奉仕に用いたのである。これこそ、秘跡に勢いづいた精力を以て、信者たるものは主の道をいそしまねばならぬ道理を明白に教えたものである。
 
 

思想 一九三七年と日本カトリック

(カトリック教報 第198号 昭和12115日付)

 「なんじ等行きて万民を救えよ」福音宣伝の大命を帯びて邦国の白める麦畑を見渡す者に、一抹の哀愁を感ぜしめるのは、かり取る素晴らしい装置がないため地に落ちて腐しよくする麦つぶの数多いこと、僅かにつみ取ったのでも、日なずして生気をうしなってしまうことなどである。

 その原因は相応にある。第一は、現代向けにして殊に日本人的聖人がいないからである。日本のカトリック化の問題になると、きまって「殉教者の血は信者の種子なり」とい人がいる。血が如何にして信者を生むうるかを何ら説明したところで、所詮神秘の範囲を超えはしないのであるが、それには相当の条件があるであるから、その辺のことを考えずにただ言っているのならば、それはテルツリアヌスの口真似をしているに過ぎない。そんな人にまず考えて頂きたいことは、日本のために流された鮮血は、すでに三百年昔のものであって、しかも徳川幕府の邪宗門征伐、明治以降の反カトリック思想などによって深くふかく地の底に埋没しているということである。今日日本をおうべき信仰の樹は、今日の新しい現代的鮮血を要求している私は新しい現代的鮮血といった明治以前の鮮血は日本刀を

血のらす物質的のそれであった。今日の鮮血は、大和魂、日本精神を血のらす精神的のそれであるべきである。その鮮血を日本国土に河と注ぐ聖人の欠乏しているのをわれわれはなげくのである。

 第二は、賢人の不足である。過去、現在、未来を一眸の下に集め得る人間的全智者の不足していることである。ピタゴラスの言葉をくつがえしてもいいから、自分は哲学者ではない、ソホスだと断言し得る者がいないことである。いても、それは殆ど悉くソフイスト達である。しかも新派や旧派やざらにある。これ等のソフイスト達は潔く口で論ずるを好まない。先鋭化したせせこましい神経を駆使して、種々雑多なことを探り出しては、これを突き込んで腹を真っ黒くなし、そうして以て腹で論するを偉としている。その結果、上の者に落ちつきと見識と寛容がなく、下の者に何か油断を狙う気持ちと不意を装う気構えとがあって、互いに腹を探り合って、想像と憶測とで仕事をするようになっているので、一種いうべからざる不安と憂鬱とが漂っているのである。こんな雰囲気に活気と進歩がないのは極めて自然である。

 第三に、無計画無方針で、その日暮らしのやりっ放し的気風である。新年を賀する言葉や文字は巷に溢れ、紙片に満ちているが、その祝賀する新年に適する計画の一班だも見出し得ないのは、強ち吾人の寡聞のみではあるまい。古い人たちは伝統を固守し、伝統を離れることを極度に恐れ、伝統に改革の手を下さんとする者を異端視しようとする感情に動いている。新しい人たちは種々の新しい計画を試みているようであるが、やおもすれば、徒らに古き伝統の破壊に終わる傾向がなきしも限らない。悲しいかな、一段高い所から伝統と現在及び将来の世態の動きを見下して、その適合した素晴らしい実質的な計画を立てた者のあるを聞いたことがない。案外大きな人物はそんななぎさから身を引いて、青雲の立ちのぼる時期を待っているのかもしれない。

 ここまで述べて、われわれは日本カトリックに問う。一九三七年の覚悟はよいかと。

 
 

生きた布教  (カトリック教報 第360号 昭和2981日付)

 

 去る六月初旬、東京で開かれた布教委員会の協議した諸種の方策が、教会当局の裁可を受けて決定したので無駄のない合理的な布教活動がいよいよ全国的に展開される運びとなった。永年の宿望がその緒についたようで、うれしくてたまらない。しかも、その活動には司祭や修道者、伝道士という職務を帯びた者たちばかりが当たるのではなく、信者全体こぞっての参加が必要とされている。そして、信者の選良ばかりではなく、特に「信仰うすき者よ」と自らを恥じている謙遜な信者が先頭に立っての布教活動であるから、素晴らしい成果をもたらすことだろう。そして、全国過半数の信者をかかえ、しかも「眠っている」と非難されるほどに謙遜でおとなしい信者揃いの長崎教区に多くを期待されていることは尊い名誉である。

 さて、布教活動は、これを言い換えると、キリストの神秘体の生命活動である。生命活動とは内在運動である。内在運動とはその運動の発動も終局も、運動主体の裡にあって、運動主体を完成する働きである。このような生命活動の第一根源は魂である。故に、魂あるものは生きたものであり、生きたものは動き、動くものは自己完成をなしとげる。それで、布教活動は、キリストの神秘体(我々信者)が自ら動き出して、未信者という霊的に死んだ諸要素を摂取同化して、神秘体に加え、神秘体の発達完成をもたらす生きた働きである。故に生きた布教活動でなければ、本当の布教活動はない。この神秘的生命活動の第一根源はキリストの霊、すなわち聖霊という魂である。聖霊は聖父と聖子との完全なる相互評価より出でて実在し、活動してやまぬ永遠の愛そのものである。従って布教活動は聖霊の愛を呼吸するものである。至純至潔の三位一体の愛で生き抜く布教活動こそ、本当の布教活動である。

 もういいかげんに抽象的なおしゃべりはやめよう。なぜなら、愛は抽象的なものではなく、実在の対象に触手をのばし、これを具体的につかまないではやまない性質のものだからである。それで、少しくどくなるかも知れないが、愛に生きた布教活動の一例を挙げて、実地見聞ということにしよう。

 私の経験は極めてせまいので、いつものことながら平戸での実例である。戦時中、敵がい心をあふるために案出された気味の悪い標語「鬼畜米英」を誰でも思い出せるであろう。この標語暗示に最もひどくやられたのが、当時の学校児童であった。信者の欠席児童が多くて困ると、非国民としてのおしかりを、学校の先生から受けたので、私はどんな事情によるのかと、その児童たちを呼び寄せて、わけを尋ねて見て驚いた。「アメリカはキリシタンの国、わりどもはキリシタン、アメリカに行ってしまえ、日本から出てしまえ」と学校友達から毎日いじめられるので、学校に行く気色はしないというのが彼らの返事である。もちろん先生たちがそんなひどいことをさせたのではないが、ただえさえ、肩身のせまい思いをして、ひがみがちになる子供たちの十字架を思いやって、私は、ひとり苦しんだ。

 戦いは終わった。立ち上がらねばならぬ。私の最初の仕事は、信者の家庭生活を暖めさせること。学校児童を一日でも早く戦時中の悲惨極まる気分から解放し、思い切り明るく、活々とした子供たちに返すことであった。そのため告白と聖体拝領を頻繁に行わせ、聖歌を教え、聖堂の中で、特に日曜日のミサ中に、腹一杯歌わせることにつとめた。子供たちは歌った。黄色い声をはりあげて、顔という顔を真っ赤にしながら元気よく歌った。二三百人の子供たちが、信者でギッシリ詰まった聖堂の中で、勢よく歌う声々から、信者の心は次第に明るさをとりもどして行った。幸いにも司教様のお取り計らいで、コロンバン会の神父様方が応援に来て下さった。その時を期して、生きた布教活動は始まったのである。神父様方は、思う存分に子供たちの遊び相手になって下さった。

あやしい日本語をあやつりながらも、キリストの心を心とした神父様たちと、やさしさに感じ易い子供たちの心とは間もなく結ばれて、全くの仲よしになってしまった。そのように信者の子供たちがヤソ寺の屋敷で、毛色のちがった外国人の神父様と、手に手をとってはしゃぎちらし、飛びまわって楽しく遊んでいるほほえましい姿を、垣根のすき間からうらめしそうに眺めている者たちがいた。「鬼畜米英」の標語の暗示にいたましくも取りつかれていた未信者の子供たちである。それを見て直ぐ、ニコニコ顔で近づいて行ったのはさすがにキリストの宣教師である。

きまり悪そうに、逃げ腰になった子供たちと何やら問答している。あとで聞いてみたら、「アメちやんね」、「いや神父様だよ」と議論したという。信者の子供たちは、それを眺めながら何かひそひそ話しをしていたが、「◇君来いよ」「○ちゃんお出よ」と呼んでいた。間もなく鬼畜米英の子供たちも、遊び仲間に加わった。その仲間は日に日に多くなって行った。ボール投げをして聖堂のガラスを破るので、私は信者の総代さんたちから苦情を言われたが、どうにもしようがなかった。信者の子供たちよりも先にやって来て、二階の居室にいられる神父様を大声で呼び出しては一日中、神父様とたわむれたり、何かしら面白そうな話しを聞いている。そうしてうす暗くなっても帰ろうとせず、時には親が心配して連れもどしに来ることもあった。その外人の神父様たちが町に出て、道を歩いていると、平生神父様たちと親しんでいる信者や未信者の子供たちが、誰はばかることもなく、「神父さま!」と飛びついて来て両手にぶらさがる。神父さまたちは如何にも満足そうに、エヘンエヘンとほほえんでいる。この有様を眺めた信者たちは誇らしい気持ちになり、未信者は丁寧に会釈するようになり、私はかげから手を合わせて拝んでいた。これは大変なことになったぞ、聖霊が私………

 


  
   


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